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【時に刻まれる愛:1-5】爺やの仕事

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二人の生活

母が入院し、爺やと二人の生活が始まった。

最初は少し寂しさも感じたが、すぐに慣れた。

それには二つ理由がある。

一つは、今の家に引っ越してからというもの、母はこれまでも部屋で寝込む日々が続いていたから、爺やと二人の生活はあまり今までと変わらないということだった。

二つ目は、母のためにもボクがしっかりしないといけない、という意識がどこかにあったこと。

それから、爺やは本当によく働いてくれた。
今は、爺やが親代わりだ。

相変わらず、小学校生活は退屈で、あまり学校に行かない日々が続いたが、爺やはそんなボクにいつも本を取り寄せてくれた。

父も好きだったという物理学の本や、高校生くらいまでの教科書など、普通の10歳には似つかわしくない本であっても、ボクにはぴったりだった。

また、そんなボクでも知らないことや分からないことがあれば、爺やが丁寧に教えてくれた。

父に負けないくらい、爺やも知識が豊富だ。
本当に、驚くほどなんでも知っている。

それに、爺やの話は、いつも要点がはっきりしていて分かりやすい。

今のボクは父もいないし、母とも会えない毎日で、おまけに小学校は退屈すぎて行っていないから先生とも話さない。

でも、爺やがいるから十分だ。
いつからか、そんな風に思えるようになった。

爺やと二人になってから、爺やはこれまで以上に話し相手にもなってくれた。

一緒に、チェスをやったりもした。
爺やは、先を読むのが上手いらしい。
いつも『ふふふ』と不敵に笑うと、『申し訳ございませんな、坊っちゃま。チェックメイトですぞ。』と、ボクを打ち負かした。

さすがに父に仕えていただけあって、かなり頭が鋭いようだ。

週末は、爺やと一緒に、家で映画を見た。
爺やは感動シーンになると、いつもソファから立ち上がり、キッチンの奥の方で片付けを始める。

賢く、器用で、涙もろい爺やが、ボクは大好きになっていった。

決まって月曜日の昼食はスープだった。

爺やのスープが、いつの間にか、たまらなく好きになっていた。

見舞い

病院から許しが出ると、爺やと二人で母の元へ見舞いに行った。

爺やは気遣いの人だ。
ボクと母が二人になれるように、いつも病院の下で待っていてくれた。

偉大な父が、自分専用に作ったという個人病院。
そのため、こじんまりとした建物だったが、院内は綺麗で雰囲気が良かった。

母は、その病院の2階に入院していた。
病室からは、花畑の庭が見える。
静かな鳥の歌声が聞こえる、風の通る病室だった。

「お母さん」

母が家にいた時と同じ。何も変わらない。
ボクが呼びかければ、母は穏やかな笑顔でボクを抱き寄せた。

そう、何も変わらなかった。
母といると、世界が美しく見えるようだった。

ボクは、夕方までずっと母と過ごした。
月に一度か、数ヶ月に一度ほど、こうして母に会いに行き、ボクは自分の心を保っていた。

嬉しい変化もあった。

何度か病院に通い始めてから、次第に母の様子が元気になっていくのがわかったのだ。

母のベッドの横にあるテーブルには、同じ封筒の手紙が何通か積まれていた。上質な紙に、綺麗な花柄が刻まれた封筒だった。

「手紙が来たの?」

ボクがそう聞くと、母は嬉しそうに、古い友人から手紙が届くようになったことを教えてくれた。

ボクは、一瞬だけ不安になった。
母の居所を知っている人が、どうしているのだろうか?
父に、あんなことがあったから、とても不安だった。

でも母によれば、その友人とは、父の家にボクらが住んでいた頃に、住み込みで働いてくれていた人だということだった。

ボクも会ったことがある人だということで、実は爺やがその人にだけ事情を話していたのだった。

母が元気になるために、爺やが気を回したのだろう。
それがわかって、ボクはほっとした。

陽が傾く頃、爺やが車をプップーと鳴らす音が聞こえる。
この音が聞こえたら、例の台詞で部屋を後にする。

「お母さん、ボクは大丈夫だから!」

そう言って部屋から出ていくボクを、あの穏やかな笑顔で母は見送ってくれる。

病状

病院からの帰り道、爺やの運転する車の中で、ボクは爺やに嬉しそうに尋ねた。

「お母さん、最近元気だね。もうすぐ退院できるかな?」

爺やの運転は安全運転だ。
ハンドルをしっかり握って前を向いたまま、爺やは答えた。

『元気になっていることは、
 間違いないようです。

 ただ、、、

 そろそろこれは
 坊っちゃまに話しても良い頃合いなので
 お話しいたしますが、

 お母様は、
 筋肉が少しずつ
 弱っていく病気のようなのです。

 家にいらっしゃる時に、
 もし何かあっても大変なので、
 あの病院で
 しばらく様子を見ることになりました。』

もう、だいぶ陽が沈みかけていた。

夕陽がボクらの車の中まで差し込んでくる。

ボクは少し考えて、こんなことを言ってみた。

「あのさ、爺や。
 もし、お父さんが生きていたら、
 お父さんの開発した薬で、
 その病気も治せるんじゃない?

 お父さんが生きていたら、
 de・hat社に乗り込んで、
 その薬を持ち出すんじゃないかな。」

爺やは運転しながら、少し困ったような様子で言った。

『そうですなー。
 
 ただ、
 もしお父上が生きておられても、
 それは難しいでしょう。

 de・hat社に乗り込むとなると、
 結局はお父上の所在や、
 坊っちゃまたちの居所が
 de・hat社に分かってしまうでしょう。

 そうなれば、
 de・hat社は皆様を放ってはおきませぬ。

 これは、難しい問題ですな。』

家に着く頃には、すっかり陽が沈み、辺りは暗闇に包まれていた。

爺やが家の鍵を開ける後ろから、ボクはぼそっと口を開いた。

「世の中には、
 変えられないものがあるのかな。」

家に入りながら、ボクは続けて言った。

「お父さんが生きていれば、
 今こそ、聞いてみたかったな。
 
 お父さんが生きていれば・・・。
 
 ねぇ、爺やもそうでしょ?」

その言葉は、父が死んだという答えを、爺やにしっかりと確認したつもりだった。

爺やも、そのボクの真意が分かったのだろう。
一連の会話で、自分がうっかりそれを表現してしまったことを申し訳なさそうに、ボクを抱き寄せて言った。

『えぇ。
 申し訳ございません。』

世の中には変えられないものもあるのだろうか。

答えは出ない。

でも、何かがこれまでと違う。

お父さんは、もう生きていないんだろう。
de・hat社に殺されたのだろう。

お母さんは、すぐには帰って来られないのだろう。
その病気は、治らないのかもしれない。

光の届かない孤独の中で、こうしたはっきりとした答えが出たことは、逆にボクの心のスイッチを入れるきっかけになった。

それならもう、ボクがしっかりするしかない。
ボクは前に進む!

母のために

母が入院して、爺やと二人の生活が始まって一年が経っていた。

11歳になり、ボクは変わった。

ボクは小学校に行くようになった。

前に進まなきゃ。
戻る場所なんて、無いんだから。

『世界を変えろ、拓実。』

父の言葉を、毎日思い出して、学校に通った。

父の死や、母の病のことを、どう変えれば良いのかは分からない。
でも、まずは自分の世界を変えようと思った。

相変わらず、小学校は退屈だ。
授業の内容など、ボクには分かりきったものだし、成績は常に抜群だ。

周りとは打ち解けられず、でも成績だけは優秀な少年。
湖のほとりに住む、変わった少年。

相変わらず、それが周りの人には奇妙に映っていた。

白い目で見られていることは分かりつつも、ボクはこれまでとは違って、学校に通うようになった。

自分の世界を変えるために。
それは同時に、母のために。

母のお見舞いに行く時に、良い報告がしたかった。
少しでも、安心させてやりたかった。

そんなボクの様子を、爺やは大いに喜んで応援してくれた。

これまで学校に行かなかったボクは、11歳で初めて学校行事にも参加した。

授業参観には、爺やが来てくれた。

きっと周りの人には、こう見えていた。

教室にいる奇妙な天才少年は、11歳で初めて授業参観に老人を連れてきた。

そんな声がひそひそと聞こえていても、ボクも爺やも気にしなかった。

爺やは教室の後ろから、ボクの様子を見守り、嬉しそうに、でもこっそりと手を振った。

運動会にも爺やが来てくれた。

頭は良くても、ボクは運動が得意じゃない。
それでも、初めての運動会は楽しかった。

友だちとは打ち解けられない。
でも、爺やの、あんなに大きな声を聞いたのは初めてだったから。

「爺や・・・。」

恥ずかしそうに僕が言うと、

『申し訳ございません、
 つい、応援に力が入りまして。

 立派な走りでしたぞ!』

爺やは嬉しそうに、そう言った。

少しずつ、少しずつ、ボクの時が動き始めた。

自分の世界を変えるために。
母に元気になってもらうために。

時は満ちた

さらに時は流れ、ボクは中学校、高校を卒業した。

まるで、それまで止まっていた時計の針を早回しするかのように、ボクは成長していった。

相変わらず、勉強はよくできた。

高校3年生のとき、物理学の権威ある大学を受験し、見事に合格した。

10歳の頃から、爺やが物理学の本をたびたび取り寄せてくれたおかげで、ボクは物理学の世界に興味を持ったのだ。

大学に合格したことを、爺やは飛び上がるほど喜んでくれた。

ボクは今、その大学に通い、物理学の研究をしている。

大学までは少し遠いが、今でも湖のほとりの家に、爺やと二人で住んでいる。
母のお見舞いに、いつでも行けるためだった。

19歳、最後の朝。

ボクが朝早くから大学に行くために支度をしていると、爺やがドアの部屋をノックした。

「どうしたの?爺や。おはよう。」

爺やの朝の挨拶は、今でも心地が良い。

『おはようございます、坊っちゃま。

 今日は大学が終わった後、
 何か、ご予定はございますかな?』

なんだろう?と思いながらボクは答えた。

「特にないよ。
 夕方には帰ってくるから。」

爺やは安心したという様子で言った。

『そうですか!
 
 今日は、特別な夕食をご用意いたします。
 お帰りをお待ちしております。

 それでは、行ってらっしゃいませ。』

今日は19歳、最後の日。

すっかり成長したボクは、勢いよく家を出ると、ある男に声をかけた。

「おはようございます!
 今日も、一緒に良いですか?
 ボクが漕ぎますから!」

最近ボクは、湖の反対側にある駅まで、毎朝小さな船を漕いで行く。
紺色のセーターを着た男性と一緒に。

船が湖の真ん中に着く頃には、ボクの家が小さく見える。
ボクの部屋の窓も、ずっと、ずっと小さく見える。

そんな光景を見ながら船を漕ぎつつ、ボクはいつも思い出す。

10歳の頃、あの窓から、ぼーっと、この湖を眺めていたな。
湖の向こう側に、駅があるなんて、あの頃は知らなかったよな。

朝、美しい湖を、この小さな船で渡る時間が、今はとても好きだ。

ゆっくり、ゆっくり、漕いで行けば良い。

世の中には、変えられるものがある。

その昔、灰色に見えていた湖が、今は美しい景色としてボクの心を弾ませていた。

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