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「遠いデザイン」第11話

 最初、横に立ったとき、気づかないふりをしたのは、自分のジャケットの袖を誰か別の男のものと勘違いしたのだろう。JAの中に避けている男でもいるのか? 言い寄ってくる男は一人や二人ではないかもしれないが…
ハンドルを握りながら、七瀬は、資料室での出来事を冷静とらえようとしつつ、興奮に頬がゆるんでくる。亮子の紅潮した顔、それは七瀬には自分への好意の裏付けと映った。

 これでわかった。あの土曜日の電話も、オレを睨みつけた男たちの視線も、三谷の話の真偽も。すべてあの紅潮した顔が語ってくれたじゃないか。
 
 この年であんな若い美人に惚れられるなんて、なんてラッキーなんだろう。ただ、それは自分がモテるというのではなく、奇跡的に亮子という女性に巡り合えただけのことだ。自分の魅力をわかってくれる稀少な女性。それは地中深く眠っていたダイヤモンドを掘り当てたようなものだ。
 
 元々、どこかに燃え残っていた火種があったのだろう。その日を境にして、七瀬は亮子という女性を再構築しはじめた。何一つ客観的な情報を持っていなかったので、主観だけで中身を自由にアレンジできた。
 
 広告業界という濁流に流され続けてきた七瀬にとって、亮子は穏やかな浅瀬となった。彼はもう流されたくなかった。亮子という岸辺にとどまっていたかった。
 生涯にただ一人の例外的な女性、それが再構築のテーマとなった。情熱を注ぎ込んだだけのことはあって亮子の外観にふさわしい中身ができあがった。そのイメージは七瀬の心のすきまを温かく埋めていった。
 
「ねえ、七瀬さん、どこか具合でも悪いの?」
 最近の七瀬に、そう声をかけたくなるのは何も美紀ばかりではない。
 仕事を依頼しても気乗りしない声が返ってきたり、打ち合わせの時も必要な資料を忘れてきたり、筆が走らないのか、納期さえ守れなかったり、端から見てもその失速ぶりは甚だしかった。
 これじゃあますます仕事が先細っていくだろうな、と心配顔の美紀の横で、七瀬は亮子のことを打ち明けてしまいたい衝動にかられる。
 
『えっ、七瀬さん、悪いの、浮気しようとしている』
『藤村さん、ちがうんだ。浮気じゃないから、こんなに苦しいんじゃないか』
 
 重い足どりで帰宅した七瀬は、玄関ドアの鍵穴に差し込んだキーを力なく回す。十数年前、郊外に土地を買って建てた三十年のローンの家だ。補助灯の明かりだけがポツンと残るリビングには空調の名残りが微かに残っているが、妻子が眠っている二階の寝室からは物音一つ聞こえてこない。
 シャワーを浴びてから、いつものように作り置きしてある夕食を電子レンジで温め直す。空気を吸い込むような音とともに料理を載せたターンテーブルが回転をはじめ、油に曇ったガラス扉を透かせて薄暗いキッチンにおぼろげな光が回る。七瀬は缶ビールのプルタブを引いてリビングのソファに体を投げた。
 
 亮子に愛を告げる。
 
 はたして、そんなことができるだろうか? そして、万が一、奇跡みたいなことが起きて、彼女がオレの告白に応えてくれでもしたら・・・
 
 妻との離婚、それにともなう慰謝料や月々の子供の養育費、そんなものを払ながら、彼女と新しい家庭を築いていけるだけの財力があるのか? やがて介護が必要になる年老いた両親の心労、妻帯の身でありながら仕事先の女に手を出したという背信、その報いとしてメディア通信社からの仕事の打ち切り、芋ずる式に出てくる問題はどれもが解決不可能に思えた。
 
 ビールと一緒に口に運ぶ料理の味が、馴れ親しんだ平凡な夜の時間へ引き戻そうとするが、七瀬は酔いの回りはじめた頭でその続きを考えた。

 いや、それらの大半はカネで解決できる問題じゃないか。そうだ、これを機会に、大学の経済学部時代に一度はつくったビジネスの仮面とやらを使ってみたらどうだろう。もうすっかり埃をかぶっているかもしれないが、この年からでも似合わなくはないはずだ。そう、フリーという浮き草気分を捨ててきちんと起業する。スタッフを抱えて仕事をどんどんとってくる。広告代理店頼みの体質から脱してクライアントと直取引をする。そうか、利益を上げる方法なんていくらでもあるじゃないか。

 しかし、そんな強引な鼓舞が長続きするはずがない。アルコールが抜けてカーテン越しの光が瞼の裏に届く頃になると、自分を冷静に見ているもう一人の自分がいた。
 
 また、日常にはいくつのもの覚醒が潜んでいた。郵送されてきた税金や生命保険の振り込み用紙、物干し竿に回っている自分の白いワイシャツ、ファミリーレストランで口にする一杯の余分なワイン、タンスの引出しにきちんと畳まれてあるハンカチの束、補助輪を外して走る娘の自転車を支える時の重み、そんな生活のつつましやかな切れ切れが、熱病に浮かされた中年男に何度も冷水を浴びせかけた。それでも月の満ち欠けが引き起こす磁力に動かされるように、亮子のことを強く夢想する夜もあった。ふいに目覚めて読書灯を点すと、子供を挟んで寝返りを打つ妻の背中が仄白く浮かんだ。

 しかし、七瀬の潜在意識は、彼の気づかぬうちにこの現実と折り合いをつけてくれていた。それは一編のstoryの形となって妥協を迫った。失うものを最小限にとどめながら、同時に未来へささやかな希望をつないでくれるstory。それはこんな筋書きだった。
 
 まず、亮子に電話をかける。そして、どうしても話したいことがあるから、一度だけでいいから会ってくれないかと告げる。そう、場所は静かな音楽が流れるワンショットバーなんかがいいだろう。間接照明ならくたびれた顔もごまかせるし、年輩客が多い店ほどオレの若さが際立つだろう。適当な店を下見しておかなくては。そして彼女が指定した場所まで車で迎えにいく。服装はカジュアルなものにして、白髪も目立つほどではないがヘアカラーで染めておく。疲れた顔を見せないように前日には充分に睡眠をとること。栄養ドリンクなんか飲んでおくのもいいだろう。そしてきれいな色のカクテルに目を落としながらこう切り出す。

『驚かないで聞いてくれ、じつは、オレ、川奈さんのことが好きになってしまって……。もう仕事も手に着かないほどなんだ。妻子がいて、いいトシをして、こんなことを言い出すのは恥ずかしいし、勇気がいるんだけど、どうしてもこの気持ちを伝えたかったんだ』

 ここまで言って、もし妻子がいてもかまわない、つきあってもいいと、言われでもしたらどうしよう。

『でも、キミは若いし、その若さに見合う相手とつき合った方がいい。その方が幸せになれるはずだ。オレはもう充分なんだ。キミを好きになったこと。そして、その気持ちを、今夜、伝えられたことだけで・・・』
 
 どんなに強い愛情で結ばれた二人でも、ひとたび夫婦となってしまえば、その先にあるのは衝突とその憎しみを忘れる時間の連続でしかない。純粋な分だけ、亮子は自分の気持ちをストレートに相手にぶつけてきそうな女だ。本来は若い男よりも、まあ、人生経験のあるオレみたいな中年の方が、それを受け止めるクッションの柔軟性は勝るといえるが、もう、そんなことはどうでもいい。何があっても、彼女との結婚だけは避けなければならない。夢と現実、その両方を失わないためにも。

 そして、最後につけくわえる言葉。

『でも、もし、これから五年後、十年後、いや二十年後でもかまわない。何か困ったことがあったら、迷わず電話をください。その時は力になります。自分ができる全てをもって』
 
 技巧や洗練とはほど遠い、ただ単純なだけのstoryだったが、不器用で遊びなれていない七瀬にはこれがせいいっぱいだった。そして、自分がこれから打ち建てようとする亮子との恋愛の記念碑に、電話を待つ楽しみ、という将来にわたる”希望“が付いたことに満足した。

 まてよ、もしかしたら彼女はまだ処女で、オレとつきあう気はないものの、それを捨てる相手としてシグナルを送ってよこしてきた、という可能性もゼロではない。つまり生理的な衝動としてだ。
 もし、そうだとしたら……それは、さらに付加価値が高くなる。まさにオレと亮子との記念碑に、希少な刻印をつけ加えることができる。そう考えると七瀬は戦慄した。
 

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