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そこにはどんな愛があったのか

小学校5年生の時の、父親参観日での話。

あれは6月の父の日だったかな。土曜日だったと思う。3コマある授業のうち、1時間目は通常の授業、2時間目は授業参観で、そして3時間目に親子で一緒にワークショップをする。そんなスケジュールだった気がする。

1時間目からみんなソワソワしていた。お父さんが学校に来て、45分間の間ずっと教室の後ろから授業を見ているのだから。緊張だってソワソワだってする。

2時間目の授業になり、教室に入ってくるお父さんたち。僕ら子供たちも一気に緊張が走り始めていた。
授業が終わりに近づくにつれて先生がつまらない冗談や笑いを入れはじめ、その影響で一気に空気がほぐれたのか、教室内はアットホームで和やかな雰囲気に変わっていた。あっという間に2時間目が終了した。

そして3時間目の開始のチャイムが鳴る。

開始と共に、先生が僕たち一人一人に一枚のA4のザラ紙を配った。詳しい内容は覚えてないが、ワークショップに使う用紙で、記入項目がたくさん書かれていた。親子で一緒に作業して完成させる、簡単なワークショップ。親子間でのコミュニケーションを発生させ、親密感を深めることが目的だった気がする。テキパキと真面目にやれば、所要時間なんてほんの20分程度だったけど、45分間丸々使ってゆっくりやってくださいね、的な意図が込められていたのは小さいながらも理解していた。

シートを配り切り、概要を説明し終えた先生が、

「はい、では後ろにいるお父さんたち、お子さんの席へ行って一緒にワークシートを完成させてください。各自のタイミングで、始めてくださいね!では気をつけて、ゆっくり席までご移動ください」

とアナウンスした。

一斉に賑やかな雰囲気になり、ワークショップが始まった。


父親のいない僕の家庭は、母が来てくれていた。

席に来た時、身長150センチという小柄な母はしゃがんで僕に寄り添うことなく、立ったまま少し上から僕を見下ろすポジションで一緒に作業に取りかかった。時より指摘や指示を出してきた。

早速作業し始めた時、なんだか僕の心がモゾモゾしていた。

(そうだよな、みんなお父さんが来てんだよなぁ…)

そんなことを思い始めていた。

周りの視線を気にしながら、僕の机にはお父さんがいないことへの違和感や劣等感、そんな感じの何かを感じていたと思う。

当時の僕はわずか10歳。空気を読むことなんて、するわけがない。デリカシーのない、わんぱくな少年だった僕は一旦周りを見渡すと、

「みんなお父さんだねー」

と、ボソッと独り言のようにつぶやいてしまった。母に聞こえていたかは不明だ。

しばらく母と一緒に作業をしていた。
そして、何を書いていいのか分からない項目が出てきたので、親指と人差し指に挟んだHBの鉛筆を振り回しながら、あれこれ考えていた。

その時、A4のシートの上に液体のようなものが落ちてきた。

「ん?なんだこれ?」

考え事に集中していた僕は、そんな事よりもワークショップに夢中だった。その液体を気にする事なく、小指でA4の紙に擦り付けた。乾くまでの間、紙がふやけたようにグニャッとなった。破れないようにそっと紙を扱いながら、ワークショップを進めていた。

そして、

「ねぇ、母さん。ねぇってば。ここなんて書けば…」と言って、母の顔を見上げてみた。

母は泣いていた。

ハンカチで目の下半分を覆い隠すように泣いていた。
溢れんばかりの涙を抑えるように、周りから泣いてる姿がバレないように。
必死になって涙を隠すかのように、泣いていた。

「もー、また泣いてるの?」と僕が言うと、

「ほら、お母さんのことはいいから。ここにちゃんとこう書きなさい。ほら、早よ書かんね」

鼻を詰まらせ、鼻声になった母がそう言いながら、机の横にしゃがみ込んできた。目が真っ赤だった。目のやり場に困ったのか、僕とは目を合わせずにワークシートをじっと見つめていた。


その後の記憶はない。
あのワークショップがどうなったのか全く覚えていない。完成したのか、途中で終わったのか、分からない。記憶がないということは、たぶんどうでもよかったのだろう。

これまでいろんな場面で母親の涙を見てきたけど、あの時の涙は特に印象的で、ずっと記憶の片隅に残っている。

あの授業参観日、母親はどんな思いで参加していたのだろう。
参加する前の心境はどんなものだったのだろうか。
教室に入り辛かったのではないだろうか。
本当は僕の席まで来たくなかったのではないだろうか。

父親の代わりをしないといけないと、パートを休んで、溢れる涙を堪えてまで、僕のために来てくれたのだろう。息子に恥ずかしい思いをさせたくない、そんな思いもあったのかな。

いろんな思いが交錯する。

あの時は父親が亡くなってちょうど1年経ったぐらいの頃。母親の気持ちも整理できている状態じゃなかったはずだ。
何年も連れ添った優しい夫を病気で亡くし、失望感や空虚感、そして子供である僕に対する罪悪感も想像を絶するほど感じていた頃かもしれない。朝からパートに出かけ、必死に働き、10歳の僕と12歳の兄を育てていた母。そんなことを思うと、なにも言葉が出てこなくなる。

「みんなと違って、うちにはお父さんがいなくてごめんね」
「本当はお父さんが来るべきなのにね、ごめんね」
「母親なのに何もできてあげれなくて、ごめんね」
「こんな場所に来てまで泣いてしまって、ごめんね」
「辛い思いさせて、ごめんね」

そんな思いが伝わってきたように感じた。罪悪感だったのかな。

あれから25年。

あの日、あの教室で、あの席で起きていたこと。
それは紛れもなく美しい愛の物語が流れていた、ということ。

あの母の涙が意味していたこと。
それは単に父親失った悲しみの涙なのか。いや、違う。そうじゃない気がする。25年経った今でも、息子の記憶に留まって、真実の愛を伝えるための涙だったのかもしれない。親子の愛を証明するための、繋ぐための、深い意味が込められた涙。

あの出来事が僕を強くし、肯定し、前に進めてくれた。
これまでも、これからも。あの記憶と共に、僕は生きていくんだと思う。


「その物語にはどんな愛があったのか」
「愛で問題を見ていくこと」

最近、心理学の師匠である根本裕幸カウンセラーが言っていたこの言葉。この言葉を聞いて以来、ずっと僕の心に響き渡っている。心の中に何度も何度もこだまして、日を追うごとに僕の身体にじんわりと染み渡っていく。そんな感覚がある。

心の中で何かが変わり始めている気がする。

あの時の母親の涙は、一生忘れることはない。

心理カウンセラー フミ

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