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社会関係資本研究 3月

社会関係資本に関し個人的研究をしている。

何がそんなに楽しくてともうが、それがヘキなので仕方がない。
3月にあったことをハイライトで記す。

①シェアハウスという拡張家族について

僕はかれこれ1年半ほどシェアハウスで暮らしている。
地域に流れものが多く、契約周りのの面倒臭さを低減させつつ、生活費を抑えようという目論見だ。
地方において法人形態のシェアハウスはほとんどない。
それなのに、なぜか地域ごとに一つはそういう拠点がある。
それでいてパーティーをはじめとする集会所になることも多く、そこにはやたらいい道具や食料や酒が集う、楽しさの側面もある。
一つ屋根の下、より自分のパーソナルエリアを共有することになるので、暮らしを共にすることはただの地域の友達以上の関係性を育む。
物資を共有し、時間を共有し、「外」では出さないような些事も文脈を共有していく。
これは浜通りの社会関係資本の潤沢さを形作るために大きな役割を持っているのではないかと仮説を持つ。

そんなシェアハウスのホットトピックとして、これまでに前例がないファミリーがが入居してきた。
赤子がいるのだ。これはシェアハウスにおける拡張家族性を浮き彫りにする。
組織体が生まれると、自然と役割が生まれる。

Beforeファミリーは、わりかしバラバラなライフスタイル、家計も食事もバラバラなのであくまで空間の共有という感じが強かった。シェアハウスというよりはルームシェアの延長。
この家にファミリーが暮らし始めると、まずレイアウトやライフスタイルが明確に赤子を中心にシフトチェンジした。
先住民にあたる僕ともう一人も、庇護の対象である赤子がいると、自然とあやしたり読み聞かせをしたり、時にはご飯を食べさせたり、面倒を見ることになる。
父Bと母Bとしての属性が追加されるのだ。その分僕らも赤子から癒しや知識、発見を日々いただく。与えるだけ/与えられるだけでない双方向性があるのだ。
一方で父A母Aも、時に遊び仲間として、時に仕事の相談相手として、多面的な属性を共有することになる。
また、交友関係も広い彼ら彼女らは僕とも違う人を招き入れてくる。
この「変数」の多さはシェアハウスの醍醐味だ。

拡張した家族的共同体として、相互の空間や利潤をダイナミックにせめぎ合いながら共生していく。
ハードとしてのコモンズとそこを取り囲む関係性の集合体、その結晶体としてのシェアハウス。

とっても良い。

②今月も相撲をやった。我々は何を交わしているのだろう。

さて、小高満月相撲祭は3月場所を開催。
今回は滞在中のアメリカ人が参加してくれたことがハイライト。
彼女は研究のために来日し、小高に3週間近く滞在している。

なんだか交流が欲しいと聞きつけたので、SUMOに行かないかとお誘いをした。
のちに語るが彼女はどこかのマリーナに行き相撲のショーを見るのだと思っていたらし。
まさかの青天の霹靂、暗雲立ち込める海岸へ行き、火をおこし、相撲を取ることに。
うちの女子部のエースと超絶いい試合を繰り広げた。
そこで、思い出した話がある。
コミュニティ研究をしている黒田さんのポストだ。

我々は満月の夜という特別感のある夜に、海の香りと音に包まれ、闇に浮かぶ炎を囲み、極め付けは全身全霊で取っ組み合う。
時々鍋とか作ったりする。五感をフルに身体的同調をする。

非言語で相手の重量力、息遣いもゼロ距離で感じる。
包み隠さずに言えば、性行為にも及ぶ量の情報を相手と交換しているのかもしれない。

ワールドカップの決勝を共したチームメイトにも匹敵する、濃縮されたコンテクストを共有しているのだ。知らんけど。

③コンテクストを共有することの難しさ

社会関係資本の循環には、このように濃い文脈が起点になると考える。
それには属性や体験や時間など何かしらの共有が不可欠である。

それが複数あればあるほど、共有がしやすくなる。
ただ、現代のフィルターバブルと文人主義的な側面は、コンテクストの共有を難しくしている。

さらに言えば、何かしらの共感がないとそもそもコンテクストの共有が始まらない。

先日とある場面で、コミュニケーションの拒絶を目の当たりにしてしまった。
前提としてAさんとBさんの属性はだいぶ違う。
本人の名誉のために詳しい状況は伏せるが、スタンスそのものからBさんを自分からは離れた存在がゆえ恐怖の対象として見ているようだった。

私が周りの人と造作もなく行い、意図的に輪っかで括ろうとする行為は決して簡単なことではないのだとハッと気付かされた。

そう、周りの人と共有できていることはとても貴重なことなのだ。
このありがたさを噛み締めて、社会関係資本の循環につとめていこうと思う。


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