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座敷童子

 研修生時代の上長の誘いに応じて田岡と永山は、本社最寄りの駅前の韓国料理屋で飲んでいた。入社当時、反省会と称して毎晩のように飲み食いした店で、韓国人の女店主が二人のことをよく覚えていて、十年ぶりの再訪だと知らせたものだから、月日の経つ早さに田岡も永山も顔を見合わせて驚いた。

 上長は今度の臨時の人事異動で海外赴任が決まった。如才ない永山が社内メールの告知を見てすぐさま本人にコンタクトしたもので、それで今夜の酒席とあいなった。積もる話もあろうよと、上長はいったらしい。

 上長とは五歳しか年は離れていない。博識でありながら、親身で謙虚な人柄が人望を集め、後輩らの良き相談相手だった。大学でアラビア語を専攻していた歴が役員の目に留まり、この度の海外赴任が決まったらしい。赴任先は中東のさる一国。妻が同行を渋ってねと、いつか上長のお悩み相談室のようになっていた。あれこれのたまうのは正義感の強い熱情家の永山の役目で、もとより口数の少ない田岡はさっきから首肯しながら黙って聞いている。上長には就学前の一人娘がいて、これとの別れがともかく辛いのだと涙ぐんだ。

 店の女主人が店からの奢りだといってカンジャンケジャンを三人分盛った皿を卓に運んできた。ナマの渡り蟹を三日三晩特製の醤油ダレに漬け込んだのを鋏でぶつ切りにして食らう、あるいは殻を歯で砕いて中身を吸い出す。これこれといいながら永山は使い捨てのビニル手袋を嵌めると、半ミをつかんで足を豪快にむしり取る。タッパルももらおうと上長がいい、日本では「もみじ」と通称される鶏の足先にコチュジャンとヤンニョムをまぶして甘辛く炒めたのを山盛りにした皿が渡り蟹のそれの横に並んだ。
「この、あるかなきかのミをひたすらほじくり出してしゃぶり尽くし、殻やら骨やらの硬い部分をあらわにしていく行為が、この上なくエロティシズムなわけ。歯を使い、舌を使う。これを食と結びつけた韓国料理というのは、じつに尊いな」
 小難しいことをいい始めたら上長の機嫌のすこぶる良い証拠だった。

 手指に集中すると、おのずと会話は途切れがちになる。蟹料理が商談に向かないとされるゆえんだが、なかなかどうして、仲間内なら、ケジャンにしろタッパルにしろ、手指に集中していると、きまって誰か誘い出されるようにして幼少時の思い出を語り出すのが常だった。いま田岡の脳中をよぎるのは、入社三年目で退職してしまった男の同期のした栗の皮剥きの話で、秋麗らに庭の丸テーブルにビニルシートを敷き、収穫した栗を中央に山と積み上げて、家族総出で皮を剥いていく。剥き終わると後始末はもっぱら子どもらの仕事で、熊四手の大樹の下で三人四人がかりでビニルシートを広げ、せえのとかけ声して栗の剥きカスを払うのがなんとも気持ちよかったと、その同期は結んだ。そんなことを思い出しながら、いままさに蟹のミをねぶる自分らの上を、涼やかな秋風の吹き去るように田岡は感じた。

 秋分を過ぎてなお、朝夕それなりに冷え込むことはあれ、日中はまだ三十度を越す暑さだった。異常気象とはいわれるが、例年十月まで夏日は持ち越されるものだと田岡は自戒する。夏と秋にグラデーションはなく、断層に落ち込むようにして秋は突然にして秋なのである。朝の通勤時、徒歩で駅へ向かう途中、どこぞの庭から無花果の葉叢の旺盛に往来へはみ出すのを見た。よく見れば、木のそこかしこに青い実がたわわに生っていた。あれが色付くまで、もういくばくもない。

 ちょうどそのとき、店の奥より子どもたちの喚声が立った。店の奥が座敷席で、襖が閉てられていたのはてっきり使われていないからと決めてかかっていたが、喚声につづく物音と気配とで人がいる、それも大勢の、と遅ればせながら気がついた。
 こちらの反応を察したものだろう、女主人が平身低頭していうに、
「今日はママさんたちの宴会で。うるさいかったらごめんね」
 襖をさっと開けると、なかへ向かってハングルでなにかいった。アーとかオーとかイゴーとか聞こえて、女たちの笑い声がどうと起こった。開いた襖越しに、空になったマッコリの陶製の壺が重ねられ、それが敷居側にずらりと並べられてあるのを田岡は見た。それから中年と思しき女の、腕の付け根に贅肉を溜めた丸い背中が三つ四つ。

「こんな時間に子どものはしゃぐ声を聞くというのも、気持ちのいいもんじゃありませんね」
 永山が女主人の耳をはばかりながら小声でいった。
「いや、もう、こんなのはふつうだよ。居酒屋でも、子連れ割引なんかあって、かえって歓迎するのが最近の風潮」
 上長がいう。
 しばらく間があって、嗄れた声で付け足した。
「しかしわからんでもない。深い時間に活動する子どもというのは、薄気味悪いものだ」

 夜な夜な娘が俺を蹴りにくる。
 そう告白されて、田岡はいまどきの父親は娘と同じ床で寝るものかと内心うろたえた。恋人の添い寝にすら眠りを妨げられる彼は、それがふつうのこととして押しつけられる現実に耐えられそうになかった。
 上長の帰宅はほとんど零時を回るはずである。帰宅してからのルーティンをむろん知るはずもないが、いずれ、飯を食い、風呂に入り、着替えを済ませて寝床に入る、に大差はあるまい。眠る娘の額にキスでも見舞うだろうか。さらにその横に妻の眠るのかもしれない。で、眠りに落ちる頃合いに、したたかに娘に蹴られる。堪ったもんじゃないと、想像するだに田岡は渋面の張りつくのをいかんともし難かった。考えることは同じだったようで、永山がいった。
「毎晩娘さんと同じ床で寝てるんですか」
「いや、まさか。銘々の部屋があって銘々のベッドで寝ているよ。もっとも娘は、時折母親の寝床に潜りこんでるようだけど。……ああ、娘が蹴るというのはね、横に寝ている娘の寝相が悪くて図らずも俺を蹴るとかじゃなくて、わざわざ俺の部屋に忍びこんできて、背中を文字通り蹴ってくの。彼女にとって、俺は蹴りたい背中なわけ」
 そう冗談めかして上長は笑うのだったが、田岡は笑えなかった。永山も同じだっただろう。すかさず永山が訊く。
「夢遊病とかですか」
「いや、そのへんはなんとも。起き抜けの娘はケロリとしてるわけ。昨夜パパの部屋に来なかったかとやんわり訊いても、なんのことと意外そうな顔をする。どうしたのよ、と妻が眉を顰めるものだから、俺はことを荒立てたくなくって、そっか、パパの気のせいか、なんて濁してからこちら、数日と蹴られる夜が続いてね。ある晩、風呂上がりの俺の裸を見て、妻がひゃっと声を上げるわけ。どうしたの、その背中。真っ青じゃないって。それまで自分でもぜんぜん気がつかなくって、鏡に映して我ながらびっくりよ。アザの縁が黄色くなってて、青やら紫やら赤やらの煙が背中一面に渦巻いて見えた。これがさ、全然痛くないの。痛みを感じないからこそ気がつかなかったわけでね。それで、実は娘が夜な夜な……と打ち明けると、妻の顔からみるみる血の気が引いていった」

 その翌朝、上長の妻は思いのほか強い口調で娘を問い詰めたそうである。もとより娘に夜ごとの奇行についての覚えはなく、問い詰められてただただ泣きじゃくるばかりだったと。幼稚園で眠くて眠くて仕方がないとか、頭痛がするとか、意識が朦朧とするとかないのかと問われ、かぶりを懸命に横に振る。妻は専門医に診てもらうことを主張したが、夫たる上長は、娘が必要以上の罪悪感に苦しむのをうべなえず、当人に実害がないならしばらく様子を見ようと妻をなだめて結果今日まで放置するにいたった。
「なにかに取り憑かれてるようでもあるんだが、まぁ、なにせ可愛いさかりだからな」

 ビニルの両の手袋を口を使いながら器用に外すと、上長ははばかりに立った。
「さっきの話、どうもあやしくないか」
 いったのは永山。なにが、と田岡は便所のほうへ視線をやる。
「いや、聞きながらふと思ったんだよ。これ、娘さん、死んでんじゃないかって。この世にいないのが前提で、不思議の話で誤魔化している」
「まさか」
「でもさ、夜ごと寝床を襲う女の子の顔が、どうにも浮かばないじゃない」
 それは思った、と田岡は答える代わりに首肯する。
「でさ、柄にもなく、幽霊、とふと思ったの。そしたらこれがしっくりきた。たちまち浮かぶというか、まぁ、顔がはっきりするわけじゃないが、その子の姿全体が輪郭を得るというのかな、それになんだか夜な夜な現れる意味もわかりそうな、ね」
 そういってしばし真顔でこちらを見つめたかと思うと、突如永山は冗談冗談といいながら破顔した。しかし田岡の脳裏には、月の煌々と照る真夜中に、なだらかな起伏をなす茫々たる草原にぽつんと立つ大樹の陰、さかんにシャベルを上げ下げする男の姿が遥か遠くに見えていた。足元には燐光を放って横たわる青白いなにか。するとビニルの手袋越しに唐辛子まみれになった自身の両手が、なんとも凶々しく見えてきた。

「どうしたの。ふたりして、そんな深刻な顔をして」
 席に戻ると上長は永山と田岡の空いたグラスに焼酎を注いだ。永山が酌をしようとするのを制して、手酌で手前のグラスをなみなみ満たす。
「まぁ、当面寂しくなりますな」
 そういって背を丸め、表面張力によるふくらみへとがらした口先を触れようとしたその刹那、座敷の襖がわずかに開いて、その隙間からわらわらとこぼれ落ちるようにして子どもが一人、二人、三人、四人……と続けざまに現れた。裸足で土間に着地すると、田岡らのテーブルまで数珠繋ぎになって駆けてきて、これを一周すると、上座に位置する上長の真うしろを通過するたび、ひょいと飛び上がっては各々がその背中に蹴りをひとつ喰らわせていった。そうやって五人、六人、いや七人、八人……と和服もあれば韓服もある、いずれもざんばら髪の男児女児で、なんとも不気味なのはみな向こうへ顔を向けていっかな表情のわからないこと、黙々といたずらを仕掛けてそのまま店の外へ出ていってしまった。

 あまりのことに田岡も永山も呆然としてやり過ごすほかなかった。見れば上長はなにごともなかったように先刻の姿勢のまま、ずずっと焼酎をすすった。
「あの、大丈夫ですか」
 永山が訊く。
「うん、大丈夫大丈夫。さっきもいったけど、子どもに蹴られてもぜんぜん痛くないの」
「いや、そういうことじゃなく」
 永山は席を立って店の奥へ行きかかった。たったいまはたらかれた子らによる狼藉について、女主人に文句をいいにいくつもりらしかった。
「放っておけって」
「そういうわけにはいきませんよ。アジュンマ、アジュンマ!」
 呼びかけに応じていそいそと店奥から現れる女主人。永山の形相を見るや、たちまち彼女の顔から笑顔が消える。
「いまね、座敷の子どもたちがね、大変な悪さをしてから店を出ていったんです。この方がね、背中を子どもたちに蹴られたんですよ。だいたい、こんな夜遅くまで子どもをうっちゃらかして酒を飲んでるなんて、親も親、どうかしてるよ」
 すると、女主人はきょとんとして、子どもが、と聞き返した。
「そう、子ども。十人くらいいた。座敷のママさんたちの」
 女主人は小首を傾げて奥へ走ると、座敷の襖を開いて、なかへなにごとかハングルで問いかけた。イゴーとかオプソとかニダとかセヨとか切れ切れに聞こえてきて、どうっと女たちの笑い声が立った。四、五人どころではない、百人から集まる宴席にこそ似つかわしいような、地鳴りのようなどよめきに、田岡は目を剥いた。永山もまた。
 襖を閉てて戻ってきた女主人は、困惑顔でいった。
「子どもなんて元からいない。座敷にいるのはママさんたちだけだから」
 そうだよそうだよいいながら、上長は訳知り顔でうなずいて、焼酎を呷ると、いつか目の白い部分まで緋色に染まっていった。









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