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梅狩

眠りが不意に破れましてね。いつからか降り始めた雨の音に、ぬくといトコのなかに丸まりながら聞き入っているのです。

雨樋からひっきりなしに水の落ちる音がしましてね。庭の土を叩くのですよ。五月の雨の夜は、どうかすると明るい夜なのでございます。

庭に通う野良猫たちの身がふと案じられてくるのですが、まるでこちらのそんな物思いに呼応するように、屋根の上を、タタン、タタタン、と打つ音がします。屋根裏にはなにもおりませんですと管理会社の木俣さんが請け合っておられましたから、鼠や荒居熊や白眉神の居るはずもなく、雨宿りする場所を探して野良猫らのうろつくものと聞いている。風が走ります。遅れて雨も走ります。するとまた、タタン、タタタン、と屋根の上を打つ音が降りてくるのです。雨の降りしきるなか、家々の屋根を渡っていく猫らの群れを思いなさい。夜の雨が、きっと、好きなんでしょうね。

翌日が日曜であるのをわたくしはすっかり忘れておったのです。一番遅れて生まれてきた娘さん、この娘さんの起きしなは髪の毛がぼうぼうで、昔この娘さんによく読み聞かせた絵本に出てくるめっきらもっきらいいます山の子鬼の挿絵によく似ているもんで、わたくしはこの娘さんをめっきらもっきらと呼ぶことがあるのですが、日曜の昼近い午前に雨上がりの庭のきらきらと光っているようなのを思いますと、ますますもってこの娘さんをめっきらもっきらと呼びたくなってきます。めっきらもっきらはわたくしがうちにいるとなればわたくしと遊びたくてうずうずしておりまして、とうとう娘さんに腹の上に乗っかられてわたくしは起きざるを得なかった。もう少し寝ていたいというのがわたくしの願いでしたが。

その日は梅狩の日だったのです。めっきらもっきらに手を引かれ、洗面もままならぬまま庭に案内されますとね、妻さん脚立に立ちまして、梅の実をもいでいるのでありました。二番目にこの世に生まれてきた娘さんが、半透明のビニル袋(40L)の口を両手で開いてこれを捧げましてね、ハハさんのもいだ実を受ける。この娘さん、ようやく十になるかならないかですが、真夜中にトコのなかで懐中電灯灯して隠れて本なんぞ読む人ですから、娘さんの頭のなかにはもうヒトサライもサンタクロースも住んじゃあいないのです。この娘さんをわたくしはある種の寂しみを込めてらららと呼んでおります。気分によらず、褒めるときも叱るときもらららだし、雨の日も晴れの日も、いつだってららら。

ららららら……

めっきらもっきらは日に顔を向けて目を細めながらいうのでした。
「チチさんは雨の明るい夜を猫たちが屋根の上を渡るとそうお思いだったのでしょう。でもあれをご覧なさい」
この娘さんはお日様の匂いがします。娘さんの指差すほうへ目を向けますと、わたくしは雨樋の縁からいまにも溢れかからんばかりに山盛りになった碧い実をところどころに見たのでした。なるほど、屋根にかかった梅の枝枝が風に揺すられ雨に揺すられて、それで実の落ちる音が、タタン、タタタン、と不眠のわたくしの上に降りてきたものだったとようやくここへきて合点するのでありました。雨樋から水の溢れるのも、だから梅が堰き止めるせいでした。娘さんもかしこければ、梅もかしこい、雨も、風も、雨樋も、みんなかしこいと、わたくしはとても嬉しかったのです。それでも思うのでした。庭に通う猫たちは、それではどこへ行ったのかと。雨はお嫌いなのかもしれません。畠の窪に溜まった水のなかで溺れ死んでるかもわかりません。

妻さんの背丈で届く範囲の梅はすっかり取り尽くしてそれでもまだまだたくさんの梅の実がたわわについている。白梅のほうが実のふりが大きく、紅梅のほうが小粒ではやうっすらと赤みがかっている。妻さんわたくしが代わりましょうと妻さんを地面に下ろしわたくしが脚立に上り始めますと、ずぶりずぶりとわたくしが足をかけるたびに脚立の足が濡れた土に深く埋もれていくのでした。
「土がこんなにも柔らかい」
わたくしは驚いて脚立を移動させるのでしたが、どうにも固い地面は見つからず、ちょっとくらい傾いでもかまわないと脚立にのりますとね、それはそれは妻さんは心配して肩を貸そうとするのでした。

脚立の足がずぶりと穴を空けるたびにミミズが這い出てきて悶え苦しむようで、これをしゃがんで観察して娘さんたちは歓声を上げる。袋の口を開いて下で待つのは妻さんの役目になり、わたくしはせっせと梅をもいでいくのでした。わたくしはとても背が高いので、ほとんどの梅を取り尽くしてしまった。となりの紅梅のほうは断然背が高く、脚立の真上に立ってもひと枝ふた枝届くか届かないくらいなのでしたが、妻さんがいうにこちらは梅の実も小ぶりで梅シロップを作るのには不適かもしれない。紅梅のほうは花の咲き始めが早く花の終わりは遅かった。花持ちのいいほうが実が小さいとは、ほんとうに自然とは不思議なことをする人だとつくづく思う。

いつのまにか娘さんたちは家のなかに戻っていて、風呂場の小窓から湯の匂いが立ち上って、二人の声も天に昇る。明るいうちに入る風呂もいいもんだねえなんていってる。妻さんとわたくしは仕上げに地面に落ちている実の、綺麗な碧色をして傷のないのを拾っていったのですが、妻さんがふいに悲鳴を上げ、どうしたどうしたと駆けつけますと、穴のなかに埋まった梅を拾い上げますと決まってミミズがその下でのたうち回っているのだと。どうして娘さんたちがそんないたずらをしたのか、オトナには到底わからない。

袋いっぱいの梅が取れました。とても満足な気持ちです。そういえば一番早く生まれてきた男の子はついに庭に現れませんでした。いじけているのでしょうか。男の子はなにをしている。風呂場の小窓に呼びかけますと、人体模型を組み立てていますとらららはいった。昨日仕事帰りにわたくしが買ってきた人体模型と朝から男の子はずっと格闘しているらしいのです。
「やあ、やってるね」
「お父さん、完成しました」
「どれどれ」
透明のプラスチックの軀体の枠のなかに、色とりどりの内臓が収まってとても綺麗でした。頭蓋骨が切り取られて桃色の大脳が鯨の背のように覗いている。
「完璧かね」
「完璧です」
「ほんとうかね」
「ぼくは嘘をつきました。ごめんなさい」
そういうと男の子は机の抽斗を引いて、なかから爪楊枝のような二本の細い棒を取り出したのでした。
「ああ、これね。これ、なんだかわかるかな」
「ぼく、わからなかったんだよ」
「これはね」
そういってわたくしは男の子の首筋から肩にかけてを撫でてやります。
「鎖骨だよ。鎖骨のない人間なんていないんだ」

台所では、食卓に新聞紙が広げられ、そこにぶちまけられた梅の実をひとつひとつ拾っては、妻さんと娘さんたちが一生懸命爪楊枝でへそをほじくり出しているのでありました。

まもなく梅雨の季節です。

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