見出し画像

傘化け

 車窓の向こうは本降りになっていた。

 あいにく男は傘を持たなかった。
 少々の雨なら平生から男は濡れるのを厭わなかった。駅舎の売店で傘を求める列を尻目に、男は躊躇なく雨中へ身をさらす。家までは、歩いて二十分の道のりだった。

 途上、往来になにやら落ちているのを男は見つけた。
 傘だった。
 傘といっても、時代劇に見るようないわゆる番傘で、夜目に赤白黒の三色の絵が見えた。紙はすっかり濡れて路面に貼り付いていた。
 やり過ごせばいいものを、とんだ酔狂で男は手に取った。ずしりと重かった。重いまま、男は手に提げて家に持ち帰った。

 ちょうど風呂上がりの子どもらが上がり框まで出迎えて、なにそれと珍しがって靴を脱ぐ父親にまとわりつく。これは番傘といって、むかしの傘なんだ。むかしはこうやって竹籤に糊で紙を貼って、油を引いて水を弾いたんだ。とはいえこいつは濡れて破れもあるから、すっかり剥がさないといけない。

 いいながら、男は傘を開いてみせた。中央の子骨が花開いて親骨を弓なりに支える、その子骨と親骨とがふいに織りなす繊細な格子模様に、男も子らも声を上げて驚嘆した。あとから玄関を覗きにきた男の妻が、傘の先から滴る水を認めて悲鳴を上げる。


 土曜に男は浅草に出向いた。仲見世通りの鳥羽口に草履屋があったのを思い出し、あの界隈なら番傘を修繕する店くらいあろうという当て推量だった。前もって調べていけばいいのにと妻はいったが、気晴らしついでだからと男は取り合わなかった。

 和傘を土産に売る店を二、三あたったが、売り物はみな玩具同然で、男の持つ本格的な番傘などおよそ場違いだった。草履屋を覗くと、そいつはどうした、と目ざとく店の主人が話しかけてくる。こいつはまた相当の年季ものだね。紙を張るなら蔵前だな。そういって草履屋は、男に店の名を教えた。

 蔵前までぶらぶらと歩いていく。
 風が強まって、川の匂いに濃淡が出る。世間では暑気も盛りとうんざりするようだが、街路樹の柳の下にははや秋の気配がちらついた。蔵前橋の手前、全体黒い鏡張りのような、間口の狭い真新しいビルが控え、一階部分が犬矢来を両に据えた連子格子の開き戸の、純和風の構えになっており、教えられた傘屋の屋号が暖簾に染め抜かれていた。

 店内は存外広かった。
 左右壁ぎわの床が膝高に上げられて、そこへ青畳がそれぞれ六枚、短辺を接して一列に連ねられ、その上に色とりどりの傘が五張りずつ並べられてある。各々の下に、藍、紅花、山吹、十六夜、散桜、朝顔、鹿紅葉、雪時雨……等々傘の銘が小さく毛筆で打ってあり、値を見れば予想とひと桁違って男は度肝を抜かれる。
 店内をひと回りしてから、奥のカウンターに背を丸める作務衣の老爺に声をかけると、ああ、仲見世の草履屋の、と話は通じて、おもむろに立ち上がると、カウンターのこちら側にまわってきて、骨だけの番傘を受け取り、なにやら確かめるように開閉して、これはこれは……と嘆息した。こいつは、ヘタすると江戸時代の産だよ。骨に修繕の痕が見られないからね。ほら、ここにある新しいのもみんな手作りだが、どうしたって現代の職人技は、精密であればあるほど、機械に似る。現代人の無意識ってやつだ。そこへくると、こいつは、木と竹の本質に技がまずあらがっていない。作り手の血汗が天然になずんでいる。そこへ年季特有の凶々しさが加わる。道具以上の魅惑、というよりは誘惑さね。猫も長生きすると化け猫になるなんていわれるが、道具も年季が入ると付喪神なんぞといわれ、おのずと使う人間の念が籠る。こいつはいったいどうしたんだ。

 男は手に入れた顛末を話した。もとは和紙も張ってあったというと、絵柄は、と聞かれ、白黒赤の幾何模様と答える。丹頂か、と呟いて、老爺は男の顔を正面から見据えた。道具に魅入られるということはある。見たところふつうの御仁のようだが、なんの因果か、こいつはあんたに禍いをもたらすよ。悪いことはいわない、ここにあるのをどれでも好きなのを持っていってかまわないから、これは手前に譲りなさい。
 素人を騙して値打ちの品を掠め取ろうなどという魂胆はハナから見えないが、男は先刻より頑なだった。道具に魅入られたのなら、それに応えるまでと、男は豪胆を装った。その、丹頂とやらの絵柄で紙を張るよう所望すると、老爺はいよいよ狼狽を隠さなかった。

 紙の完全に乾くまで一ヶ月を要するという。提示された見積もりは、手間暇に見合う額とは思えなかった。
 それでも男は肯った。

 遅い午後、男は来た道を同じ足取りで引き返した。川風は先より増した。揺れる柳の陰に、白い和装の女が立つように遠目に見えた。近づくにつれ、立て看板だったり芙蓉の花叢だったりする。男はここへ来て、自身が空腹であるのに気がついた。どぜうにするか、藪蕎麦にするか、決めあぐねること自体を楽しむよう。


 それから二週間ほどして、傘屋が電話を寄越した。電話の向こうは若い男のようで、親方の使いの者だと名乗り、あの傘はこれ以上うちでは預かれないから、早々に引き取りに来てほしいという。訳を訊くと、訳はいっさい訊かないでくれ、その代わりお代は全額お返しすると親方はいっているという。引き取るといっても平日は仕事があるからすぐには行かれないというと、それならいまから車でお宅まで届けに上がるという。切羽詰まった様子に気圧されて、男は承諾した。職場からメールで妻に、傘屋が夕に到着するから、受け取るものを受け取ってほしいとも伝えた。

 帰宅すると、男の部屋に例の番傘が開いて置かれてあった。冷房が効いて寒いくらいなのは、使いの男の指示によるものと妻はいった。こうして冷房を効かせた部屋に一週間も置いておけば、糊からなにからすっかり乾いて実用向きになるという。使いの者が託した封の厚みに妻は呆れたが、呆れるべきは紙張りの異様なまでの出来映えのほうだった。
 本物と呼ばれる品を手近に置く機会などついぞなかった男が、それを早々に持て余したのも無理からぬこと。部屋うちを歩くのさえ忍び足になった。同室に寝るとなれば、寝息は細く浅くなり、眠る体はおのずと番傘からできるだけ距離を取ろうと壁ぎわに寄った。

 きっかり一週間後、ついに番傘が男の夢枕に立った。ハヤクサシテ、と切ないような女の声が耳元に囁かれ、それで目が開く。夢かうつつか、ふと視線を遣ると、閉じた傘が茫と傍らに立っていて、裾端から持ち手ではなく女の片脚の、ふくらはぎより下が覗いて、くるぶしまでまっすぐ滑らかに落ちてから、やや肉厚の小さな足に接続して、先は桜貝の爪がきれいに並んだ。肌は骨よりなお白いような白で、大理石の光沢を帯びる。傘が徐々に開いて、膝、腿……とあらわになり、肝心の付け根はかろうじて見えない。イットウサキニアナタサマニササレタカッタ。

 ふたたび耳にするが早いか、我知らず男はその片脚にむしゃぶりついていた。たしかな重みに陶然となりながら、胸の前にそれを抱き上げて、五十四本の親骨の、一所へ集まる上轆轤のほの暗さを仰ぎ見る。

 妻の声がする。
 男の名を呼んでいる。
 瞼が開いて、足元が見えた。薄い翠をほのかに宿すような、白とも黄とも形容されそうな薄い花弁の大ぶりな花が、暮れ方とも明け方ともわからぬ薄明のうちにちらほら咲くのが見えた。覚えをたどるうち、それが庭の菜園に繁茂するオクラの花であるのを思い出した。土の匂い、雨の匂い、濡れた土を裸足で踏む感触と、蚊の大群の羽音とが、いっせいに五感へ殺到する。男は番傘の柄を抱き込むようにして、雨を逃れていた。
 裸足に寝間着のまま、男はそうやって庭に立っていた。どうしたの、いったい。軒下の暗がりから同じく寝間着の妻がふいに飛び出して、男を抱きすくめた。
 どうしちゃったのよ、ほんとうに。



 同じ月のうちに、男は交通事故で片脚を失った。
 ことの一部始終を知らされた男は、驚きもせず、落胆もしなかった。放心するようにも見えたし、なにかをしきりに思い出そうとするようにも見えた。やがて男は見舞いの妻にいった。傘は。丹頂のあの番傘はどうした。

 渋る妻をしつこく説き伏せて、翌日病室に番傘を持って来させた。看護師の誰かが枕元に立てかけられたそれを認めて、きれいだとか素敵だとかお世辞をいった。これには指一本触れるなと、男は凄んだ。

 夜な夜な男は病室の寝台で傘を開く。上轆轤からまっすぐに伸びる女の長い脚は、いまや二本になっていた。男は上体を起こすと、二本のその脚を引き寄せて、角質のない柔らかな踵から始めて、くるぶし、アキレス腱、ふくらはぎ、ひかがみ、大腿、臀部……と順に指の腹を這い上らせ、臀溝をたどって中央の割れ目をひとしきり弄ぶと、今度は脚の内側を爪の先でゆっくり撫で下ろすを繰り返した。繰り返しながら、あらゆる部位の隅々まで鼻を押し当てて嗅ぎ、接吻し、舌でねぶった。

 相部屋に移ってからも、男は大胆にそれをやめなかった。あやしの物音を聞きつけて、カーテンの隙間からそっと覗いた同室の輩がいる。覗き魔は、傘の陰で男と女が情交するものと疑わなかった。ところが仔細に見れば、女にあるべき上半身がない。首がない。同室の男は誰かに告げ口するどころか、早々に病室を引き払った。

 退院の日。車椅子の男は、妻に押されて病院の表玄関を出た。戸外は肌寒く、雲ひとつない秋空だった。ちょっと自分で、と男はいい出して、膝の番傘を妻に預けると、車椅子の輪をみずから回し始めた。駐車場まで行くのだろうと見ていると、その入り口を素通りして、その先は二車線の往来。どんどん加速して、なんか変だと察したときにはもう遅い、男は往来へ飛び出すと、車椅子ごとトラックの下に巻き込まれていった。

 その事故で、男は両腕を失った。
 声と聴力とを失った。
 麻酔から醒めた男の目の前に、茫として番傘が立つ。夢うつつかわからない。その別を問うことは、男にはもはや意味を成さなかった。
 白魚のような、とはこのことかと両腕の肌を認めて男は息を呑む。男の上体を抱き起こしてベッドボードへ背中を預けると、傘の端をつまんでゆっくりと上げていく。上げ切るや、男に被さって、包帯にぐるぐる巻きにされた男の頭部を両手に掴み、手前へぐいと押しつける。口と鼻腔を塞がれて、男は窒息寸前になる。

 日中、妻に躰を拭かれるに任せながら、いつか読んだ『芋虫』という小説を男は思い出していた。戦争で四肢を失った男が芋虫なら、片脚だけ残る俺はさしずめ尺取虫か。しかし尺取虫を決め込むにしても、こうもがんじがらめに包帯で巻かれたのでは、もはや蝶になる寸前の蛹か繭である。自嘲しようにも喉に開けられた穴からヒューヒューと音の漏れるばかり。あの小説では、妻が歪んだ情愛を発露するのではなかったか。夫の視力をあえて奪うというような。それに対して夫は復讐したのだったか。それとも。

 妻は小学校の教室にでも貼ってありそうなひらがな一覧表を用意すると、それを画板に貼り付けて、男のための意思伝達の道具とした。まばたき一回が「はい」で、まばたき二回が「いいえ」。まずは鉛筆の先で、あかさたな……と右から左へたどり、男のまばたきを待ってから、今度は上から下へたどる。そうやって、「しょうべん」や「せなか かゆい」などと疎通する。「かさ」の二字は、寝台の上に自分と並べて番傘を置け、という意味だった。

 退院の目処が立たぬままいたずらに日は過ぎた。この頃では男は妻への意思の伝達をほとんど要求しなくなり、窓外ばかりを見て過ごした。なにをどう声がけしたものか見当もつかず、気休めをいいかかっては妻は俯いて黙り込んだ。
 やがて男は妻の顔を見れば、トン、トン、トン、とベッドボードに頭を打ちつけるようになった。五十音表を示しても目もくれない。日に日にそれは激しくなり、枕をあいだに挟んでもやめなかった。看護師に見咎められれば躰を拘束されると妻がとりなして、ようやくやんだ。
 五十音表を手に取って示すと、男はゆっくりとまばたきをした。妻は鉛筆を持って男の脇に座った。

「がらす わる ほうほう」

 入院してからこちら、文字のいっさいを男は読もうとしなかったから、妻は「ガラス 割る 方法」で検索して上がってくる文字情報でなく、動画を夫に見せた。都合、三本の動画を見せることになった。一本め、二本めと、途中まばたきを二度して、そっぽを向いた。三本めは最後まで見て、無垢な少年のような澄んだ眼差しを妻へ向けると、ゆっくりと一度きりのまばたきをした。
 それは、熱膨張を利用したガラスの破壊方法を紹介する動画だった。ナレーションが冒頭、ガラスは摂氏六十度を超えると構造を維持できなくなり破壊されるのだと説明した。実演者はハンダゴテのようなものに電気を通して十分に熱を持たせてから、その尖端を窓ガラスの中央に押し当てる。するとものの二、三秒で、ガラスの全面にぱっと罅が入った。

 爾来、男はふたたびだんまりを決め込んだ。澄んだ眼差しを向けたのは、妻になにをか託すつもりだったのだろう。とまれ、わたしになにを託すというのか。病院の窓は、幸いにしてというか不幸にしてというか、篏め殺しでちょっとも開かない。窓の向こうを志向するとすれば、ガラスという障壁を破壊するほかはない。その先にあるのは自死という名の解放である。破壊も解放も夫の現状において望むべくもないなら、それをわたしに託すのは当然といえば当然の帰結。とてもそんなことは請け合えない、請け合えないと思いつつ、妻が激しく動揺するのもまた事実。

 数日もすると、男の枕元にハンダゴテと延長コードが置かれてあった。そろえさえすればそれで満足するのではないかという見立ても、妻の側になくはなかった。たとえば要職にある人間がデスクの抽斗の奥にピストルをしまう心理と同様、実用向きというよりは、いわば覚悟の証し、あるいは御守り。
 しかしことはそれで済むはずがない。決行の日時が決められる。それは妻にしたところで、おのれの死刑執行日を告げられるのとなんら変わらなかった。
 決行前々夜、妻はせめてもの思いで叛意を示す。すなわち、諸悪の根源であるところの番傘を密かに家に持ち帰り、それを庭で燃したのだ。もっと早くにこうすればよかった。焔を眺めながら膝から頽れて、妻は天を仰いで泣いた。
 しかし男は後日取り乱さなかった。あたかもすべてを悟るかのように平生を保った。「かさ」の二文字を妻にふたたび示すことはなかった。そして妻の期待したようには、憑き物の落ちる気配は微塵もなかった。 
 その目はいよいよ清らかだった。


 決行当日。
 その日は朝から冷え込んだ。
 曇天の窓外は、いつしか烟って、小糠雨になっていた。
 物憂げな午後、誰も聞いたことのない特異な音の警報が突如鳴り響いて、七階に位置するそのフロアのナースセンターは騒然となった。誰かがいう、これは病院の建物に攻撃を加えられたさいに鳴るアラートだ、たとえばテンキー錠が不正に解錠されたとか。あるいはどこかの窓ガラスが破られたとか。
 スタッフ総出でフロアの病室を点検しにいく。東の端から二つめの個室の引き戸に抵抗があって、内から寝台でバリケードするのが隙間から確認された。二人がかりで戸をこじ開けにかかる。
 看護師のひとりは、のちにこう証言する。

……窓ぎわで、傘を向こうにして、お二人が向き合って、空中でキスするように見えたんです。シャガールの絵みたいに。でも、傘と見えたのは、ガラス一面に放射状に入った罅割れでした。奥様が、旦那様を、頭の高さにまで抱きかかえていたように思います。次に、奥様が旦那様を窓ガラスのほうへ放ったのか、旦那様が片脚でそれを蹴破ったのか、はっきりいたしません。奥様がその場に崩れるようにしてしゃがみ込まれたときには、旦那様の姿はもうありませんでした。

 窓の向こうは、いつか本降りになっていた。ガラスの破れた窓から真下を覗き込むと、雨滴は四方から白い針のようにそれのみに向けて降り注ぐように見えた。しかしそれは、四肢の大半を奪われた男の躰ではなかった。
 傘だった。
 傘といっても、時代劇に見るようないわゆる番傘が、そこに横たえられてあった。
 どこからか、女が現れた。和装の女で、いまではとんと見かけない、古風な髷と鬢の結い方が目を引いた。それから煌びやかな簪。女は雨中に現れて、つと膝を曲げると、片手でその番傘を拾った。

 番傘が開くと、そこに見事な丹頂の横顔があらわになった。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?