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激務に疲れ果てたアラサー女子が、脳内お花畑な【花咲かガール】になるまでの物語

はじめまして、みのりんです!

いつも読んで下さっている方は、本当にありがとうございます。




突然ですが、わたしは『5歳児エッセイスト』として活動してきました。

そして、最近は『花咲かガール』を名乗っています。

率直に言って、どちらも怪しい肩書きですよね…。



わたしはかなり人目を気にする人間でした。

「まともでいないと」

「しっかりしないと」

そんな言葉を繰り返し自分に言い聞かせてきた気がします。

気付かぬうちに自分の感情を無視し続けていました。



22歳の頃から、心の不安が息苦しさとして身体に現れるようになりました。

社会人になってからも続きました。

不安や疲れが積み重なったタイミングでは、息苦しさと戦いながらの仕事を頑張っていました。

心と身体に無理を強いる生活を続けた結果、29歳の時に休職をすることになりました。



自分と向き合ったことで、日常生活にささやかな幸せを見出し、軽やかに生きられるようになりました♪

そして、本当にやりたいことに取り組めるようになりました。

それは自分らしい発信をすることです。



ちょっと長いですが、ここからはわたしの自己紹介をさせて下さい。

ところどころ重たい内容もありますが、エンタメ感覚で読んでもらえたら嬉しいです。





①経済的自立を決意した小学生時代


わたしは4歳から8歳までの間に3回引っ越しをしました。

なので、空気は当たり前に読むものでした。

転校は多かったけれど、幸い嫌な思いをすることはありませんでした。

かなりのんびりマイペースに過ごしていました。



8歳の時に転機が訪れます。












お父さんが突然仕事をやめました‼︎

今までは平日には会うことの少なかったお父さん。

そんなお父さんが毎日家にいるようになりました。

お父さんは、おうち時間をのんびり楽しめるタイプの人でした。

家にずっといるからと言って、性格がすさむことはありませんでした。

食生活はすさんだようで、体重はハイペースに増量していました。



子どもながらに、思うところもありました。

「お父さんはずっとおうちにいて、何をしているんだろう⁇」

特に覚えているのは、わたしが小学校から帰ってきた時のことです。

お父さんがパソコンで描いたイラストを見せてくれました。

ペンタブを使って、ムーミンが上手に描かれていました。

お父さんはドヤ顔で、とても誇らしげでした。

この時に思いました。

わたしが学校で勉強をしている間、お絵描きをしていただけなの⁇



お父さんが仕事を辞めて家にいた期間は楽しいことも多かったです。

ありがたいことに、生活レベルが極端に下がることはありませんでした。

料理が好きなお父さんは、家族に洋食を振る舞ってくれることもありました。

大人になった今では、感謝の気持ちを抱きながら振り返れます。

でも、小学生のわたしにとっては、お父さんが家にずっといることは恥ずかしいことでした。




わたしが小学校高学年の頃です。

更なる転機が訪れました。












おばあちゃんの借金事件が起きたのです‼︎

おばあちゃんはショッピングにハマりました。

パキッと竹を割ったような性格で、新しいもの好きなおばあちゃん。

そんなおばあちゃんの作る借金はちょっとしたものではありませんでした。



多重債務に次ぐ多重債務。

ブラックリスト入りするレベルでした。

ブラックリスト入りすると、自分名義で新たなローンを組めません。

おばあちゃんは他人の名義を借りてまで、新たな借金を作りました。

子どもながらに、おばあちゃんは自分のしたことに責任がなさそうに見えました。



今でも思い出すのは、おばあちゃんの買った高級なラビットファー。

お父さんになぜ買ったのか聞かれても

「欲しかったんだもん」

と答えるだけのおばあちゃん。

とても虚しい気持ちになったのを覚えています。



お金に苦労するお父さんやお母さんをそばで見たことで、決意が固まりました。

「経済的に自立した人になろう」

当時のわたしの心の声をダイレクトにお送りすると…

「そんじょそこらの男の人より稼ぐ」

という決意でした。



②過呼吸を目の当たりにし、息苦しさが現れるようになった大学生時代


小学生にして圧倒的★経済的自立を目標に掲げました。

小学6年生の頃の本音をお伝えしますね。

中学校入学を目前にしたわたしは、こんな風に思っていました。

「小卒でいいや」



なぜかと言うと、中学校が遠いから。

小学校の通学時間にプラス10分なんて耐えられない…。

無理無理無理無理無理無理無理無理無理。

1分でも1秒でも長く、朝の連続テレビ小説を観ていたい…。



そう、ゆとり世代のスーパーエリートなのです★

頭では「経済的自立」だなんて立派で崇高なことを考えるみのりん。

でも、実のところとっっっっっても怠惰なみのりん。

そう、マインドがニート界のサラブレッドなのです★


「小卒でいいや」

そう思っていましたが、中学校生活自体はそれなりに楽しかったです。

スーパー怠惰なマインドの持ち主ながら、勉強は好きかつ得意でした。

そして、中学3年生になり高校受験が近づいてきました。


当時のわたしの悩みは

「競争に自分を組み込みたくない」

でした。


勉強ではなく、競争が嫌っていうのが何ともわたしらしいです。

でも、資本主義社会を生き延びるにはやるしかないと思っていました。

一体全体、何と戦っていたのでしょうか?


高校受験はどうだったかと言うと…

マイペースに勉強を続け、無事に志望校に合格しました!


そして、高校生活が始まりました。

最初は進学校での新生活に緊張していました。

ですが、人間の適応力はすごいものですね。

すぐに新しい環境に慣れていきました。

ちなみに当時のマイブームはヨガとアロマでした。

仕事に疲れたOLみたいですね。



かくかくしかじかで、高校2年生の時に医学部進学を目指すと決めました。

そして、無事に現役合格しました!



ってさらりと書くと順風満帆に見えます。

実際はそんなことなかったですね。

受験一色だった1年間。

普通っぽく過ごしているけれど、常にメンタル不調。

むしろ、普通っぽく振る舞わないと自分を保てない。

正直、あんな日々は二度と過ごしたくないなって思います。



合格が分かった時にはもちろん嬉しかったです。

嬉しさよりも安堵の方が大きかったですね。

そして、自分の中でシャッターが下りるような音がしました。



受験勉強の結果を最短で出せたことは、誇らしい軌跡だと思います。

自分の努力と周囲の人の支えで達成できたことです。


一方で自分の限界値を知らされたような感覚にもなったのです。

「これ以上、がんばるのは大変だな…」

純度100%の心の声だったんだと思います。



大学生活が始まると、心の声はすぐに聞こえなくなりました。

勉強とバイトの両立に苦労しつつも、充実した毎日でした。




22歳の時にわたしにとってつらい出来事が起きました。

仲の良かった友達が目の前で過呼吸発作を起こしたのです…。

前に過呼吸発作を起こした人を見たときは冷静に対応できました。

でも、仲の良い友達が発作を起こすとなると、全く違いました。


「外野が慌てるわけにはいかない」

そう思い、動揺を隠して、冷静に振る舞おうとしました。

けれど、冷静に振る舞うことはできませんでした。

友達は発作が長く続いたせいで、けいれんを起こしました。

そして、病院に運ばれていきました。



わたしが息苦しさを感じるようになるのに、そう時間はかかりませんでした。

知識として、過呼吸発作が連鎖しやすいことは頭に入っていました。

ただ、実際に自分に起こるとは夢にも思っていませんでした。



「わたしは弱くはずないのにどうしてだろう」

自分に起こっていることを受け止められずにいました。

何食わぬ顔で、深呼吸を繰り返して、呼吸を整えていました。

誰にも気付かれないように、一人で静かに戦っていたのです。



わたしが一人で静かに戦う間に、友達は過呼吸発作を繰り返すようになりました。

ある日、更衣室の前で苦しそうにしゃがみ込む友達を見かけました。

その時、別の人が友達に駆け寄っているのが目に入りました。

「周りに大勢の人が集まっても、良くない…」

わたしは近寄らないことに決めました。



本音を言えば、駆け寄りたい気持ちでした。

自分が友達の目の前に現れると、友達の症状が悪くなるんじゃないかという不安も湧いてきました。

冷たいように聞こえるかもしれないけれど、それも本音でした。



友達が過呼吸発作を起こすようになる前のことです。

わたしと友達の関係には亀裂が入り始めていました。

講義室で話すことも、LINEで連絡をとることもなくなっていました。

それまでは毎日のように話して、連絡をとっていたのに…。


とは言え、わたしが故意に彼女を傷つけるような行動をとったわけではありません。

頭では自分のせいじゃない分かっていました。

でも、心では自分を責めていました



息苦しさに悩んでいる時に高校の同級生と会う機会がありました。

近況報告を兼ねて話を聞いてもらいました。

この時は息苦しさについては相談しなかったと思います。

自分でも息苦しさを認められていなかったので…。

重たい話だったと思うのですが、聞いてもらえてありがたかったです。

そして、だんだんとわたしの息苦しさは消えていきました。




③心の声を無視し続け、休職することになった社会人5年目


幸いなことに、その後の学生生活では、息苦しさに悩まされることはありませんでした。

社会人になってから、再び息苦しさと向き合うことになったのです。

環境が変化する前に、不安が息苦しさという形で現れるようになりました。

異動前はタスクをこなしながら、息苦しさと一人で静かに戦っていました。

異動後は新たな環境に順応することで意識がいっぱいになるからでしょうか。

不思議と息苦しさは落ち着いていくのです。



1年前も息苦しさと戦っていました。

異動のタイミングが刻一刻と近づき、不安が膨れ上がっていたのです。

仕事中はマスクの下で深呼吸し、何食わぬ顔で呼吸を整えていました。

そして、仕事が一段落するとトイレに向かいます。


個室は一人で静かに戦うにはぴったりの場所なのです。

深呼吸しながら、スマホを取り出し、どうぶつの森のアプリを起動します。

木を揺らして、落ちた果実を拾うと、不思議と気持ちが安らいでいきました。


不自然な呼吸をするせいで、胸や背中が痛くても大丈夫だと思っていました。

空気を飲み込むせいで、お腹が張ってても大丈夫だと思っていました。

息苦しさがピークを超える度に、上手く乗り越えたつもりでいました。



去年、異動した時には息苦しさはすっかり消えていました。

ただ自分の感覚としては、常に肩に力が入ったような緊張感がありました。

そして、次第に仕事が手につかなくなっていきました。

原因として、単純に業務量が多すぎたというのはある思います。


上司2人の板挟みになったことも、わたしにとってはつらいことでした。

上司Aさんが特に怖かったです。

Aさんは良く言えば感情表現が豊か、悪く言えば自分の機嫌を自分でとれない人でした。


狭い個室でミーティングをしている時のことでした。

ある人が、Aさんに電話で連絡をして来たのです。

Aさんは電話越しに、ある人を怒鳴りつけていました。

電話の内容を全て把握できたわけではないです。

ただ、そんなに怒鳴る必要があるのだろうかと不思議でなりませんでした。

そして、わたしまで怒鳴られているような気分になりました。



それ以来、Aさんの顔色を必要以上に窺うようになりました。

肩の上にさらに重い荷物を載せられたような感覚でした。

心の防御力がガクンとと下がっていたのでしょう。

今となっては冷静に振り返れますが。

当時のわたしにとっては、Aさんと話すことさえ恐怖でした。


皆さんがお察しの通り、そんな状態では、どんなに働いても仕事ははかどりません。

取り組んでも取り組んでも終わらない業務。

業務が終わらなくても明日はやって来ます。

会議もプレゼンも消えてはくれません。

合間を縫ってプレゼンの準備を重ねました。

でも、ちゃんと回っていない頭では上手くいきませんでした。



プレゼンの後もやるべき仕事はありましたが、すぐに取り組めるはずもなく、トイレへ駆け込みました。

息苦しさに悩まされている時にも一人で戦っていたトイレの個室。

この時は戦う気力なんてこれっぽちも残っておらず、こっそり泣きました。

泣いて感情を吐きだしたことでスッキリしました。


けれど、根本的な解決策ではないですよね。

頭ではうすうす気付いていました。

わたしは仕事を休むべきなのではないかと…。

ただ、自分で自分に許可を出せずにいました。

次の日も、その次の日も、上手く回らない頭にムチを打って働いていました。



トイレで泣いた3日後、休日に働いている時のことです。

休憩時間を使って、友達に今の状況をLINEで相談することにしました。

その友達は異動前の職場で一緒に働いていた同期です。

友達に状況を話したことで、わたしは仕事を休むべきだと結論が出せました。

そして、休職生活に入ったのです。



今になって思います。

息苦しさがない時でも、心の不調はあったと思います。

「がんばりたくない」

という声が休職の前から聞こえていました。

大学受験で合格が分かった直後の時のあの感覚と似ていました。

そう、自分の中でシャッターが下りるような音です。



今思えば、心がブレーキをかけていたのだと思います。

でも、せわしない毎日を戦っていたわたしにとって、ブレーキをかけられることは迷惑でしかなかったのです。

「何を言っているの?」と突っぱねていました。



もっと心の声を丁寧に拾ってあげていれば良かったな

そう思えるのも、時間が経ったからこそです。



④ゆっくりじっくり自分と向き合って見えてきたもの


休職したことで、ほぼ毎日働く生活から、毎日が休日生活になりました。

最初の2ヶ月は時間の余白はたっぷりあるはずなのに、心の余白は全然ありませんでした



ぽっかりと空いた時間で読書や料理に励んでいました。

読書は好きなことですが、だんだんタスク化していきました。

そして、2品を並行して料理することにやたらこだわっていました。


今思えば、自分がまともだと証明するために必死だったんですよね…。

自分がまともだと証明するために働いていたときと、根っこの部分は変わらなかったのです。



少しずつ元気を取り戻すと文章を書きたくなってきました。

そして、2020年の12月にあるテーマが降りてきました。

「過去の棚卸し」というテーマです。

”降りてきた”だなんてカッコいい言い方をしていますが…

直前に『メモの魔力』を読んでいた影響が大きいと思いますw


そういうわけで、意気揚々と自己分析を始めました。

医療職のため、世間一般の就活をしていないわたしにとって、初めての自己分析でした。



意気揚々と書き始めたものの、1人で黙々と書くだけでは行き詰まってしまっいました。

そんなタイミングで、あさぎさんの館の門を叩いたのです。

仲間がいても、自分と向き合って感情を書き出すことは、泥臭くて苦しい作業でした。

もっとスマートにできたらいいのにと、何度も思いましたね。



わたしの場合は自分でも気付かないうちに、感情を麻痺させて生きてきました

特に「怒り」を抑えつけて生きてきたように思います。

怒りはどこかへいなくなってしまいました。

知らず知らずのうちに喜哀哀楽になりました。

怒りの代わりに悲しみを増量して対応していたのだと思います。

いつしか哀哀哀哀になってしまったのです。

ゆっくりじっくり自分と向き合うことで、喜びや楽しみの波が押し寄せ、喜哀哀楽に戻っていきました。

そして、怒りが突然リバウンドしました‼︎

怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒
(四字に収まりきらず)

だんだんと怒りは引いていきました。

そんなプロセスを経て、喜怒哀楽を取り戻したのです。



自分と向き合ったことで、まずは感情を取り戻しました。

それ以外にも気付きがありました。

本当に好きで努力なしに続けているものの存在に改めて気付いたのです。

例えば、手帳時間はわたしの大切な時間です。

誰に言われたわけでもないのに、中学2年生の頃から手帳を使っています。

手帳をつけていたから、南米旅行やチンチラと暮らす夢が叶えられたと思っています。



好きなものについて、深掘りして見えてきたものがありました。

どんな感情を味わえるから好きなのか…。



・旅行→非日常、予定不調和
・読書→没入感、知らない世界


深掘りのおかげで自分の輪郭がくっきりとしました

ごきげんに生きるために譲れない軸が定まってきました。


①大好きな作業に没頭できる環境

②軽やかに予定不調和を楽しむ心

③五感をフル活用してうっとりする時間


大切にしたい3つの価値観。

正直、1年前のわたしなら小馬鹿にしていたかもしれない価値観でした。



⑤やっと手に入れた自分らしい肩書き


今年の冬は絶賛休職中で、自分の肩書きに納得感を持てずにいました。

休職前のわたしにとって、仕事の定義は達成感・やりがい・自己実現でした。

でも、ひと度メッキが剥がれてみれば、消耗・疲弊・自己犠牲でしかなかったのです。



自分の肩書きに納得感が持てない、そう書きました。

でも、医師の肩書きがない宙ぶらりんな自分のことを認められるかといったら、認められませんでした。

なんと肩書きがないと存在価値さえ感じられない大人になってしまったようです。



最初はつらくて悲しい気持ちでいっぱいでした。ぴえん。

でも、しばらくすると開き直れるようになっていきました。

どうせ世間から見た肩書きはそう簡単に外せません。

なら、自分で自分に肩書きを与えればいい。


自分が楽しいと思うことに肩書きをつけることにしました。

SNSでハッシュタグをつけるような気軽な感覚です。

以下のように自分にハッシュタグをつけてみました。


【2021年1月時点での肩書き】
・文章を書くこと
#エッセイスト
→  #ゆるふわストリッパー
#妄想暴走機関車

・ペットの動画を撮影・編集すること
#チンチラYouTuber

・優雅にお風呂に入ること
#NewYorker

・料理をすること
#料理研究家

・本を読むこと
#読書家

(そこはかとなく漂うネタ切れ感)


余談ですが…

蛇足ですが…

Twitterでの話をお伝えしますね。

「海賊王に俺はなる!」のノリで
「ゆるふわストリッパーになる!」と呟きました。

わたしとしては、感情をさらけ出す宣言のつもりでした。

エッセイストとしての志を高らかに宣言したつもりだったのです。












瞬時にフォロワーが減りました。


「わたしストリッパーなんです!」

道端で現れた裸一貫の人に言われても恐怖でしかないです。

普通に露出狂ですよね、うん。



話を元に戻しますね。

オリジナルのハッシュタグをつけただけでは、わたしを取り巻く現実は1mmも変わっていません。

でも、軽やかに考え始めたら、息苦しさからは解放されました。

自分らしさを自覚できたことで、本当にやりたいことに取り組むことができるようになりました。



具体的には、書いて発信することです。

そして、『5歳児エッセイスト』を名乗り始めました。


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↑ストリッパー要素ゼロなビジュアル


毎日noteを書き散らかしたり…

Webメディア『かがみよかがみ』にエッセイを応募したり…

好き放題やってきました。



最近、新たな肩書き『花咲かガール』が加わりました。

またもやフザケたネーミングですね。


わたしはごきげんな毎日を送りたいと思っています。

そのためには今に目を向けて、小さな幸せを集めることが大切だと思います。

ワクワクする未来のため、楽しみの種まきもできたら最高です♪


結局『花咲かガール』って何なのか。

ここだけの話、唐突に花咲か爺さんになりたいと思ったからです。

でも、爺さんにはならないだろうな。

かといって、まだ婆さんじゃないもん。

じゃ、花咲かガールで!

そういうノリです。

深い意味なんてありません。


無理やりまとめると…

日常にささやかな幸せを見出し、明日を楽しみに過ごすための活動です。



いつまでガールを名乗り続けるのか問題はあります。

でも、考えてみて下さい。

『5歳児エッセイスト』だって、ダイナミックな年齢詐称です。

遠慮せず厚かましくガールを名乗り続けていきます!


⑥これから何する?


1年前の私の悩み。

Google検索風に再現するなら、こんな感じでした。


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※念のために付け加えておくと、爆破スキルは持ち合わせておりません。


仕事に疲れ果てて、自分を見失っていました。

そんなドン底のわたしでも、時間をかけて着実に変われました。

日常生活にささやかな幸せを見出し、軽やかに生きられるようになりました♪


自分の心の声を聞き取れるようになったからだと思います。

「仕事=消耗・疲弊・自己犠牲」だと思っていた頃のわたしを振り返ると…

「頑張れない」という心の声を無視していました。



当時のわたしをアンパンマンに例えるならば…

残り少ない顔をちぎって、他の人に分け与えるような状態でした。

人に頼れないわたしは、自分で新しい顔を作るしかありませんでした。

悲しいことに、ジャムおじさん的存在がいなかったのです。


顔をちぎりながら、新しい顔をこねる。


こう書くと、シュールだなと思いますよね。

「とりあえず、顔ちぎるの止めたら?」

って言いたくなりますよね。


でも、1年前のわたしはシュールな状況が当たり前になっていました。

実は残り少ない顔をちぎりまくっている人、結構いるんじゃないでしょうか。


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自分の心の声を聞く。

言葉にすると、とてもシンプルなことです。

優しくて繊細な人ほど、実行するのが難しいかもしれません。

他人の想いを汲み取れてしまうから。

でも、考えてみてほしいのです。

他人を大切にし過ぎるあまり、自分を雑に扱っていいのかな?



話が変わりますが…

動物のゴリラは、いかつい見かけによらず、優しくて繊細な生き物です。

ストレスが原因で下痢をすることもあるそうです。

読んでくれている方の中にも、ゴリラのような方がいるかもしれません。



ゴリラがライオンになることはできません。

ゴリラがパンダになることもできません。

ゴリラがゴリラのままでのびのびと過ごせたら良いですよね。

そんな想いがこれからやりたいことに繋がっていきました。



この10ヶ月、子供顔負けに全力で遊んできました。

そろそろ新しい世界を見たくなってきたのです。


これからやりたいこと。

『ゴリラ園長』として、ゴリラ国を築くことです。

迷えるゴリラ達がのびのびと過ごせるような場所になれば良いと思います。

もちろんゴリラ以外の動物も大歓迎です♪


いずれにせよ、わたしにできるのはゴリラであり続けることだけです。

雨ニモマケズ風ニモマケズ、ゴリラであり続けます。


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