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2023年→2024年概論

 2023年、さてどんな年だっただろうと振り返るにあたって、2022年が終わる時に書いたnote(今は非公開)を見返してみた。

勉強がしたい、アカペラがしたい、歌うのが楽しい......ような気がする?その志、ホントにあなたの本心ですか?あれをやらなきゃこれをやらなきゃ、あれもしたいこれもしたいしあれも楽しいこれも楽しいという気持ちは、今まで育ってきた環境とかの結果の刷り込み・条件反射じゃないと言い切れるのか?(だとしても何だみたいな話をしています)

そういうわけで2023年の抱負は「発見」です。私が本当は何をしたくて、何ができて、何を思っているのか?どういう哲学に立脚して生きると幸せなのか?私の世界観とは?キャラクターとは?日々に小さな幸せや変化や意味を見出すことでも、日々が楽しくなるかもしれません、てか多分そう。でもきっと考えているだけじゃ私の見つけたいものは見つからない。というか多分1年で御大層なものが見つかるとも思えないんだけど、でもこれ見つけようとしてかないと、真の意味で大人にはなれない気がしています。

 2022年はだいぶ苦しんで終わったような記憶があったが、大体合っていたようだ。それに比べて2023年を終える今は、「なんかいい1年だったなあ」という感覚が強い。思い返してみれば、確かにそれ相応の重みというか密度があった気がする。私がこの1年で、いったい何を「発見」したのか、少し書き出させてほしい。


2023年、こんな発見

2-3月、海外

 2-3月にかけての2週間で、カリフォルニアに短期留学に行った。高校の時に行くはずだったプログラムがコロナで流れてしまい、自分と海外の相性みたいなものを、ずっと計りかねていたのだが、今年初めて日本以外の土地を踏むことができた。短期間ではあったが、毎日よく学び、よく歩き、よく話しみたいな生活を送るうちに、どうやら私は私が思っているよりはるかにゲンキらしいということに気づいた。この場合の「ゲンキ」とは、「心身が健康」といった意味だけではなく、「エネルギッシュに活動できる」的な意味を含んでいる。そのぐらいに、自分でもびっくりするぐらいの、高密度な2週間を過ごした。
 もうひとつ、大きな気づきを得たと感じているのが、「私は日頃、誰のための・何に対する遠慮なのかわからない遠慮をしているのではないか」ということだ。滞在先の大学からアパートへ戻るバスの中で、「この人(乗客)って、私が日頃『あれをやったらこう思われるだろう』とか『あれを言ったらこう思われるだろう』みたいな推論が、全然当てはめられないんだよな」とボンヤリと考えていた。それは文化や思想の違いといった要因もあるし、海の向こうの大陸でたまたま同じバスに乗り合わせ、もう二度と絶対に会わないであろう人々が、この国にあと3億人もいて、私が何か「遠慮」をしたとしてそれがこの人たちに何の影響も及ぼさなかった場合、それは本当に無用の遠慮になる…しかし普段私が日本で何か「遠慮」しているとして、それは果たして有用なのだろうか?
 有り余るエネルギーの赴くままに、無遠慮に過ごしてみたらどうなるのだろう?この地球には72億人もいるのだから、1億人にそっぽを向かれてもまだ71億人いる。自分でもびっくりするようなガバ理論だが、もっと自我を出して、やりたいこと、自分の心に忠実に生きてみてもいいんではないかという気になった。

4月、対談

 4月、2年の春学期は東大生が最も暇になる時期である。この期間にハマったのが「対談」だった。その人の専門分野や考え方について、ちょっと深掘りして聞きたいことを聞く、という主旨で、いろいろな人をご飯に連れ出したり、お世話になった教授にアポを取って話しに行ったりした。話しているうちにだんだんその主旨から外れて、自分の人生相談をしている気分になっていった回も多かったのだが、他人に自分のことを話させるためには、まず自分が自己開示しなければならないということに気づいた。おもしろいのが、自分で自分のことを言葉にして初めて、私こんなこと考えとったんか、と気づいたことが何度もあったことだ。聞き手もしくは場の状況に要請されて初めて、自分も相手も自分のことを言葉にする、そうして得られる発見は、「自己の知らない自己(のエッセンス)」なのかもしれないと思った。これが、人が人と関わり合って生きる大きな意味なのではないか、と思った。

7月、付加価値

 7月、「全ての出演バンドに必ず1曲は私がアレンジした曲を歌ってもらう」というコンセプトで、『付加価値』というアカペラライブを主催した。詳細は割愛するが、どんな企画で・どんな準備をしてといったことを、以前記事にまとめたので、気が向いた人は読んでみてほしい。

 このライブで感じたのが、「私って愛されている!」ということだった(そこのあなた、こいつは何を言ってるんだという顔をしないでください)。無名の2年目アカペラーが主催ライブをするなんてトンチキなことを言っているのに、いろいろ助けてくださったA-realizeの杉村さんや武田先生、面白そう!出たい!と言ってくださった出演バンドの皆さん(と出演を検討してくださったバンドの皆さん)、観に来てくださった方々、当日手伝ってくださったLaVoceのみんな、ライブハウスの方々、本当にたくさんの人が力を貸してくださって成り立った1日だった。今でも全ての人に感謝しているし、一生忘れない出来事だと思う。最後の挨拶でステージに上がって、会場いっぱいの人を見た時は、「私は世界を愛しているし、私も世界に愛されているな」などと訳のわからないことを思った覚えがある。

8-9月、日本半周

 8-9月にかけて、1ヶ月かけて東京から日光、東北太平洋側、北海道東部、北陸、紀伊半島を回って東京に戻るざっくり日本半周旅をした。茨城の古河までは日光街道を歩き、その後は主に鉄道、たまにフェリーで移動した。この旅についても、いずれ別記事に書き残しておきたいのだが、この1ヶ月で感じたのが、「日本ってでかくてすごい(雑)」ということだった。もちろん旅の通過点として、1泊やそこら過ごしただけでは、「その土地を知った」ことにはならないのだが、どんなに遠く移動しても、どんなに深い山中を走っていても、しばらくすれば集落や街が現れ、人々の暮らしが垣間見えることが、日本という国の多様性、懐の広さのようなものを表していると思った。今はどう考えても人が住む場所ではないように思えてしまうような集落も、そこに最初に住んだ人がいて、実際に暮らしが営まれ、発展のドラマがあり、そこで人が生まれて受け継がれてきたものであるはずだ。蔑ろにされて良い暮らしなんてひとつもあるはずがない、そして、日本にこんなにたくさんの生活の場があるのなら、どこかは自分が生きていける場であるはずだ、そしてそれは全ての人に言えることであって、その人なりに良い暮らしを営める場は、日本のどこかには必ず用意されているのではないか、という錯覚を得た。
 旅については、まだまだ答えの出せていないことが多い。けれど、今回日本の「大きさ」を思い知ったことは、自分にとってかなり大きな発見だった。国内旅行が面白くないとは、絶対に言わせない。

10月以降、出会い

 10月以降は学科もサークルも全てが激動で、毎日がハイライトだったと記憶しているが、信じられないぐらい良い人との出会いがあったことも、大きな出来事だった(彼氏ではありませんよ)。
 何がそんなに印象的だったかというと、「このタイミングで、このコミュニティで、この出会い方で、今の私の在り方とこの人の在り方じゃないと仲良くなれなかっただろうな」と思うような、針の先ほどの奇跡のような出会いをしたと思っていることだ。今までの人生で触れてきたものの、あらゆる伏線が回収されている、という錯覚さえ覚えるような、「今までの選択でひとつでも違う方を選んでいたら、この出会いには辿り着かなかったんじゃないか」と思えるような。でも、現実はそこに辿り着いてしまったのだ。

 もちろん出会い自体も大切に思っているのだが、それと同じぐらい、人が生きていく中で通ってきたものと、そこから得た経験や思想、そのひとつひとつが伏線となって、他の人に繋がれている(= 出会いを生み出している)ことの、面白さというか不思議さというか尊さみたいなものを、強烈に認識したことが、自分の中で大きな発見だった。紙一重のような経験の積み重ねによって、その人が今のその人たり得ていること、あらゆる人に奥行きが存在し、しかしそれは出会いの状況やタイミングによって、検出できたりできなかったりすることが、世界を面白くしている。新しく人に出会った時、その人に奥行きの気配を感じ、その奥行きの内部が、どのような構造になっているのか、不躾ながら知りたいと思った衝動の末にあるのが、「対談」なのかもしれないと思った。

 それから、まだ迷いもあるし暫定で大雑把ではあるが、好きな学問・好きな音楽を発見できたことも今年の大きな成果だった。都市工学もジャズも、面白くて好きだという直観がある。まだ気を抜くと振り落とされそうな感じがしているが、せっかく掴みかけている/そのチャンスを与えられたものなので、絶対に手放すものかと思っている。あとはJJWというコミュニティとの出会いがシンプルに良かった。みんないい人たちで、23年度の解散は本当に寂しかった…練習して上手くなることぐらいしか恩返しが思いつかないので、とりあえずもっとズブズブ沼にはまっていこうと思う。

 「発見」というテーマ(?)で生きていたからというのもあるが、もちろんここに書ききれないほど大小さまざまな出会いがあり、発見があったと感じる。言うまでもなくこれらは周りの人や環境あってのもので、本当にありがたく尊いことだと、人生で1番強く思った1年になった。

2024年、こう生きる

 この1年は、あれがやりたいだのこれはやりたくないだの、積極的に発言するようにしていた。自我を出せば、離れていく人も出てくると思うが、そんな自分とでも、一緒にいてくれる人を大切にする方が、わかりやすいし、自分にとっても負担が少ないと割り切っていた。しかし驚いたのは、にもかかわらず友達が(たぶん)あんまり減らなかったことだ。みんな本当に懐が広いというか何というか、私はこんなに周りの人に恵まれているんだと、ことあるごとに痛感した1年だった。仲良くしてくださってありがとうございました。ご迷惑をかけた方々、すみません。


 この1年で自分のことはだいぶ分かってきたような気がしている。何が大切で、何が許せなくて、どんな自分が好きで、どんな音楽が好きか。やってみたいこと、行きたいところ、作ってみたいもの。

 しかし今は、「自分のことは分かってきたけど、世の中のことは全然わからない」と感じている。そんなの大人だってわからないよ、でもみんな何とか生きていけてるよ、と言うかもしれないが、私の体感としては「自分が何とか生きていけると思うレベルにすら、世の中を知らない」と思っている。


 世の中、という言葉を私はかなり広い意味で使っていると思う。礼儀やマナー的なもの、政治や経済の仕組み、現代社会で使われている科学技術、文化、個人の生き方、働き方、思想、そういったもの全部含めて「世の中」だと思っている。「自分の身体より外側にあるもの全て」と言うのが正確かもしれない。

 それなら尚更、「世の中」を理解しきるなんて不可能だと思うかもしれない。私だって、上に挙げたもの全部を理解することは一生かかっても無理だろうと思う。でも、学ぼうとすればそこに進歩は生まれる。完璧には永遠に到達不可能だとしても、前よりは「世の中を知っている」状態になれるはずだ。

 或いは、「世の中を知らなくても、何とか生きていけるのだ、と信じられる術を身につける」か。

 今私が思っていることは、多分全て間違っているんだろうと思っている。「私は世の中を知らない」も、「私は世の中を知っている」も、「大人は世の中を知っている」も、「大人は世の中を知らない」も、「世の中は理解可能である」も、「世の中は理解不可能である」も、どれも偽であるように感じる。では一体何が真なのか?どうしたらその真が判別できるのか?というか、「真」は存在するのか?

 前置きがかなり長くなってしまったが、2024年のテーマは「錯覚」である。上に挙げたような「錯覚 (≒ 思い違いをしていそうなこと ≒ 不安定な見方であること)」は、本当に錯覚であるのか?どれかは正解なのか?もしそうなら、それをどのように判断するのか?2023年、自分の感情に忠実に生きた結果発見したものたちの、真贋を確かめる時間がほしいと思う。
 錯覚が真実であるかは一生わからないとしても、ぐらぐらな錯覚を、確固たる錯覚にすることはできる気がする。

 もうひとつは、いかにして「自分は何とか生きていける」という錯覚に、意図的に陥っていけるか。いかにして「自分は自我を前面に出した在り方でも、世界に愛されている」という錯覚を保ったままいられるか。

 この1年で自分を取り巻く/自分の中にある「自己への愛」「人/人々への愛」のようなものの形が、より鮮明にわかるようになったと感じる。しかし同時に、これらは必死に守っていかないと、再び失われてしまいそうな予感がしている。なぜなら、それらは私の人生19年間で徐々に失われたもの、もしくは、育てることができなかったものであるからだ。私にしっかりと根を下ろしているとは、おそらくまだ言い切れない。ロウソクにやっと点った火種を、消えないようにと手で囲って安定した炎にするような、そんな時間がほしいと思う。

 今もっている「錯覚」を自分の中で確固たるものとする、或いは棄却することと、新たに構築することで、自分が生きやすい「錯覚環境」的なマインドを作り上げること。それが、世の中を渡り歩いていくために、私に必要なものなのではないかと思っている。ただしその環境は、錯覚によって構成されていることを、自覚していたとしても、自分が没入できるものでなければならない。


 ここで困るのが、周りのみんなを自分の「錯覚」とやらに引き摺り込んでしまうこと…けれど、もしこんなところまで読んでくださっている人がいたら、よほどの物好きだと思う。私と知り合ったことが不運だったと思って、引き摺り込まれてほしい…もしくは、私のまだ出来立てでガバガバな錯覚環境を、一緒に補強してくれるか、破壊するほどの鋭利さをもってぶつかってきてくれるか。
 2024年もたくさんの人と出会って対談したいと思う。どうぞよろしくお願いいたします。


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