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お膳立て。

一人暮らしの部屋、仕事から帰り
いつものように鍵を開けてドアを引くと
部屋に灯りが点いている。
甘酸っぱく美味しそうな匂いに一瞬で包まれて
胃を素手で逆撫でされるようで鳥肌が立つ。

1Kの狭い部屋だ。
あっても無くても良いようなタタキと
数歩分の廊下に小さなキッチン。
そこで綺麗な女性が料理している。
俺と同い年か少し上に見えるが
まぁ、それを知る必要は俺にはない。

ドアを開けてすぐに「ただいま」と言いながら
エレベーターで一緒になった隣の部屋の男性に
軽く手を挙げてみせる。
うなづくように応えながら
彼は俺の部屋の前を通り過ぎた。

少し慌てた様子で「おかえりなさい」
と言う言葉に被せ気味で
「今日いつもより遅いんじゃないですか?」
と聞くと
「ごめんなさい、今日は帰りが遅いかと思って…」
と少し申し訳なさそうに言い、
鍋の火を止めて手を洗い始めた。
確かに週末、しかも月末となれば
残業は免れない事が多い。

「すごく良い匂いですね」
「大輔さんの好きなチキン南蛮だよ。
   もうすぐできあがり」
「わー、ビール飲みたくなっちゃいますね」
「大丈夫、ちゃんと冷やしてあるよ」
「一緒に飲みましょう。貴女の分も買ってきますよ」

そう言い終わる前に
彼女がこちらへ大きく一歩踏み出そうとした瞬間
するりとドアの隙間から外へ出て
急いでドアを閉める。

ドアの横で待ってくれていたお隣さんが
一緒にドアを押さえてくれた。
「ごめんね、こんな事頼んで…」
部屋の中からドアを叩き、開けようとしながら
俺の名前を叫ぶ女の声が
マンションの廊下に響き渡る。

はじめまして、しらないひと。
勝手に俺の部屋で夕飯準備しないでください。


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Radiotalk 【ちっさい声でごめんよ。】
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