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おぼえたがえ

 仮寓の庭の梅がほころびはじめた。
 妻がそう知らせて、その知らせだけで私は満足してしまった。

 数日後、梅はほぼ満開になったと、妻は知らせた。庭側のブラインドを上げて庭を見れば済むことなのに、私はそれをすぐにはやらなかった。
 さらに数日して、ふと思い立ってブラインドを上げると、果たして向かって右側の梅の古木に薄桃色の花がたわわに咲いていた。南中にかかろうとする日を浴びて、風もないのにひとひらふたひらと花びらが流れた。

 梅は桜に比べ派手さはないが、そのつつましさと花持ちのよさとを私は気に入っていた。
 万葉以前は、花といえば梅だった。しかし梅がほころんでも世間は騒がない。桜の開花にいたっては、全国ニュースである。そんなところも私が梅を気に入る理由だったが、桜より梅、とはあえて言わない。そんなふうに公言しながら、いざ桜が方々で咲きはじめれば、それはそれで陶然となるのはわかりきっていたから。真夜中に、満開の桜並木の下を歩くほど格別なものもなかった。私はそこで、物怪と年始の挨拶を交わす。

 ほどなくして、紅梅も咲いたと妻は言った。どれ、と今度は玄関から庭へまわって見ると、部屋から見て今度は左手に植わる古木に、濃いピンクが炸裂して天に手を差し伸べている。白梅より紅梅のほうがはるかに背が高かった。

 尾形光琳じゃあるまいし、紅白梅の取り合わせとはなんとも月並みだが、それでも春のおとないをことほぐ気持ちに私は素直になずんだ。

 足元に蓮の鉢がある。
 蓮はすっかり枯れている。水面に紅白の花びらが浮いて、その合間を冬越ししたメダカたちが、ぴんぴんと跳ねるように泳ぐのが見えた。

「紅梅のほうがあとに咲くのに、白梅より花持ちが悪いんだねぇ」
 庭から屋根上の洗濯場の妻に声をかける。
「いえ、咲いたのは紅梅が先ですよ」
 妻が屋根上から庭に向かって教える。妻が、蓮鉢の水面に逆さに小さく映っている。え、と私は聞き返す。妻が先刻より大きな声で繰り返す。聞き返したのは、もちろんわざとである。

 ああ、これはおぼえたがえの仕業、とこれはもう間違いなかった。しかしおぼえたがえの冬籠りの明けるのは例年四月の桜の散りぎわの時節で、おや、とはなった。おぼえたがえが出たようだよ、と告げると、その日の夕に妻はミモザをひと束買ってきた。水を入れたガラスのコップに私の分と妻の分と子どもたち三人の分とを取り分けると、就寝前にそれぞれの枕頭に置かせた。
 おぼえたがえはどういうわけかミモザを嫌う。これはおそらく全国広しと言えど、私だけの発見だろう。果たして丑三つ時、仰臥する私(もちろん寝たふりをしている)の鼻先に天井から垂れたおぼえたがえは、ナイトテーブルの黄色の花房を認めて、干し海月のように縮こまった。天井裏へ退散しかかって、布団の上の私の腹あたりで丸くなる猫に気づいたもので、気づくやいなや、猫の耳のなかへ素麺の吸われるようにして潜り込んだ。

 以来、おぼえたがえはもっぱら猫に取り憑くようである。猫の記憶をちょいちょいいじったところで、いたずらの甲斐もないようなものだが、今のところおぼえたがえにとっての安住の地は猫の頭のなかであるようだ。時折猫は、私を妻と間違えて擦り寄ってくるし、また妻を私と間違えて背毛を立てて威嚇する。
 ミモザの花束で首のあたりを撫ぜてやると、猫はじき眠ってしまう。

 今年はだいぶん春のおとないが早いようである。

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