何百年、何千年と時は進んでも想いは永遠である。それは人であっても人でなくても。
視えている過去世の映像は…視ている状態では平気でも、文章に書き始めると吐き気を催す事がある。
それが不思議である。
視えている時もその時の感情は流れ込んでくる。
しかし、文章に起こすとその感情は更に渦となって今の私に影響を及ぼす。
今書きかけている仁依雅の話もそうだ。
仁依雅の話は珍しく、前世を視ながら書いている。
最期は知っているがどう展開するのかは分からない。
浅く一生を知るのではなく、深く会話を聞くようにしている。
なので、その時の悔しさや疲れた感情、悩み…。
そんな部分にも触れたりする。
よく分からない言葉も出てくる。
この間は“薬”の事を“いち”と呼んでいた。
漢字も分からない。
聞き取るのが大変な時もある。
仁依雅の最期…死ぬ時は仁依雅の人生を見始めた頃に知っていた。
その前世によるが、仁依雅が印象強く残っている記憶を知って、最期を視て中を深く視ていく。
普段と変わらない視え方だった。
仁依雅の最期も普段と変わらずメモをするつもりで文章にすると、吐き気が止まらなくなった。
頭痛も起こり、二週間首が痛くて仕方がなかった。
“視えるものが全てではない”
とはよく言ったものだ。
確かに軽く見ただけでは、分からない部分がある。
しかし仁依雅の話は少しいつもと違っていた。
仁依雅も、仁依雅自身が気付いていなかった事実があった。
“物事を深く視る事、知ること。”
前世と今世の関係…。
そして、前世から引き継ぐのは思いだけではない。
使命、天命、任務、命令、責任。
仁依雅の話はまだ書きかけで、中盤を視ていても本当に時間がかかる作業である。
しかし、私はやはり証明していきたい。
今回改めて強く思った。
“何百年、何千年と時は進んでも想いは永遠”だと。
それが、人であっても。
人でなくとも。
魂が反応するから涙が出る。
魂が思い出したいと叫ぶから涙が出る。
魂が思い出したくないと叫ぶから涙が出る。
様々な感情に向き合いながら…色んな事実や真実を受け止めて抱きしめていきたいです。
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