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「遠いデザイン」第13話

 電話をかけるのは、夜にしよう。何時頃がいいのかな? 亮子は一人暮らし? それとも親と同居か?
 
 「電マル」のキャッチ案を萌子に送信しながら、七瀬は亮子に電話をかける作戦を練っていた。
ブロードバンドならではの軽やかさで、送信中のバーは一瞬のうちに画面上の空白を埋めていく。七瀬は萌子から預かったキャラクターの出力紙をまとめてゴミ箱に放り投げた。

 夜の9時あたりにかけるとして、場所はどこにしよう。自宅というわけにはいかないし、やっぱり事務所か……。

 紅潮した顔を目の当たりにし、亮子の愛を確信してから三週間。煩悶を力に練り上げたstoryはまだその輝きを失っていなかった。だが、それを外に向けて発表しなければ、正当な評価が返ってくることはない。何よりも、時間の経過とともに作品自体の新鮮みが薄れ、発表の意欲が萎えてしまうことを七瀬は恐れた。

「もう引き延ばせない。とにかく一日も早く決行するんだ。よし、明日だ。決めた! ぜったいに明日だ!」
 そう声に出して自らを鼓舞した。

 しかし、一夜明けて決行の時間が近づいてくると、迷いが生じた。事務所は仕事場なので、気持ちの切り替えができそうになかった。
そこで仕事を早く切り上げて、帰宅の道すがら電話をかける場所をさがすことにした。そして、いつもの帰宅ルートではなく、開通したバイパスの方へ回ってみた。
 道沿いにはDVDのレンタルショップ、イタリアンレストラン、カラオケボックス、ゲームセンターといった真新しい店舗が所々にできていた。七瀬は、以前、街灯すらなかったこの道沿いに、これから雨後のタケノコみたいに生えてくる様々な店のネオンサインを想像しながら、今日の記念日にふさわしい場所を求めて四方に目を走らせる。

 ただ不思議なことに、以前、何度か走ったことがあるのに、目にする風景に既視感がない。どこか知らない遠い街に一人迷い込んでしまったような錯覚すら覚える。七瀬は車を路肩に停め、自販機で買った缶コーヒーの栓を抜く。生ぬるくなった液体が喉をくすぐりながら胃の中に落ちて、咽せ返った。

 9時と決めていた電話予定時刻が迫っていた。亮子の顔もちらつき始める。気を落ちつけようと、タバコに火を点ける。背後では信号機のない直線道路を車のライトが矢のように飛び去っていく。
 運転席に戻り、再び車の流れに乗ると、前方から深まってきた闇を抱えて、サメの背ビレのような突起物が徐々に大きさを増して迫ってくる。その塔看板がピンク色に滲んで見えたのは周囲を縁取るネオン管のせいであり、もう店名が読みとれるまで近づいた七瀬は、示されたパーキングの矢印に従って車を徐行させた。ダッシュボードの液晶時計はあと十分ほどで九時になろうとしていた。

 県内最大級とは聞いていたが、そのショッピングセンターは暗い海に浮かぶ巨大な戦艦のように郊外の闇を計算された光のラインで切り取っていた。
 七瀬は正面パーキングに車を停めて、ドアの脇に立った。店舗のファサードに目をやると、四方の闇から光源に誘い出されてきた蛾のように、買い物客が出入り口に吸い込まれていく。その顔は、どれも束の間の幸福感の照り返しに揺れている。見慣れない場所の夜の時間に心細さを覚えなつつ、束の間の自由を与えられた気にもなった。

 七瀬は携帯電話を取り出して、大きく深呼吸をした。そして、電子の宝箱にしまわれていたその番号を呼び出して発信ボタンを押した。二、三度鳴っていた呼び出し音が四度目の途中で切れて、亮子の声が生まれた。

「えっ・・・・・・七瀬さん・・・ですか?、お久しぶりです。……どうしたんですか?」
 いつもの七瀬なら、その亮子の物言いが微妙な戸惑いを含んでいるのがわかったはずだ。しかし、彼は亮子の声を耳にした瞬間、何か心強い味方に再会したような高揚感がきざし、そんな彼女の感情の襞に気を回す余裕などなかった。

 そして、奥底に流れていた不安が、かけがえのないその存在を喜ばせてあげたいという欲動に変わり、胸を駆け上がっていった。彼の言葉は淀みなく口から流れはじめた。

「いま、電話いいですか? 川奈さん、じつは話したいことがあるんです!」
「えっ? ・・・ええ」
 明らかに言い淀んだ返答であったが、七瀬はすでにその先の言葉を用意してある。

「川奈さん、ぜひ、話したいことがあるんです。一度だけでいいですから、二人だけで会ってもらえませんか?」
 彼女は口をつぐんだ。その沈黙はしばらくのあいだ続いた。やがて、「そうですか、そうですか」という苦しげな反復が聞こえてきた。その搾り出すような口調は、七瀬の気持ちを暗転させ、この電話の結末を瞬時に悟らせた。

「あの・・・・・・申しわけないんですが、私、おつきあいしている人がいるんです。だから、ほかの人と、二人だけで会うのは、ちょっと・・・・・・」

 七瀬は声が出なかった。全く予期していなかった展開だった。もう、ここで終わろうと思った。つなぐ言葉が見つからなかった。
「そうだったんですか・・・・・・。では、もう、いいです。いいです・・・・・・」
七瀬はやっとそこまで言って、電話を切ろうとしたが、ある気配が指を止めさせた。亮子はまだ電話を切らずにいる。切る気配がないことが七瀬にも伝わってきた。

 オレが何を話したかったか、知りたいのか…?
 すごくためらいつつも、彼は自分の気持だけは打ち明けてしまおうと決心した。渾身のstoryはすでにさわりで破綻したのだ。それを瞬時につくり変えるだけの勇気も機知も気力も、今の彼にはなかった。
 七瀬はさんざん推敲を重ねたstoryの続きを電話口で読みはじめていた。

「ボクハ、川奈サンノコトヲ、好キニナッテシマッテ、今マデニ、コンナ気持チニ、ナッタコトハ、ナカッタンダ。ココズット、ソノコトデ、仕事モ、手ニ着カナカッタンダ。タダ、ソレダケヲ、ドウシテモ、キミニ伝エタカッタンダ・・・・・・」
 受話口からは「はい・・・・・・はい」という短い相づちが、時々聞こえてくるだけだった。
 
 電話を切った七瀬は、全身から一気に力が抜け落ちてしまって、しばらくその場から動けなかった。何も見えない闇の中に一人放り出されみたいで、自分の帰る方角がつかめなかった。微かな震えが収まらないまま、いつしか足が屋上へつながる車道を歩いていた。途中、上階から車が下りてくるたびにバウンドするライトが彼を洗っていった。
 
 屋上パーキングに点在する車は、闇の中にボディの色を失いながらも艶やかな光沢を帯びていた。かすかな熱気を孕んだ空気が流れている。
 七瀬は屋上のフェンスを巡りながら、自宅のある方角を確かめた。近くを流れる川も、その川岸に立つ高圧電線の鉄塔も、闇の底に沈んで見えないが、ただ彼方にある海だけはその存在がわかった。思い出したくなかったが、亮子の顔が何度も頭の中を巡り回っていた。それは時に寂しげに、時に苦しげに、時に笑みさえ浮かべていた。
 
 どれくらい時間がたったのだろう。車の出入りが途絶えていた屋上に突然、切り裂くような笑い声が走った。振り返ると、屋上の出入り口から数人の若い男女が躍り出てきた。逆光で彼らの顔は逆光は見えないが、一人の女のピアスだけが水銀灯の光を集めて遠い灯台のように瞬いている。
 車のドアが続けざまに締まる音がした。数回の空吹かしの後、急発進した車高の低い車が七瀬の前を過ぎる時、サイドガラスに一瞬、彼の歪んだ顔が映り込んだ。
 

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