見出し画像

妖怪酒場

 私がその酒場を見つけたいきさつは次のよう。夏の盆休みに、学生時代の友人と何年ぶりかに会って都内某所を飲み歩いていて、次の吞み処へハシゴする道中、藪から棒に連れがいった。
「あの、枕返しってのは、なにがしたいのかね」
「え?」
「枕返しって妖怪、いるでしょ。昨夜、寝る前に枕を裏っ返しにしながら、ふと思ったのよ。まぁ、俺が枕を返すのは、前の夜についた頭の凹みを解消するためなんだけど、これを枕返しって奴は率先してやってくれるのかって。悪戯にしちゃあ他愛もないし、愛い奴ってな感じでさ。しかしどうにもマが抜けてるじゃない」
 間が抜けてるのか魔が抜けてるのか、そこはどうでも、枕返しという妖怪について、たまたま私には一家言あった。それというのも、母方の祖父が亡くなったとき、ちょっとした「枕返し騒動」が持ち上がったのだった。



 母は北陸は山際の農家の出で、祖父の家といえば、築三百年といわれる巨大な入母屋を戴いた古民家だった。総茅葺で、玄関の敷居を跨ぐとそこは土間であり、中央通路の最奥が開け放たれて、採光はそこばかり、子どもの記憶ながら、向こうに見えた中庭の緑が目に眩しかった。右手奥に造り付けの竈の焚き口が並び、通路を挟んで左手から式台と上り框の一角が突き出して、その中央に囲炉裏が切られ、見上げれば自在鉤の括り付けられた黒い垂木は自然木の曲がり節くれそのままに、その他の垂木と互い違いになりながら、吹き抜けの高さを誇示した。じき中庭から鶏や豚の小屋の匂いが、風の加減で漂ってくる。

 毎年の盆休みは、母と弟とこの家で一週間と過ごすのが習いだった。最後の年はなにかの都合で私だけ居残ってひとりで東京に帰ることになり、鈍行と急行を乗り継いでの、忘れ得ないささやかな冒険となった。
 祖父が亡くなった三月、私はまだ小学四年生だった。絢爛豪華な仏壇のある伽藍堂のような仏間に祖父は安置され、親族らが入れ替わり立ち替わり夜伽に訪れた。仏間とは襖一枚隔てた八畳間に私は控えていて、時折こちらを覗き込む者があると、きまって「しかしあんたも物好きだねぇ」と苦笑され、呆れられた。祖父のそばにいたい。私は仏間の隣りで寝起きするといい張って、しかし年端のいかない弟は尻込みして首を縦に振らず、母は弟のお守りをする必要から、やむなく私の独り寝は実現したわけだった。零時を回っても私はまんじりともせず、祖父からかつて買い与えられた妖怪やらUMAやらUFOやらのムック本に目を通しながら、じっと聞き耳を立てていた。

 すると夜更けて隣りから、ずるずるとなにやら引きずる音がふいに立った。気配の絶えるのを待って薄く襖を開くと、はたして祖父の頭と足の位置が先刻とは逆になっている。私は寝床に戻ると、妖怪本を繰ってさるページの記述に目を走らせて、「やっぱり!」と興奮を抑えながら小さく快哉を叫んだ。
 それからほどなくして、仏間でまたひと気がし、枕元の明かりを落として襖の隙間から恐るおそる覗くと、これが予想に反して掻巻姿の女で、よく見ればすっぴんの叔母。
「誰だい、枕を逆にしたのは」
 と独りごちながら、祖父の敷布団を引きずって頭と足の位置を元に戻した。
 うつらうつらしていると、また気配が立って、外を覗くと今度は大伯父だった。ぶつくさいいながら敷布団の端をつかんで回転させようとしたところが、勢い余って祖父が布団から転がり落ちた。私は思わず「あっ」と声を上げたが、それより先に大伯父が声を上げたものだから間一髪のところで気づかれず、それからは大伯父の大童をとくと見届けた。
 次に現れたのは、ほかならぬ母だった。私は慌てて布団に潜り込んだ。母はわざわざ八畳間に上がり込んで枕元まで顔を近づけて私が寝入ったか確認すると、襖をそっと閉じ、おそらくは祖父の枕頭に座りついてだろう、なにやらひとり語りを始めた。なにを語るかはよくも聞き取れず、しばらくして静まったかと思うと、例の敷布団を引きずる音が立った。
 その後も叔父や伯母らが夜伽に参戦し、そのたびに祖父の寝床を返さずにはおれないようで、大伯父のように粗雑に扱う者もひとりふたりでなく、祖父を布団の外へ転がして、自分で転がしておきながら、ひゃっといって腰を抜かし、ことほどさように賑々しい通夜だったのである。

 火葬場で亡骸が焼かれるのを待つあいだ、座敷で精進落としの折り詰めをつつきながら、叔父だったか伯母だったか、通夜のときの祖父の枕の位置のことをいい出して、夜伽に訪れると枕が南向きになっていて、まさか玉郎(私のこと)がそんないたずらをするとも思えないから、誰かが北を南、南を北と取り違えて、善意で余計なことをしでかしたのだろうと推測を口にすると、北はどっちだと大伯父が憮然としていい、やれ庭のほうだ土間のほうだ仏壇のほうだと誰彼が譲らず、すると大伯母が、「なに、枕返しが出たんさね」とこともなげにいって、ああ、なるほど、そうだ、そうだと一同途端に納得するふうだったのだ。


 以上の「枕返し騒動」の顛末を友人に話して聞かせたところが、中途で相槌が聞かれなくなり、おやと思って振り返ると、はたして友人の姿がどこにもない。どころか、背景全体がどういうわけか奥行きのないモノクロ画に見え、こんな酔い方はしたことがないと周章狼狽していると、「ちょいと、そこの人」と、呼びかける胴間声があって、見れば熊のような大男だった。
 黒の前掛に紺の作務衣、白い襷に腕まくりとくれば、一見して料亭の大将といった風体だが、五十絡み特有の頑なさと表裏の快活さもさることながら、和帽子の下の目元口元に浮かぶ柔和さを裏切って余りある、それは顔に刻印された凄まじい刃傷なのだった。左目は額から頬にかけて縦にスパッと割られたような痕がついて終始開かれず、左の耳介は毟り取られたような按配で、根の部分が側頭部からギザギザに突き出ていた。怯む私へ一礼すると、
「その話、改めてこちらでお聞かせ願えますか」
 据わった目のままにっこり笑って、背に負う間口一間ばかりの料理屋の暖簾を目顔で示すのだったが、不思議もなにも、男とその店ばかりは総天然色で、煌々と光を放つ置き看板には、草書体で「妖」の一文字。

 暖簾をくぐって引き戸を開くと、右手がカウンターで止まり木に先客が四人。左手の小上がりには客はいなかった。さぁさと、大将に案内され、ほら、この人を真ん中に、と促されて奥の二人が一席ずつ向こうへずれた。
「なんにしましょ」
「それでは、ハイボールを」
 酔漢物怖じせずの習いで、ふだんは極度の人見知りの私が、知らない顔に四つ五つと囲まれて平然としている。なんならこの不意打ちが楽しくさえある。さて、ここへ呼ばれた成り行きはなんだったかと供されたものを口に運びながら記憶を辿っていると、
「ごめんなさいね、突然連れ込んじゃって」
 すぐ右隣りの客がいった。若くもないが、年増ともいえないような女っぷりのいい瓜実顔の厚化粧で、それもそのはず、どこぞの社交会の帰りといった風情の、ボディコンシャスな緋色のノースリーブのドレスを召していた。その隣りの男客がさしずめ連れとわかるのは、いまどき珍しいタキシードの紳士だからで、薄化粧にカイゼル髭とは往年の役者のようだが、よく見ると目元口元に縮緬皺が浮いて、連れというより父娘と見えなくもない。
「まっこと、良き語りだったそうで」
 タキシードがいう。
「今宵はおいらの奢りだよ。真ん中の人間も、だから遠慮すんな」
 これは一番奥に座る小児、いな、小男で、なりは小さくとも顔ばかりはでかい、飛び出すような両のまなこに中央にどっかと居座った獅子鼻、赤い蓬髪から尖った耳の先がツノのように覗くあたり、もう尋常の者ではあり得ない。山吹色の地に麻の葉模様を白く抜いた和装のいでたちで、片肌脱いだそこから覗く肩や胸やは目を見張るような筋骨隆々ぶり。私のすぐ左隣りの客もまた和装で、先刻からカウンターに肘をついて両手で顔面を覆っている、おやと思ってしげしげと眺め、「なにかあったんですか」と思わず私が訊くのへ誰も答えない、周囲の息を詰める気配がはち切れんばかりになったその刹那、こちらにやおら向き直ってパッと両手を開いたところが、目も鼻も口もないのっぺらぼう。うわっと腰を抜かして止まり木から滑り落ちそうになる私を緋色のドレスが背後で支えたが、とても女の持てる怪力ではなかった。
 私の喫驚ぶりを見て、大将含め皆涙を浮かべ、腹を抱えて笑った。私もなんだかバツが悪くって笑うほかなく、私が笑うのを見てまた皆が笑った。
「来て早々に悪いんだけど、真ん中の人間よぉ、さっきしていた話を、もっかいおいらたちにもしてくんないかな」
 獅子鼻の蓬髪がいい、それでそうだったそうだったと思い出し、私は咳払いをしてからちょいと喉を湿らせると、「……母は北陸は山際の農家の出で、祖父の家といえば……」と語り出す。語るうち、聞き手はひとりまたひとりと頬杖ついて目をつむり、心なしか首を上向いて、遠い昔へ思いを馳せる姿勢に固まった。

 語り終えてもなおしばらくは、聞き手らは身じろぎひとつしなかった。どころか、目尻が潤んで、玉となって膨れ上がり、やがて一筋にこぼれ落ちた。
「いやぁ、まっこと良き語りだった」
「妖怪冥利に尽きるとはまさにこのこと。人間にこうして語り継がれてこそ、我らは浮かばれる」
「方便、といいましたかな。物は考えようというのが、今日までかくも人間を繁栄させた、唯一にして最強の処世術。そして人間の想像する力が万物に命を吹き込み、人間の語りが万物を生きながらえさせる」
「おい、枕返しよ、まっことよかったではないか。いまどき主役になることだってまだあるんだね。生まれた甲斐があったってもんだ」
 すると枕返しと呼ばれた獅子鼻の蓬髪は、感極まったのだろう、言葉もないままうっぷして、わっと声を上げて泣き出した。
「泣けよ、泣け泣け。そして三千年の孤独の恨みつらみを洗い流せよ」
 タキシードがいって、見ればこちらももらい泣きしている。
 ひとしきり泣き終えてから、枕返しは顔を上げ、こちらを向いて晴れやかにいった。
「今宵はおいらの奢りだよ。だからさ、もっかい、さっきの話、語って聞かせてよ」



 以来、都内の某繁華街で呑む折には、ふと思い出して心当たりを探して回るのだったが、ついにその呑み処へ私は行きつかなかった。深酒が垣間見させた夢まぼろしだったと合点するにしろ、そういう酔い方は年齢的に焼きの回った徴と私はとらえたもので、爾来呑み方はだいぶ大人しくなって、人にいわせれば、つまらなくなった。繁華街へもとんと足を運ばなくなった。
 それから十年。同年輩の仕事仲間の通夜に参列するという機会を初めて得たもので、心身にどうにも堪え、まっすぐ家に帰る気には到底なれず、タクシーの運転手には近くの盛り場まで、とだけいいおいて、見も知らぬ街で私は車から降りた。いくら呑んでも酔えない境地にあって、置き看板の連なる路地に迷い込んで、世のすべてから爪弾かれたような孤絶感を持て余していた。するとあたりがたちまち奥行きのないモノクロの平面になって、そこばかり総天然色の「妖」の間口が、目の前にあった。
「おかえんなさい」
 とは聞き覚えのある胴間声。
「さぁさ、奥へお座りになって」
 カウンターの最前から、タキシードに赤ドレス、一席空いて禿頭の、海老茶の着物に黒の兵児帯とは、かつてこの店に招かれたときと同じ面々だが、最奥にいた獅子鼻の蓬髪がこのたびは見えない。
「急にお呼び立てして悪かったわ」
「まっこと、すまんこって」
 いえいえと返しながら思わず私が二度見したのも無理からぬことで、タキシードも赤ドレスも、止まり木に座るどころかカウンター側に背を向け三点倒立で身を支え、膝をぴっちり閉ざしてて腹のほうへ折り、そうして真上になった尻に頭を載せるのだった。
「これはまた、どうしました」
「いやはやかくなる無作法、まっことお許しいただきたく存じまする。なにもかもにっくき枕返しの悪戯のせい、見つけ次第八つ裂きしてくれようと夫婦ともどもここへ参ったのでございまするが」
「枕返しは雲隠れ。奴のケータイも圏外に」
 大将の説明はざっと以下のよう。こちらは飛頭蛮ご夫妻で、大陸より本邦へお渡りになってはや三千年。いまではろくろ首と申せば通りは早いが、あれは江戸の絵師が身体から離れて遊飛する首を表現するのに、頭部が刎ね落ちたのではないことを図示するために頸部を蛇のように引き伸ばしてくねらせて描いたのがそもそもの始まりであってそもそもの間違い、飛頭蛮様は頸部を伸ばすなどという間抜けなことはなさりません、夜な夜な首ばかりが遊離して、蝙蝠よろしく耳を広げて夜空を羽ばたいて、街灯に集まる羽虫を食うのをもっぱらにするが、ときには人に噛みついてその血を啜る。さてもことの次第は、飛頭蛮様の寝室に枕返しが侵入した模様で、枕を頭から足元へ返すという、彼にしてみればちょいとした挨拶程度の悪戯に過ぎなかろうが、飛頭蛮様の飛頭ときては、枕を目印に返ってきて、そこを首の付け根と疑いませぬから、まぁ、それはそれで融通の効かぬこと、ずっぽり根を張って、ご覧の通り尻から首が抜けなくなった。
「枕返しめ、この屈辱、どう晴らしてくれよう!」
「八つ裂きでは足りぬ!」
 大将が銘々の前に熱燗の徳利を差し出す。続いて備前の魚皿に笹の葉を敷いて、ハタハタの焼いたのが二尾ずつ供される。
「さぁさ、おふたりとも、久々に人間をお連れしたんです。まずは乾杯と参りましょうよ」
 大将の音頭で一同杯を上げる。のっぺらぼうはどうするのかと見ると、盃の縁をない口にあてがって、ボダボタとこぼして襟元を濡らしたが、誰も気にも留めない。
「人間よ、そなたはすっかり老いましたな。死すべき者の哀しさだ」
「そういうあなた方は昔のまんまだ。羨ましい限りです」
「試験もなんにもないからな」
「死すべき者だからこそ、ぼくらは想像し、語る」
 思ってもみないことが口をついて出て、私は人知れず驚いた。周囲はさも感心したように頷いている。
「それで、お知恵をぜひお借りしたいのです。飛頭蛮ご夫妻と枕返しとが、いがみ合わずに済むような、ウルトラCの解決策を」
「お安いご用で」
 私は鷹揚にいった。
「また枕を返させればいいのです」
「あなた、それではまっことつまらない。物語にもなりゃしない」
「いえ、返し方を注文するのです。今度はあなた様の枕を奥様の頭の下に、奥様の枕をあなた様の頭の下に」
「うーむ、それでは我らの首がすげ替わってしまうぞ。男が女に、女が男に。そんな出鱈目が許されようか」
「しかしあなた様には、奥様の身体をまざまざと体験する機会となる。奥様は奥様で、殿方の身体を体験する貴重な機会を得る。それこそは飛頭蛮の新たなる物語の一ページになるのではありませんか」
「なるほど! 我らの物語性の幅がたしかに広うなるな。互いの身体を知れば、千年来絶えたその気も蘇って、いよいよ世継ぎも誕生するやも知れぬ」
 飛頭蛮夫妻は脚と脚とを絡ませて、抱き合って喜ぶのだった。
 すると左隣りから嗚咽のようなものが聞こえてきた。のっぺらぼう氏がカウンターにうっぷして肩を震わせている。
「どうしましたか」
 大将が代わりに答える。
「羨ましいと、こう申しておるのです。自分は目も鼻も口もなく、人を驚かすだけの一発屋だから、物語など与えられようもない、ないない尽くしだといって世を儚んでおるのです」
 私はまた、我ながら驚くほどに、口から出まかせがするすると出た。
「なにもないとは、すべてがあるというのと同義。あなたは望みさえすれば、なんにでもなれるのですよ。問題は、一歩踏み出すその勇気だ。笑われたっていいじゃないか、蔑まれたっていいじゃないか。いずれにしたってゼロが一以上になるのです。まずは求めましょう。さらば、与えられん」
 のっぺらぼう氏はおもむろに顔を上げた。そしてこちらへおずおずと振り向いた。
「顔を描いてほしい。そう申しております」
 絵心のなさ過ぎる私には荷の重い要求だった。それだけはご勘弁を、と首を横に振ると、
「大将、わたしにペンを。わたしが飛び切りステキな顔を描いてやるよ」
 飛頭蛮夫人が名乗り出て、三点倒立の一角を崩して、油性ペンを手にすると、わなわなと腕を伸ばした。のっぺらぼう氏が私の背後に顔を差し出す。
「できた!」
 見ると、顔一面に「へのへのもへじ」と描いてある。
「おい、おまえ、飛び切りの顔を描くといっておきながら、へのへのもへじとは、まっこと失礼の極み。いったいどうしたことか」
「……緊張し過ぎて、わけわからんようになってしもうた!」
 へのへのもへじはカウンターにうっぷした。狼狽える私をよそに、大将がいう。
「案じなさんな。彼はいま、心から喜んでおるのですよ」



 その後、今日に至るまで、その店が私の眼前に現れることはない。再会を恋焦がれながら、十年が経ち、二十年が経ち、ロマンスグレイを誇った頭もすっかり禿げ上がり、目は霞み、耳はよくも聞こえず、なにかにつけ手元が狂うようになった。右といいながら、左を指している。そのたびに、妖怪め! と苦々しく呟いて、虚空を睨みつける。

 春先のささやかな庭をへ巡りながら、梅の花の綻びを愛で、木瓜の花の綻びを愛でる。足元に散らばる金貨と見えたのは、昨日今日咲いたと思しき福寿草。ありし日に妻が鉢から植え替えたものだ。二十年来、律儀に春を告げてきたかと思えば、今更のように感慨もひとしおだった。ありし日の庭に、妻がいて、子らがいた。カタバミの花を摘み、ハナニラの花を摘み、食卓の上に広げては、私の蔵書を引っ張り出してきて、皆で押し花にしていたのをふと思い出した。
 まだどこかに挟まってるだろうかと思えばにわかに心は騒いで家うちへ戻りかかった私は、
「玉郎や、玉郎や」
 と名を呼ばれ、顔を上げれば、行手に海老茶に黒の兵児帯の和装がひょいと顔を覗かせて、おいでおいでしている。
「やぁ、へのへのもへじ君。久しぶりだね。相変わらずだ」
「試験もなんにもないからね」
 そういうと私の手を引いて、目的ありげな足取りになる。
 気がつけば、あたりはモノクロの二次元世界。

「遅かったじゃないか、迎えに来るの、ずいぶん遅かったじゃないか」
 恨み節とも喜びともつかぬ文句を心につぶやきながら、いつか私の両足は、地を踏まず、虚空を掻いている。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?