【時に刻まれる愛:1-4】孤独の極地
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母のスープ
敷地内の森を父と走り回って家に帰ると、母はいつもスープを作っていた。
幼い頃の記憶だ。
父は偉大で優しい。
そして、母はいつでも穏やかだった。
母の作るスープには野菜がたくさん入っていて、ボクはこのスープが大好きだった。
「カエルが、死んじゃったんだよ・・・。」
ある日、大切に育てていたカエルが死んでしまったのを見て、ボクは涙が止まらず、母に話しかけた。
母はボクをそっと抱きしめると、テーブルに付かせて温かいスープを用意してくれた。
どうしてだろう。
いつも、母のスープを飲むと、心が落ち着く。
「お母さんのスープ、温かいし美味しいから、元気が出るよ。」
そう言うボクを見て、母はいつだって優しく微笑んだ。
でも、きっと母のスープを飲むと元気が出るのは、温かさや美味しさだけが理由じゃない。
いつも穏やかで、優しい母が作るスープは、ボクの心を温めてくれた。
そんな温かい日々の中、父にあんなことが起きて、ボクらは今の家に移り住んだ。
あれ以来、母は具合が良くない。
部屋から出てくることは無く、小さな体には不釣り合いな大きなベッドで眠り続ける日々だ。
爺やに聞いてみた。
「お母さん、具合はどう?
何かの病気なの?」
ちょうど母の昼食を用意していた爺やは、優しい口調でボクを安心させるように答えた。
『えぇ、寝込んでおられますが、大きな病気ではございません。元々、少しお体が強い方ではありませんので、この頃はお休みになっておられますね。』
大丈夫ですよと言いながら、母の部屋へと爺やが食事を運ぶ。
ボクは部屋の外から、その様子が気になっている。
母の部屋の中から、ありがとうと言う母の声が聞こえた。
その声が聞こえただけで、ボクは少し嬉しくなった。
母の部屋から出てきた爺やは、ボクを食卓へと促した。
『拓実坊っちゃまにも、ご昼食ができております。』
母の声を聞けて安心したボクは、つい元気な声が出た。
「ありがとう!爺や。」
食卓に付くと、爺やが昼食を持って来てくれた。
爺やが作ったスープだ。
この家に住んでから、ボクらの世話をなんでも爺やがやってくれる。
雑用から片付け、料理まで。
器用で手際の良い老人だ。
父が長年信頼していたという話にもうなずける。
「爺や、このスープ、美味しいよ。」
ボクはそう言った。
爺やのスープは、本当によくできた味で、見事なものだ。
でも、本当はどこかに物足りなさを感じていた。
この家でも、母の作るスープが待ち遠しかったのだ。
永遠の愛
たまに、寂しさを堪えきれなくなり、母の部屋をノックした。
父がいなくなり、灰色の世界を生きるボクでも、母といる時は、はっきりと色を感じる。
今の母には、スープを作ったり、起き上がったりする元気はないようだ。
でも、変わったことはそれだけ。
今でも、あの頃と同じ。
母はいつでもボクの味方だ。
母の部屋をノックすれば、優しく招き入れてくれる。
10歳のボクでも、母が無理していることは容易に想像が付く。
それでも、母の優しさの前には、甘えずにはいられなかった。
とびっきりの孤独の中にある、些細だけど全てを忘れられるような時間。
もう、ずっと、お母さんから離れたくない・・・。
いつも、母に抱きしめられながら、その言葉が口から溢れそうになる。
でも、それを口にしてしまうと、母は間違いなくボクのために無理をしてしまう。
だから代わりに、いつもこう言う。
「ボクは大丈夫だから!」
そう言って部屋から出ていくボクを、あの穏やかな笑顔で母は見送ってくれる。
扉
しばらく経ったある日、やけに朝早くから、母の部屋で声が聞こえて目が覚めた。
どうやら爺やが、母の部屋で話をしている。
『・・・えぇ、そうです。
では、よろしく頼みます。』
爺やの声の様子や口調から、話し相手は母ではなく、母の部屋から誰かに電話をかけているのだと分かった。
爺やが一人で母の部屋から出て来た。
「爺や・・・」
ボクがそう言い終えないうちに、爺やが忙しそうに話してきた。
『坊っちゃま。
恐れ入りますが、
しばらくご自分の部屋にいてください。
お母様を、病院へお連れいたします。
心配はいりませんが、
今は時を急ぎますので、
後ほど、ご説明申し上げます。』
爺やの話は、いつだって要点がわかりやすい。
ボクは部屋に戻ったが、そわそわして、部屋のドアを少しだけ開けた。
ドアの隙間から、母を支えながら爺やが玄関へ向かうのが見える。
「お母さん!」と、呼び止めたかった。
でも、きっとそれは母を無理させてしまうのだろう。
それなら、「ボクは大丈夫だからね!」と、例の代わりの台詞を言おうとも思った。
何か、母に声をかけたかったのだ。
ずっと、ずっと、遠くに母が行ってしまう予感がして。
あまりの不安に、涙も込み上げて来なかった。
母と爺やは、玄関を出ると、爺やの運転で病院へと向かって行った。
窓から、その車がしばらく見えていた。
送迎用に父が爺やに与えたという、大人しい高級車だ。
几帳面な爺やのおかげで、ピカピカと外装が光っている。
その車が、白い砂埃を立てながら、湖沿いの森へと消えて行った。
母も爺やもいなくなった家の中は、静かだった。
ボクは、母の部屋へと向かっていた。
自分の足音が、こんなに響いて聞こえるなんて。
いないと分かっているのに、母の部屋の扉をノックした。
「お母さん・・・」
圧倒的な静寂は、ボクの声をかき消すような重たさだった。
分かっている。
分かっているけど、その扉の向こうからは何も返事が聞こえない。
ノックするのを止めて、扉にそっと手を置いた。
その扉は、いつもより重たく、いつもよりずっと冷たく感じた。
光の無い孤独
昼過ぎには、爺やが一人で帰ってきた。
幸い、大きな病気では無いものの、しばらくは医療施設で療養が必要だということだった。
「しばらくって、、、どれくらい?」
ボクは爺やに尋ねたが、爺やもそれはわからないと答えた。
とりあえず、大きな病気ではないなら、安心だ。
そうなると、気になるのは・・・その病院が安全かどうかだ。
父の失踪には、de・hat社からの危険な圧力が関わっている。
それから逃げるために、ボクらはこの家に来た。
母が入院した病院というのは、彼らに突き止められることはないのだろうか。
・・・究極の孤独は、絶望よりも先に、父譲りのボクの頭脳を際立たせた。
しかし、この心配は爺やの言葉ですぐに解消できた。
『お母様がご入院された病院ですが、
お父上とつながりの深いお医者様が
坊っちゃまのご家族のために
専用で開いた病院です。
一般の患者はおりませんし、
院長はお父上の専属ドクターでしたから
お母様のことが
外部に漏れる心配はございません。』
要するに、巨大企業グループを経営をしていた父が、自分の健康状況などを外部に弱みとして握られることのないように、自分専用に建てた個人院だということだった。
父は病気はしていなかったが、おそらく健康診断などもそこで行なっていたのだろう。
そういえば、幼い頃に風邪を引いた時、ごくごく小さな病院に連れて行かれた記憶がある。あれが、その病院だったのか。
さすが、父だ。
そんなことを思って安心すると、すぐに別の感情が湧き出てくる。
この数時間、自分の心の中に抑え込んでいた、圧倒的な闇がボクを呑み込もうとしている。
お父さん・・・
お母さん・・・
もう灰色の世界なんかじゃない。
一点の光も見えないような孤独の中に、ボクは堕ちていった。
船を漕ぐ男
部屋に一人でいる時間など、慣れっこだ。
だから、母が入院してからも、今までと同じ、虚ろな時間が過ぎていくだけ。
相変わらず、部屋から見える湖を、紺色のセーターの男性がボートで行っては帰ってくる。
もはや、ボクの近くに帰ってくる人は、この見知らぬ男性しかいない。
話したことはないし、今後もないだろう。
でも、夕方、その男がボートで湖の向こうから帰ってくるのを見て、いつも「お父さん・・・」と呟いてしまう。
爺やに聞いた。
「ねぇ、あの男の人は、誰なのかな?
もしかして、お父さん・・・じゃないよね・・・。」
爺やは、少しボクを見つめてから答えた。
『彼は、この湖の近くに住む木こりです。
物静かで、良い人ですが、
残念ながら、お父様では・・・。』
そう言いながら、爺やは堪えきれない様子で、ボクを抱きしめた。
『お寂しいでしょう。
私もです・・・。』
その夜、爺やのスープを飲んだ。
これまでで一番の、温かく優しい味だった。
爺やの作るスープが、この頃は好きだ。
ボクと爺や。
二人だけの生活が流れていった。
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