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モチダ夫人 2/2

ママ友らの運動によってようやく円久寺幼稚園でもクリスマス・パーティーが開催される運びとなったが、璃子さんの夫であるアフリカ系フランス人から物言いがついて土壇場で中止に追い込まれる。運動の中心にいたモチダ夫人は怒り心頭だが、璃子さんは亜紗美にだけその旨告げて年明け前に一家でフランスに永住してしまう。

1/2あらすじ


 二月に入ってしばらくして、個人のLINEでモチダ夫人から連絡があった。サシ飲みの誘いだった。しかし亜紗美はそれどころではなかった。
 小六の長男が中学受験に失敗した。模試の最終が去年の十二月で、その時点で合格率五十パーセントを越える志望校は一校もなかった。それでも亜紗美は、一月いっぱい学校を休ませて朝から晩までつきっきりで過去問に取り組ませれば、一校くらいなんとかなるだろうと信じて悲観しなかった。工学部上がりの夫に土日は算数と理科を見させ、亜紗美自身は社会の小テストを大量コピーして、毎日繰り返し息子に解かせた。国語はもう、馬なりに走らせるしかないと腹をくくった。
 途中までいい感触できていたのだ。第一志望校の過去問実施にしても、合格最低点を大幅に上回る年度が続いて、この調子でいけばひょっとしてひょっとするかもと親バカの期待は大いに膨らんだ。ところがあるときを境に、好調だったはずの算数エンジンのチェーンが切れたかシャフトが折れたかして、彼自身は変わらず猛烈に取り組んでいるのに得点は伸び悩む、どころか急速に下降して、ついには一桁台を叩きだす始末、土日に夫の声を荒らげる回数は指数関数的に増えるし、亜紗美は亜紗美で息子を励ましながらも苛立ちは隠しようもなく、そうなるともう家庭内の空気は最悪で、「亜紗美、ごめん、アイツ、壊れちゃったかも」という夫の絶望的な証言を待つまでもなく、結果は見えているといえば見えていたのだった。息子の受験校に土壇場で怖気づく夫を、暦占によれば今年の自分は十年に一度の大幸運期なのだからと啖呵を切って黙らせたのさえ、いま思えば恥の記憶というより他人事のようである。息子の中学受験の失敗など不幸のうちに入らぬと頭でわかっているだけに、気持ちのやり場に困りながら、一日が過ぎ、二日が過ぎ、やがて一週間が過ぎして、夫は長男と亜紗美と距離を置きたがり、亜紗美はほとんどなにも考えられない状態が続いた。
 そんなさなかでの、モチダ夫人からの飲みの誘いだった。それどころではない、とは思いつつ、逡巡したのも束の間、亜紗美は応じていた。このやるせなさを、誰かに打ち明けたかったというのはもちろんあるだろう。しかしじつに端的に、いまの自分はモチダ夫人にこそ会いたいような気がしたのだった。

「いい感じの隠れ家でしょ」
「うん、すごく、いい」
「こんなところにね。新年早々見つけたんだ」
 亜紗美はカウンター向こうで焼き物を焼く大将をチラとうかがう。五十がらみの脱サラ男。昨年末にここで飲んだときは、璃子さんはいかにも常連らしく振る舞っていた。そして帰りぎわ、戸口まで見送りにきた大将に「今後もひとつ贔屓にしてやってください」といわれ深々と頭を下げられたのを、亜紗美は昨日のことのように思い出していた。注文を訊くさいにこちらの顔をまともに見たはずの大将がなんのリアクションも見せないのは、プロとしての心得からなのか、それとも単に覚えていないだけなのか。もちろん前者だろう。余計なことをしない・いわないにまさる処世訓もないのだから。
 亜紗美が面食らったのは、璃子さん行きつけの店が入れ替わるようにしてモチダ夫人のそれになったこと以上に、夫人のレコメンドする肴や飲み物がことごとく璃子さんとかぶることだった。
「ヒューガルデンホワイトの瓶を置いてるってとこがわかってるって感じだよね。ベルギービールのフルーティーさは、ちょっと日本のビールにはないよね。これからくる半ナマのレバ焼きとの相性も抜群だから。飛ぶよ」
 語る蘊蓄まで判でついたように同じ。グラスで乾杯し、一杯目を二人して一息に飲み干す。
「うまいー。生き返るねー」
「うん」
「翔太くんの受験、どうだったの」
 悪びれもせず訊いてくるところがいかにもモチダ夫人らしく、亜紗美もいまさら驚かなかった。
「うーん。これがねぇ……」
 何度となく頭で繰り返してそらんじてしまっている家庭の悲劇を澱みなく話しながら、つくづくこの種の物語ほど語るにも聞くにもつまらないものはないと亜紗美は痛感する。都内の中学受験の厳しさを語る材料には事欠かないものの、なにをどう語ったところで結果は変わらないわけで、それは合格にいたらせられなかった親の戦略の甘さと、息子の実力のいたらなさの二つをなお浮き彫りにするだけのことだから、聞き手が親身を装えば装うほど身の芯から白々と明けていくようなのを亜紗美は禁じ得ない。
「……夫が理系だからさ、算数理科は多少はできると思ったんだけどね、それ以前に記憶力がどうも……」
「父親のここが似たとか母親のここが似たとかさ、いいとこばかりじゃないからねぇ、なんか、これまで顕在化しないで済んだこととかがさ、中学受験を通じて剥き出しになるみたいなことがあるんじゃないの。中受を経て仲違いする夫婦が結構いるらしいけど、妻のここに冷めるとか、夫のここに冷めるとか、なんかそうゆうの、ありそうだもんね」
「うん」
「でも、振り回されないことだよ」
「え?」
「月並みな励まし方になるけど、挫折って成長の糧じゃん。中学受験を経験した翔太くんはさ、それについて色々思うところがあるはずで、それは今後の成長につながると思うんだよね」
「そういえば、わたし、結果についてどう思ってるのか、息子に訊いてないや」
「子どものためのはずが、いつのまにか親のためになってるってやつ? それってやっぱ、なにかに振り回されてたからなんじゃないの」
「あー、どうなんだろ。けして浮き足立ってたわけじゃないよ。ブランド校を受けさせたわけじゃないし」
「翔太くんって、ぶっちゃけ勉強できたの」
「うーん。ふつうかな。学校の成績は悪くはなかったよ」
「国立とか私立とかの学校ってさ、地元の公立でちんたら勉強してたんじゃ持て余しかねない秀才たちのためのそもそも受け皿なわけじゃん。秀才でもないのに、いろんなこと諦めさせて、たっかい金払って塾入れて、息抜きもさせず子どもにひたすら勉強させるって、ぜったいおかしいってわたしなんか思うけど」
 歯に衣着せぬ物言いに、亜紗美は反発を覚えるどころか、一種感動すら覚えるのだった。あ、私、慰められたり、励まされたりとかじゃなく、誰かに叱られたかった、なんなら罵倒されたかったのかも……と思い当たると、自然顔を横向けて夫人の横顔をまともに見据えた。夫人は構わず続けた。
「なにを隠そう、わたし、中学受験失敗組なんだよ。わけのわからないうちに塾に入れられて、毎日が勉強勉強で、友だちと遊ぶこともかなわず、小学四年生のときから毎週日曜日は都心まで試験を受けに行って、結果が振るわないと両親から怒鳴られ、ときには手も上げられる。気の触れたフリして突然往来で叫んでみたり、二階の勉強部屋から屋根伝いに逃げ出して行方をくらまして警察沙汰になったりしたこともあったっけ。だからって、わたし可哀想なんだなんて、こんな歳になっていうつもりないし、いまとなっては両親との関係も良好だし、さっきの話じゃないけど、やっぱ失敗は成長の糧だからさ、中受してよかったとは思ってるんだよ。でも、傷は傷だよね」
「悠子さんって、東京出身なんだ」
「東京も東京。てか、ここが生まれ育った土地だから。半澤って表札、このあたりでよく見かけるでしょ。わたしの旧姓が半澤。あれ、みんなうちの血縁なんだよ。古くからの地主なの。亜紗美さんは東京?」
「私は埼玉。昔の与野」
「そっか。ここだけの話ついでにいうとね、わたし、円久寺幼稚園の卒園者なんだ」
「え?」
「いまの園長先生のお母さんね、そうそう、おばあちゃん先生、ダンナを亡くしてあの人が園長になりたての頃でね。すごいよね、娘の入園どうしようってオリテに参加したわたしを受付で見かけるなり、開口一番、半澤悠子ちゃんでしょって。そりゃ、もう、心鷲掴みですよ」
「それはすごいね。わかるんだ」
「あの人、過去の園児の顔と名前、ぜんぶ覚えてるから。だからわたしね、誰よりも円久寺幼稚園のファンだしシンパなんだ。クリパ開催の許可をもらうため去年署名をいまの園長先生のとこに出しにいったとき、わたしが亜紗美さんを連れて行ったのは、まさに計算だった」
「計算?」
「だって、亜紗美さん、翔太くんと梨花ちゃんと水尾ちゃんと、三人の子を足かけ六年かけて円久寺に通わせたでしょ。誰が見ても亜紗美さんはマダム円久寺じゃん。で、わたしはOBなんだから、ママ友たちはどうでも、幼稚園側はわたしが円久寺愛に満ち溢れてることくらいわかってる。だからさ、あのとき、円久寺に忠誠を誓うツートップが園長先生に対峙してたってわけ。そりゃ、園長先生も、無碍にするわけにはいかなかったでしょうよ」
「そうだったんだ。なんか、さすがだね」
「クリパはまぁさ、ああゆう結果になっちゃったけど、もうこれは仕方ない。やるだけのことはやったんだ」
「うん」
「亜紗美さんはさ、わたしが寺の境内でクリスマス・ツリー飾ってぜんぜん平気なオツムテンテン女と思ってた?」
「思ってないよ」
「いや、思ってたね。でもいいの、そんなこと織り込み済みだもん。理路を尽くして話の筋を通すってのがもちろん正攻法なんだけど、わたしたち女だからさ、男どもが下に見ているのを逆手に取って『泣く子と地頭作戦』で臨んだほうが話が早いってこともあるわけで。寺でクリスマス・パーティーなんて聞いたら、ある種の人間は眉を顰めるでしょ? でもさ、動いてるのがオツムテンテン女たちと聞いたら、やれやれってそいつらなるじゃない。そこに隙が生まれる。ああ、こいつらにキリスト教とか仏教とか道理を説いてもわかるわけがない、めんどくさいからってテキトーに譲歩してくれればしめたもので、こっちとしてはなし崩し的に既成事実を積み重ねていくだけだからね。だってさ、二葉幼稚園にしても啓明幼稚園にしても、クリスマスのイベントをあんなにド派手に宣伝してるわけじゃん。もちろんクリスマスだけじゃないよ。預かり保育も午前保育もうちよりぜんぜん充実してるから、働く親への訴求力がそもそも違うわけ。寺だからっていまどき保守的であっていいわけないじゃん。来年の入園者が激減してるってのは知ってると思うけど、その兆候はもう二年前から現れてた。それをキャッチしてわたしが奔走するってのもヘンな話だけどね、あのむっつり住職はなにせ腰が重くてダメなんだよ。クリスマスをどうしても祝えないなら、仏事にかこつけてなにかはなやかな行事を企画するでもよかったんだ。なにせ若いママたちってのは、はなやかなイベントに弱いんだから。でもそれもやらない。やらない尽くしで手をこまねいて、それで次年度の入園者激減とくれば、そりゃ、ついに来るときが来たって感じじゃん。クリパはさ、だから、園の経営者サイドの停滞しきった空気に風穴を開けるために、あえてパープリンを装って押し切らせてもらったうちらの最後の苦肉の策だったんだよ。なのにだよ、まさかよりによって外人に潰されるなんて、誰も想像しないよね」
「璃子さんの旦那さん」
「てか、とんだ食わせ者だよ。あの女」
「璃子さんが?」
「亜紗美さん、インスタとかやらないんだっけ」
「うん」
「あの女、インスタやってんだよ」
「うん」
「でさ、うちらが上げるストーリーズとかに足跡残してくわけ。いいねとか押すわけじゃなく。まぁ、気になるんだろうね。で、さびしいのかな、お友だちがほしいのかな……ってなってさ、じゃあってんでみんなしてフォローリクエストしたんだけど、これがぜんぜん承認しやがらない。なんだよってなるじゃん。じゃあ放っておこうってなって、しばらくして忘れた頃に承認してきやがった。あれ、親がJALかなんかでしょ? 二言目にはパリとニューヨークが長いからとかなんとか、つまらないマウント取ってくんだよ。で、アフリカ系のダンナとフランスに永住しますって誰にもなんにも挨拶しないで日本を去ったんだ。だいたいがさ、わたしらを見下してんだよね」
 そういってモチダ夫人はクロコのハンドバッグのなかをあさってiPhoneを取り出した。電源を入れ、しばらく検索してから、無言で亜紗美に手渡す。
 ディスプレイいっぱいにTシャツ姿のラフな女の上半身が映し出されていた。女は歌っているようだった。ほかでもない、璃子さんだった。歌う璃子さんの頭らへんにピンクのテロップが踊っている。いわく《日本語の唱歌をフランス語で歌ってみた》。
「誰にあてて歌ってるのか知らんけどさ。向こうも必死なんだろうね。それはそれでいいさ。頑張って生き抜けよって感じ。でもさ、自分ら日本を去るわけじゃん。だったらなおのこと、なんの得があってうちらのすることにケチつけたのか、まったく意味がわかんない」



 そして三月。水尾の卒園式に珍しく率先して出席した夫は、その後に続く長男の小学校の卒業式にもすすんで亜紗美に同行した。
 長男の卒業式は朝からあいにくの雨だった。国歌、学園歌、校歌の斉唱のあとに卒業証書授与が続き、証書を受け取る直前に生徒は一人ひとり壇上からひと言、父母らに向かって卒業にさいしての想いを高らかに宣言する。生徒数は二百名を超え、いつ果てるともしれなかった。夫の顔をそれとなく覗くと、黙然として目を閉じるかと思えばなにやらニヤニヤしながら聞いている。手元の案内には、晴天の場合、父母らは昇降口から正門まで並んで花道を作る、とある。そして雨天の場合は、一階の廊下を片側一列に並んで花道を作る、とあった。
 式が終わり、卒業生は一旦教室に戻って銘々荷物を取りに行く。ほどなくしてアナウンスがあり、参列者は式会場の体育館を出たら右手に進み、廊下の片側一列に並んで待機するよう指示があった。
 ぞろぞろと会場をあとにする父母らの列は遅々として進まず、亜紗美たちがようやく体育館を出、あと数歩で校舎に入るという屋根付き渡り廊下にかかったところで、折悪しく進退きわまった。雨もさることながらその時分は風も強まって、吹き降りに晒されて寒さは耐え難かった。ふだんの夫なら公僕は融通が利かないとかなんとかひとくさりぼやくところだが、れいの卒業証書授与の直前で子どもたち一人ひとりがした宣言の分析にさっきから夢中で、「大別すると、夢を語るのと感謝を述べるの二つだな」「親への感謝なんてやめてほしいよな。もう生まれてきてくれただけでこっちがありがとうなんだから」「アイツが夢語りのほうでよかったよ」「しかし『将来オリンピックの選手になりたいです』じゃないんだな。『オリンピックの選手になります』なんだな。断定させるのは、なんでなんだろう」「サッカー選手になりますはあったが、野球選手になりますはついに聞かれなかったな」「素直に感謝できる人、そしてきちんと謝れる人になりたいってのもあったな。なんか、グロテスクなものに触れた気がするよ。ありがとうとごめんなさいがこんなに金科玉条になってる国民も珍しいんじゃないか」……等々、亜紗美のテキトーな相槌もお構いなくひとりでぼそぼそとしゃべくって悦に入っている。
 列の後ろから駆けつけた若い女の先生に、後方の誰かが「ちょっと、ここで止まられると寒いんですけど」とクレームをつけ、「そうですよね」と答えた若先生は校舎のガラス戸を引いてなかに入り、しばらくすると列は動き始めた。ようやく校舎に入って右に折れると、まもなく廊下の左側に子どもたちが校舎から出ていくと思しき昇降口が見えた。さっきの若先生を含め二、三の先生方が両手を広げて父母らを廊下の右手に並ぶよう呼びかけ、もっと詰めてください、もっと先へ詰めてください、と急かす。昇降口には列から外れて三人の母親がいて、これと学年主任の年配の男の先生が対峙して、どうやらちょっとした悶着が生じている模様。
「卒業生を花道から送り出したあとは」
「ですから、それで皆さん解散です」
「え、だって、雨降ってますよ。雨のなか、写真撮れっていうんですか」
「うーん、しかしこればっかりは」
「だから、体育館を開放してくださればいいんじゃないですか」
「しかし花道を通って子どもたちがまた体育館に戻るというのも……。そのままお帰りになるというのがそもそもの式次第ですから」
「嘘でしょ、友達同士で写真撮りたいでしょう、みんな、ふつう」
「こんな寒空にほっぽり出すなんて、絶対おかしいよ。卒業式が台無し」
「……わかりました。それでは体育館はこのあとも開放いたします。お写真は体育館で撮っていただけるようにいたします」
「そんなの、あったりまえでしょ」
「ですからね、皆さんも、列にお並びになって」
「え、冗談でしょ。子どもがこんな近く通ってくんでしょ、そんな至近距離からなんて写真撮れないでしょうよ。うちらここで控えて、子どもが花道から出てくるところを撮りたいんです」
「いや、しかし、それを誰かがされますと、皆さんだって……」
 昇降口の手前を過ぎ、廊下の鍵の手に折れるあたりまで亜紗美たちは追いやられていった。
「なんだい、ありゃ」
「知ってる人だよ」
「オレも?」
「うん」
「え、誰だ。わかんない」
「ああいうの、みっともない?」
「え……まぁね。ただ公僕の融通の利かなさがまたしてもしみじみと露呈するといいますか……」
「モチダ夫人だよ」
「え」
「詰め寄ってたあの二人じゃないよ。うしろに黙って控えてた人」
「あ……あの……」
「そう、あの、ものすごい美人」

 それから三十分ほどその場に待たされて、ようやく角を折れた先から喧騒が立ち、ランドセルを背負い証書の入った筒と一輪の赤いカーネーションとを手にした卒業生らが、一列になって行進してきた。一組の生徒が通過し終わった時点でたちまち行進は滞った。昇降口のあたりから女たちの声を荒らげるのが聞こえてくる。騒動が持ち上がるというより、祭りの賑わいの感じがして、笑い声も混じる。おそらくは学年主任の声だろう、卒業生は靴を履き替えていったん校庭に出るよう指示が飛び始める。卒業生の列はのろのろとまた進み始め、やがて長男の姿が見えるに及んで、亜紗美は反射的に叫んでいた。
「ちょっと、お花、そんな入れ方しないで」
 ランドセルにカーネションを逆さに突っ込んで、蓋の隙間から切り口のほうを覗かせている。「まあまあまあ」などとニヤついて、母親を牽制する息子。夫は苦笑しながら右手を伸ばし、「おめでとう」といい、息子はハッとして右手を差し出して夫のそれを握り、甲高い声で「ありがとう」といった。
 卒業生のしんがりが目の前を通過して、そのあとから花道を作っていた保護者らがなし崩し的に続いてくる。亜紗美らも中途から合流した。昇降口の手前は大変な混雑で、娘息子の名を呼ぶ保護者らの声が飛び交った。玄関では靴を履き替えるのにもたつく父親たち母親たち、軒下は傘をさす親子らが屯して、そのまま帰るかふたたび体育館に引き返すか逡巡する模様、またいっぽうで下駄箱を尻目に体育館へ直に向かう一群があり、これまた渋滞している。息子はどっちへ行ったとなって、亜紗美はなかば追いやる形で夫を校庭のほうへ向かわせた。
「見つけても見つけなくても正門付近で待ってて」
 そう叫びながら、自分は体育館に向かう。

 亜紗美の気はとうから逸っていた。廊下で戯れ合う男の子らを押しのけ押しのけして、やっとの思いで体育館の敷居をまたぐと、館内の隅から隅へ視線を走らせる。息子のほうが先に気がついて、母親に向かって手を振るが、亜紗美は気がつかない。いや、気がついているのかもしれない、不安げな表情がパッと明るくなると、亜紗美はやや小走りになり、息子の目の前を通り過ぎる。
 亜紗美の視線の先にいるのはモチダ夫人だ。誰かと談笑していた彼女はふと面を上げると、片手の指先のみを上げ、微笑を浮かべる。が、その微笑も雪のひとひらの露土に触れたかのごとくたちまち消え入って、顔全体が怯えに強張った。亜紗美は腹の前にあるハンドバッグの中身を我知らずあさっていた。ハタから見れば、ときならぬ刺客が、凶器を探るものと見えたかもしれない。指先が震えていた。
(なんだったっけ)
 すんでのところで思い出せそうで思い出せないもどかしさだった。亜紗美は他人事のように思っている。
(なんだったっけか)
 その場にくずおれそうになるのを必死で堪えながら、足を前へ前へ繰りだすうちに、周囲の空気の密度はたちまち大きくなるようで、いや、もう久しい前から、濁った水のなかを掻き分けるようにして生きてきたと感じている。




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