【時に刻まれる愛:1-1】悪夢
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呼びかける声
『こら、拓実。
そんなに遠くまで走ったら、危ないだろう。』
そんな声を後ろに聞きながら、ボクは喜んで、もっと前に進んでいく。
どれほど遠くへ走っても、どれほど深い森の中まで探検しても、その声は、ずっと追いかけてきてくれて、ボクをいつでも安心させてくれるのだ。
低く、力強く、安心感のある、父の声がボクは大好きだ。
父はいつでも、ボクの味方だ。
いくつもの会社を経営する父は、ボクの知らない様々なことを教えてくれる。
勉強も教えてくれるし、虫の捕り方や魚の釣り方などの遊び方もたくさん教えてくれる。
いつも、優しく包み込むような声で、ボクに教えてくれるんだ。
ボクらの家は、海が見える丘の上に父が建てた、まるでお城のような家だ。
丘と呼ぶには広すぎる敷地なので、ボクはいつでも探検したくなる。
城のような家を抜け出して、トコトコと探検に走り出すボクを、父は優しく、まるで父も子どもみたいに追いかけてきてくれる。
ボクもそれがわかっているから、敷地内にある深い森の中にも思いきって走っていけるんだ。
そう、父がいるから、自分も強くなれた気分なのだ。
しばらく森の中を走ってみると、周りの木よりも大きな木を見つけた。
後ろから、父の足音が聞こえる。
追いかけてくる父から隠れようと、悪戯心でボクは木の陰に隠れた。
すると、父の声が聞こえた。
『ほら、拓実。
そこにいるんだろう。見つけたぞー。
さて、そろそろ戻らないとな。
夕飯の時間だぞ。
さぁ、出てきなさい。』
父の優しい声に見つかって、ボクは安心して木陰から姿を現した。
でも、父の姿は、そこにはなかった。
醒めない絶望
いくら探しても、父の姿が見当たらない。
でも、聞こえる。父の声が。
『拓実。拓実・・・。拓実・・・。』
父の声が、しだいに遠のいていく。そして、ボクの視界も暗くなっていく。
額に大量の汗をかいて、飛び起きた。
そう、いつも、ここで、目が覚める。
「また、この夢だ・・・。」
ボクの名前は、伊月野拓実(いつきの たくみ)。
幼い頃、夢の中のとおり、裕福で優しい父のもとに生まれた。
だが、10歳の頃、その父は突然の失踪を遂げた。
それから、ほどなくして、母とボクは現在の家に移り住んだ。
父の失踪後、母は病気がちになり、寝込んだままだ。
ボクの世話係には、父の側近だったという爺やが来てくれた。
父の家にいた頃には見かけなかったが、長年にわたって父の側近として仕えていたのだという。
高齢にしては背の高い、シュッとした感じの男性で、身の回りのこともきちんとこなしてくれるし、話し相手にもなってくれる。優しい人だ。
今の家は、湖の近くの森の中に、ひっそりと隠れるように建つ家だ。
父の家も、海の近くの丘の上にあったが、今の家の方がこじんまりとしている。
なんでも、父が密かに建てた隠れ家だということだった。
爺やによれば、父の失踪には大きな危険が関係しており、ボクと母をそこから遠ざけるために、今の家に移るようにと失踪直前に父が爺やに命じたのだという。
今の家に来てから、ボクはいつも、同じ夢を見るようになっていた。
父のいない人生
いつも、同じところで目が覚める。
ボクが走り回って、後ろから父の優しい声が聞こえて、
でも、振り返ると、父がいない。
ボクにとって、心が引き裂かれるような痛みを感じる夢だ。
父は仕事熱心だった。
家にも、たくさんの人が仕事の話をしに来ていた。
朝早くから正装をして、仕事に向かう父の姿を、ボクは憧れの眼差しで見ていた。
父が熱心だったのは、仕事に対してだけではない。
思い出せばキリがないほど、たくさんの喜びを、父は与えてくれた。
ボクにとって父は、尊敬できる遥か大きな存在でもあり、一緒に笑って転げられる歳の変わらない友人のような存在でもあった。
そんな父が、何の前触れもなく、突然にいなくなったのだ。
ボクの中で、何かが音を立てて崩れていった。
そう、今の家に来てから、すべてが灰色に見える。
果物も、森も、湖も。
鏡に映る自分の顔も。
父のいない人生は、灰色の人生だった。
もう、何も感じることができなくなっていた。
父の家にいたときは、走り回るのが大好きだった。
家の外をよく探検した。
今の家に移ってから、家の外を探検したことはない。
家の目の前は湖で、辺りを歩くと気持ちが良いですよと、爺やは教えてくれた。
でも、一度も歩いたことはない。
灰色の湖に、灰色の空。
ボクにはもう、何も残っていなかった。
唯一、気になることと言えば、病気がちで寝込んだままの母が心配なくらいだ。
父と同じくらい大好きなお母さん。
「お母さん・・・」
いつも、そう話しかけると、母は無理して起き上がって、私をなぐさめてくれた。
二人の味方
今の家から、30分ほど歩いたところに、古い小学校がある。
ボクはそこに通うことになっているのだが、学校に通う気力もなく、休む日が続いていた。
月に何度か、家に電話がかかってくる。
学校の先生が、様子を聞いてくるのだ。
この電話には爺やが対応してくれた。
『はい。・・・はい。わかりました。
ご迷惑をおかけしておりますが、よく、言い聞かせておきますので。』
爺やはいつも、電話でそんなふうに話していた。
でも、くるりとボクの方に振り向くと、
『さて、坊っちゃま。
厄介な電話は終わりましたよ。
坊っちゃまは、坊っちゃまのままで良いのです。
今は、休んで力を蓄える時なのでしょう?
そんな時も、人生には必要ですぞ。』
そんな風に、ボクを励ましてくれた。
子供なりに、爺やがボクのことで、学校との板挟みになっていることを感じていた。
でも、電話が終わるたびに『ふふふ』と笑いながら、『大丈夫ですよ』と励ましてくれる爺やは、ボクの心強い味方になっていた。
それから、きっとボクよりも、母の方がショックを受けていた。
母は、ほとんど部屋から出てくることもない。
ずっと寝たきりだ。
それでも、たまに寂しくなって「お母さん」と声をかけに行くと、ボクを抱き寄せて、昔の話を聞かせてくれた。
お父さんのこと。ボクが小さい時に連れて行ってくれた場所のこと。ボクが宝物だということ。
母に抱きしめられてボクが涙を流していると、いつもボクの頭に何か雫のようなものが落ちてきた。
同じ景色の中で
今のボクの家の部屋からは、湖が見える。
朝早く、いつも紺色のセーターを着た男性が、船を漕いで行く。
ボクはそれを、部屋の中から見ている。
湖の先の方まで、ゆっくりと、ゆっくりと、船を漕いで行く。
あの湖の先に、いったい何があるのだろうか。
きっと、その男には、綺麗な湖が見えているに違いない。
でも、ボクには灰色にしか見えない。
あの湖の先に、何かあるとしても、ボクには関係ない。
ボクはただ、ここにいるだけ。
時が進み、ぼーっと1日が過ぎていく。
いつも同じ。灰色の毎日。
ただ、1日に一度だけ。ボクにも色を感じる瞬間がある。
太陽が湖の向こうに沈みかける頃、夕焼け空を背に、船が帰ってくる。
ゆっくり、ゆっくり、朝出て行った男が返ってくる。
夕陽の逆光で、いつもその顔を見ることはできない。
朝は背中しか見えないし、夕方は影しか見えない。
「お父さん・・・」
いつも、そう呟きそうになる。
お父さんは、死んでしまったのだろうか。
あの船の男性も、いつかは消えてしまうのだろうか。
そんなことを考えていると、気づけば船だけが湖のほとりに停まっており、男はどこかへ行ってしまうのだった。
まもなく、夕陽さえも、ボクの前から姿を消す。
同じ悪夢だとわかりつつも、今日は夢で父を見られるかもしれないと思い、まぶたを閉じる。
同じ毎日の中で、ボクの時が止まっていた。
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