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「遠いデザイン」第8話

 週末の土曜日、七瀬は券売機の前に立ってプール利用券のボタンを押していた。運動から休眠状態にあった体が陽気にでも起こされたのか、突然ムズムズしはじめ、彼を何年かぶりに市営プールへと連れてきたのだ。どうせなら、人の汗や脂で汚れていない水に入りたくて、開館直後の時間を選んだのだが、水着に着替えて屋内プール場に出てみると、すでに外周を水中歩行で回り続けている女たちがいて、水面に反響するしゃべり声や笑い声が耳栓をしていても聞こえてきた。

 ただ、波だっているのは外周ばかりで、泳者がいないプール中央部は水しぶき一つ立っていない。七瀬はそこを一人悠々とクロールで泳ぎ出す。しかし、わずか二十五メートル先の対壁に手が着く前から、息切れし、筋肉が悲鳴を上げはじめる。それでも、水中歩行をしている女たちの視線が気になりもして、彼は不要な努力を強いられる。

 水中にはふくよかな白い足が何本も上下していたが、それを追い越すだけのスピードが出ない。最初、心地よかった水の感触もすぐに重い抵抗力と化して全身にまとわりつき、七瀬は体力の衰えを実感させられた。

 どうにか一往復し終えたところで、ぜいぜいする呼吸を整えようと、上下に揺れる女たちの背中についてプールを一周歩行する。そして、また泳ぎはじめる。そんなことを繰り返しているうちに、意外にも、二往復、三往復と、ノンストップで泳げる距離が伸びてきた。

 相変わらずスピードにこそ乗れないが、それは元来、彼が正しいクロールの泳法を身につけていないからであり、水と親和してきたからだの方は運動の快感に目覚めでもしたのか、肺活も心拍も筋肉も、ねばり強い動きをみせはじめる。まだまだ捨てたもんじゃない、と彼はバタ足の蹴りを強めた。

 底のペンキが所々剥げかかっているこんなぼろプールでも、定期的に通いさえすれば肉体の衰えに歯止めがかけられるかもしれない。いやそれどころか、再びこの体に筋肉の筋を浮かび上がらせることもできなくはない。そう思うと、七瀬は亮子に向かって泳いでいるような気になってきた。
 しかし、彼女がどこに立っているのか、その距離感がつかめない。そのうちにその距離が空間的なものでなくて、時間的な隔たりなんだと思えてきた。

 たとえ、今、同じ空間にいたとしても、若い亮子を取り巻いている時間は自分の回りに流れている時間とは明らかに異質なものだ。人が身を任せられるのは生まれ落ちた時に目の前にあった時間だけなんだ。そう思ったとたんにむせ返った息が、ひと塊の気泡となって水上に弾けた。

 一時間ほどして水から上がった。全身に疲労感を引きずりつつも、頭の方はすっきりと癒されて、心体の妙なアンバランスさが快感になった。温水シャワーを浴びてから、腰にバスタオルを巻き付けてロッカーのカギを回していると、中からケイタイの呼び出し音がか細く聞こえてきた。

 土曜日は事務所にいても、ほとんど電話などかかってこない。希に鳴る受話器を取れば、聞こえてくるのは同様に休日出勤を余儀なくされたメディア通信社の連中の声ときまっていて、必ず「おっ、おった! おった!」を連呼する。仕事の発注ではない。相談があるからといって呼び出して、昼飯をおごらせようとするのだ。
 三谷課長か? それとも室長だろうか? 舌打ちしている間に呼び出し音は留守録に切り替わり、ピーッという音とともに静まった。

 七瀬は扉を開け、衣類をかき分けてケイタイをつかんだ。小窓に、伝言メモあり、と出ていたが、090ではじまる着信番号に心当たりはなかった。
 すぐにメッセージを聞こうか迷っていると、入口のカーテンを勢いよく引いて体格のいい若い男が入ってきた。男は派手な音とともにロッカーの扉を開放し、短パンのポケットからキーホルダーやらサイフやらを取り出して、無造作に中に投げ込みはじめる。引きちぎれそうなくらい引き伸ばされたTシャツの下から、蝶のタトゥーが舞う骨太の肩口が現れる。

 狭苦しいロッカー室がさらに居心地の悪いものになり、七瀬は急いで奥から衣類を引っぱり出す。体にはまだ拭ききれていない水気が残っていて、ジーパンの布地が肌にひっついてスムーズに腰まで上がってこない。それでも男より先にロッカー室を出て、玄関横の休憩所でひと息つく。

 同じ館内にある入浴施設の利用者なのだろう。休憩室にはプラスチックの洗面器を膝に置いた年配の男女が濡れ髪の頭を揃ってテレビ画面に向けている。今日は土曜日ということもあって、若い女の姿もちらほら見えた。
 七瀬はテレビから流れる大リーグ中継のアナウンサーの声に送られて玄関を出た。歩きながらケイタイを耳に当てて再生ボタンを押してみる。
「お世話になります。JAの川奈です」
 耳に飛び込んできた柔らかな声に絶句した。想像もしていなかったが、留守録に入っていたのは亮子からのメッセージだった。

「お伝えしたい件があってお電話しました。また、のちほどご連絡します」
亮子に渡した自分の名刺にはたしかケイタイの番号も書かれていたはずだ。ただ、土曜日はJAも休みのはずだが……。チラシ校正の返事は月曜日の約束だったが、その二日が待てないほど、何か大きなトラブルでもあったんだろうか?

 そう考えるのが自然だった。七瀬はすぐにその発信元に折り返してみた。呼び出し音一回で亮子は電話に出たが、その時、彼女が口にしたことは、彼が思わず、なぜ?と問いかけたくなる内容だった。
 たった一箇所、文字の間違いが見つかっただけだと?
 だけど、印刷の現場を知らない彼女なら仕方がないことかと、考え直した。不安が去って込み上げてきたのは、携帯電話の中に亮子の声が残せたという単純な喜びだった。

 思ってもみない拾いもの……。七瀬は秘密の宝物でもしまい込むように、亮子の携帯電話の番号をそそくさと電話帳に登録した。そして今度は、その声の響きや音色を楽しむためだけに、もう一度、再生ボタンを押してみた。
 道路向かいにあるスレート壁の鉄工所も今日は物音一つ立てていない。信号待ちの車列の中に社用車は一台も見えない。犬を散歩している家族が七瀬の前をゆっくりと行き過ぎる。そんなのどかな週末の風景を目にしていると、今聞いた亮子の声が何か特別な親しさをもって彼の耳に反復された。

 駐車場に出て車に乗り込む前に、七瀬はもう一度、ケイタイの画面に亮子の番号を示してみた。すでに頭上に昇りきった太陽の下に、かき消えそうなくらいに弱い十一桁の数字の並びがあった。
 

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