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「遠いデザイン」第17話

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 雨雲の下に暗く沈んだ街が車窓を飛び去っていく。まつわりついていた日常の匂いが少しずつ離れていく。七瀬は座席の背もたれを倒してからだを楽にした。ここ数日は仕事が入る気配がなかった。それでも、朝、事務所に立ち寄ったのは鞄を置いて手ぶらになりたかったからだ。その足で新幹線に飛び乗ることに何のためらいもなかった。

 大学生になったばかりの七瀬が一人暮らしをはじめたのは国際港がある大きな街だった。住んでいたアパートは市街地を臨む、当時まだ開けていない丘陵地帯にあった。電車通学の学生たちは最寄りの私鉄駅で降り、商店街を抜けて大学まで通っていたが、彼はアパートから坂道を下りキャンパスへと向かったものだった。

 アパートと駅と大学はそれぞれ等間隔に離れていて、もし地図上に線を引けば、きれいな正三角形を結んだはずだ。高台にあるアパートからは当時まだ大きなマンションがなかった住宅街の先に、大学のグランドやら講堂やらが小さく眺められた。

 七瀬は新幹線から私鉄に乗り替え、母校の最寄り駅に降り立った。左手にはなだらかに下る商店街があって、その先にある大学に向かう七瀬とは二回りも年の離れた後輩たちが、通勤の人の流れが一段落した午前の通りに膨らんでいた。ただ、電車通学をしていなかった彼にはその商店街よりも、今、駅の正面に見える坂道の方が懐かしかった。

 家電部品の下請け工場や配送トラックの助手、喫茶店のウエイターと、きまって他の街でバイト口を見つけてきた七瀬は、夜、一人この駅前に降り立ち、目の前の坂道を歩いてアパートまで帰ったものだ。
 坂道は勾配がきつくなったり、ゆるやかになったり、所々に枝道をつくりながら、当時、彼のアパートがあった高台へと続いていた。

 七瀬は坂道に足を向けた。歩みにあわせて両側の風景がゆっくりと展開し始める。目の前に生まれてくる風景は昔と同じではなかったが、それでも時折、古い時間の名残を見つけると、その風景全体があるやさしさをもって記憶のフレームに重なってきた。新しい戸建てや集合住宅が目について、時間の流れを感じさせたが、坂道の勾配と見えかくれする木々の緑だけは、当時と変らぬ姿で立ち現れてきた。

 水滴が頬を伝った。彼は空を見上げた。雨粒が空の中心から広がりながら落ちてきた。それが髪や肩や靴先を濡らしていった。いろんなものに当たって音のするような雨ではない。ただ静かに、家々を電柱を舗道の木々を煙らせていった。商店がない住宅街の道を歩く人の姿はなかった。目の前には上り坂が、昔、歩いていたその道が続いていた。雨に湿った風景の中から匂いが立ち上がってきた。それはこの街の匂い、あの頃の匂いだった。

 坂道は途中で細い道へと枝分かれしながら、その先々にさらに別の住宅地を形作っていた。そんな曲がり角に近づくたびに、ブロック塀や垣根の裏側にまできているその存在に気づいた。やわらかに降り続く雨は、街の音を消し、舗道の脇の土の匂いや、木々や植物の匂いを温めながら上空に昇らせていく。

 彼は湿ったジャケットを脱いだ。そして雨に煙る坂道を見上げた。しかし、灰色の空と路面を分ける境界線に立つ人影はなかった。道はまた平坦になり、それから少し下り坂になった。そして最後の坂道を上がりきった高台にそのアパートはあるはずだった。彼はまた歩きだした。道は途中から緩やかに曲がりながら、その先の風景を隠している。

 彼は足を止めた。アパートが建っていた場所に出たのだ。しかし、そこにもう、その姿はなかった。同じ配置で二階建ての白い集合住宅が建っていた。ただ、道を挟んだ崖側のガードレールの外には雑草に根本を隠された木立が昔のまま残っていた。静かな雨が木々の梢を濡らし、緑のあいだに崖下の風景がかすんでいる。

 彼はその白い建物の前に立った。そして昔、自分の窓が空間に開いていたはずの二階のひと部屋を眺めた。窓ガラスに映る灰色の影が人のかたちになってこちらを見つめていた。その影は少しも動かない。ただガラスを流れる水滴が小さく弱い光のさざ波を冷ややかな表面に描いていた。
 七瀬はゆっくりと目を閉じた。もうそれが誰であるのかはっきりとわかっていた。からだから少しずつ雨滴が遠のいていった。空には光が生まれようとしていた。
 
 ガードレールの道沿いにコンクリートの階段があった。七瀬は下に見える国道伝いに駅まで戻ろうと、まだ新しい階段を下りていった。雨雲が切れだして、いつくもの陽光が筋となって家々の黒く湿った屋根を輝かせていた。米軍の跡地にできた大きな公園に目をやると、露光りする芝生に点在している人影が見えた。

 国道に出ると公園を囲むように新しいマンションがいくつもできていた。高台の道沿いにも、なだらかに駅へ下る傾斜地を造成して新しい住宅が建ち並んでいた。裏通りにあった古い商店や飲食店などが二層式の駐車場に姿を変えていた。

 この国道沿いの風景も、七瀬がいた頃とはすでに違う表情をまとっていた。そこには未来に希望を見いだそうとする人たちの生活にあふれていた。下校途中の小学生は、日々この街に自分たちの居場所を広げ、若い主婦たちが路上で交わしあう挨拶は、新しい言葉を求めて澄んで響いた。雨傘を畳んで軽やかになった足どりが舗道のいたる所に水しぶきを光らせていく。

 そんな人たちと入れ替わるように一つの役割を終えた老人たちの姿も、また目についた。老いた妻が座る車椅子を押している老人がいた。二人は言葉を交わすこともなく前を見つめ続け、車輪を伝う鋪道からの振動に身を委ねている。
 七瀬はこの老夫婦とすれ違った時に、この街に来た一つの意味を見いだしたような気がした。二人の目はもう遠くを見ていないが、近くだけを確かめ歩くその目には少しの迷いもない。

 駅につながる商店街の入り口までくると、大学生の姿が目についた。信号機を待つあいだも、彼らのからだはひそまることがない。友人たちとしゃべりあいながらsも、一つ先にある季節の胎動をそれぞれの目に映しあっている。彼らも、また以前の七瀬と同じようにこの街に選ばれた者たちだった。

 七瀬は交差点の車の流れを隠すたくさんの揺れ続ける背中の後ろに立った。自分をこの街に溶けこませてくれるものが何一つ見つけられなくなっていた。積み重なっているはずの時間の痕跡がどこにもなかった。そんな寂しさの中で、彼に近づいてきていたものの気配も消えていた。

 七瀬はあの坂道と自分のアパートのあった高台を思い浮かべた。それは、今し方、目にしていた風景とは思えないほど、すでに遠いものになっていた。
 もう、あの電話はかかってこないだろう……。
 七瀬はポケットの中のケイタイを握りしめた。

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