組立工

粉塵もくもく身に浴びてひとり平和の色染める

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  • GPZ900R メンテナンスノート

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  • アドレスV125G メンテナンスノート

最近の記事

НОВОСИБИРСК

深夜、上段に来た夫人はニーナさんといった。オムスクへ帰省するらしい。早々、彼女は我々に家族の写真を見せてきた。これが息子、これが孫たち、孫はまだ小さいけれどもかわいいのよ。飼い犬の写真まで見せてもらった。ダックスフントだった。私も家族の写真を見せた。これが父、これが妹、飼っている甲斐犬。甲斐犬は他の犬種とは違ってだらりとした座り方をするせいで笑われてしまった。ひと通りの自己紹介を済ませると、ニーナさんはクロスワードパズルを取り出し、通路向かいの席に座って書き込み始めた。ロシア

    • 師が走り、弟は座り、弟弟子は走る

      秋から仕事の建て込みはあるわけで、11月からは駆け込みがそこへ割って入ってくる。事務所にはだんだんと厭戦ムードが立ち込めて来るし、現場は無茶な工程を詰め込んでくる。 そして普段と変わらずにのんべんだらりとやり過ごそうとする者もいる。その皺寄せが彼方此方に行っては、師走の持久走を100メートル走のペースでやらなければならないよう各々に鞭を入れてくるのだ。彼が堂々と怠けていようと仕事は矢継ぎ早にやってくるし、もはや自分の仕事で手一杯になっており誰もが正したり叱責したりする元気を持

      • GPZ900R ハンドル交換、ETC取付

        購入時にOVER RACINGのバーハンドルがついていたが、純正ハンドルの乗り心地を試してみたいと思いセパレートハンドルに交換した。前オーナーが純正ブリッジをそのまま残してくれていたおかげで工賃は安く済んだ。 思ったよりも前傾になったが、ハンドルに体重を預けすぎないように意識することに繋がって乗車姿勢が良くなった。そのおかげで低速での取り回しがしやすい。今までポジションを意識していなかったと反省した。写真の通り、グリップする位置も考えなければタンクと指、手首、腕が干渉して、

        • アドレスV125G スロットルボディ清掃、プラグ交換

          24,000kmで購入してからというものの、50,000kmの大台を超え、アイドリングが不安定になったり信号待ちでエンジンストールを起こすようになったため、スロットルボディの清掃、インシュレータ、ソレノイドバルブの交換を行った。 メットイン、エアクリーナボックスを取り外し、スロットルボディへアクセスできるようになった。 かなり汚れている。エンジンコンディショナを噴霧し、あらかた目に見える汚れが落ちた後、スロットルを開けた状態でも噴霧した。 汚れがウエスに滴り落ちるのを待

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        • GPZ900R メンテナンスノート
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          中吊り広告-私

          金を使え、金を貯めろ、そしてまた金を使え、足りなければ借金をして投資しろ、稼いだ金を使って、借金は気にするな、けれども無借金であれ、そのための手助けはする……。 いつもならスクーターで通勤するところを、梅雨になり切れない雨、Uber eatsの挺身的突撃で愛車が入院したおかげで電車通勤をしている。開いたドアから中吊りを眺め、車掌に促されるまま「車内の中ほど」へ進み、つり革を掴んでから一息つこうと上を見ると広告ポスターが張られている。そして他の乗客たちに圧迫されながら目に入っ

          中吊り広告-私

          БАЙГАЛ

          ウラン・ウデからは行商人が乗り込んできた。ショルダーバッグいっぱいにオームリと呼ばれるバイカル湖の淡水魚の燻製を詰め、手にもぶら下げて車内を売り歩いていた。私は胡散臭そうな風貌をした男から2尾買うことにした。「もっとどうだ?」とでも言っているのだろうか、燻製を渡してからも私に盛んに話しかけてくる。席番を教えてくれたお婆さんがそれに突っかかて来た。何やら言い争っていたが、男は言い負かされたのか退散していった。Sがいうことには「鮮度が落ちるのが早いのだから必要以上に売りつけるな」

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          ИРКУТСК

          早朝、アスランたちは降りる準備を始めていた。30分もすると、彼らは我々と握手だけ交わして降りていってしまった。まるで次の正月には会えるような別れ方だった。そして4号車にはぽっかりと穴が開いた。一気に人が減り、湿度が下がって過ごしやすくはなったが、どこか寂寥としていた。乗っているのはウラジオストクから乗っているお婆さん、韓国人のお兄さんとどこからか乗っている朝鮮語に堪能なおじさんだった。彼は我々に朝鮮語で話しかけてきたが、ぽかんとしていると「もしもし?」と言い直してきた。しかし

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          УЛАН-УДЭ

          小さな駅で医者が乗り、Sに注射を2本も打ってから処方箋らしきものを書き残していった。すべて筆記体のロシア語で、ロシア語を履修しているSにも、それどころかロシア人である車掌にも読めないシロモノだった。Sはすっかり元気になって、食欲も戻ってきていたようだった。最初の医者が来てからは、ウラン・ウデ、イルクーツク、タイシェトと長時間の停車ごとに医者と看護師が乗り込んでくるようになった。不思議なことにその場で金銭を要求されることはなく、帰国してからSの家に請求書が届いたということもない

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          ЧИТА

          朝霧に包まれた草原からは、太陽がおずおずと立ち上がろうとしている。日々の苦しい訓練から解放されているアスランたちはこの機を逃すまいと眠りに眠っている。15分間停車する駅で、プラットホームに降りてアイスを買った。行商や売り子たちが列をなして客を待ちかねていた。「マロージュナ、マロージュナ」と大きな段ボールを抱えたおばさんに声をかけるとそのアイスが出てきたのだった。1つ25ルーブル、破格だった。昼になり、起きだした兵士たちと食事をとっていた。軍隊の食事は1つのパッケージに2食分入

          ХАБАРОВСК

          深夜、迷彩服を着た男たちの足音に目を覚ました。軍人だった。上段に来なければいいと思ったけれど、2人の男が我々のベッドの下に木箱を収め始めた。ベッドを跳ね上げようとすると、そのままでいいと手ぶりで示された。私は漠然とした嫌悪感を抱いた。堅物ぞろいの男たちは、まさかモスクワまで乗らないだろうな。眠気にまみれた頭でそう考えながら、私は再び眠りに落ちた。 朝起きると上段にはやはり軍人が眠っていた。ろうかを挟んだ向こう側のベッドにも、その隣にも、4号車のほとんどの客が軍人だった。ウラ

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          ВЛАДИВОСТОК

          ホテルのロビーには中国からの団体客があふれていた。ハルビン、大連、長春からは飛行機で1時間半もかからないのだ、国内線と同じような感覚で飛んできて異国の雰囲気を味わえるのだから、こぞって来るのも分かる気がする。我々は飛び交う中国語を潜り抜けてフロントへたどり着いた。 財布のばかでかくない我々が1丁前、2丁前に1泊3200ルーブル(当時約6400円)もするホテルを手配したのは、旧ソ連時代の名残である「外国人登録(レギストラーツィヤ)」のせいだった。ある程度のランクのあるホテルで

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          ТОКИО

          シベリア鉄道に乗ってみないか、と言われた。春のことだった。シベリア鉄道、そうだ、私は小学校の百科事典で「世界で一番長い鉄道。端から端まで9288キロメートルで、一番早い列車でも7日間かかります」と記述されているのを眺めたことがある。当時の私は見ず知らずの北の大地に思いを馳せた。窓の外には一面の銀世界が広がり、私はベッドに横たわりながらそれを延々と見続けている。通路ではロシア人たちが何やら話し合っている。停まる駅ごとに大荷物を抱えた人たちが乗り込んでくる。ロシアへの誘いがこれら

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