BGM conte vol.15 『天体観測』
小惑星が地球に接近しているらしい。
ひょっとすると地球に衝突するかもしれない。
世界は騒然となった。
だって、それが衝突するかもしれないと世界が知ったのは、ほんの数日前だったのだから。世界中の優秀な科学者たちは、いったいなにをしていたのだろう。しかし今更彼らを責めたところで始まらない。もっと前から知らされたところで、僕ら人類になすすべなどなかったのだから。地球でおそらく一番賢いとされる人物が昨日、テレビで、ラジオで、インターネットで、世界中に呼びかけたのだ。どこに避難しても無駄です。あの規模の小惑星が地球に衝突すれば、僕らはみんな助からない。だから落ち着いて。みんなで祈りましょう。
一日中祈ってばかりもいられないから、僕は物置に何年と放っておいたままの天体望遠鏡を引っ張り出して、天体観測をすることに決めた。どうせ死ぬなら、死神の姿をしかとこの目に焼きつけてやろうと、そう思ったのだ。そう決めてしまうと、自分のうちから不思議と沸々と力の湧き上がるのを感じた。僕は天体望遠鏡を背に担ぐと、町外れの鉄塔の立つバカ山目指してひたすらに歩いた。
町に人の気配は絶えていた。家に閉じこもって、愛する者同士肩を抱き合いながら、刻一刻テレビの伝える情報にじっと耳を傾けているのだろう。でも今朝母さんは、なんでこんなことで職場や学校が休みになるんだと、すっかりへべれけになりながら僕を相手にひとしきり文句を垂れた。どうせ、隕石なんて落ちやしないんだから。母さん、隕石じゃない、小惑星だよ。同じようなもんだろう。違うよ、いま接近している小惑星は、最長部分が百キロメートルくらいあるんだよ。だからなんだよ、なにが落ちてこようとね、わたしたちはこれまで通り生きていくしかないんだから。
通称バカ山は標高五百メートルにも満たない山だが、町を見下ろすには格好のビューポイントだった。就学前や小学生の時分は何かにつけこのバカ山に登ったし、口ではうんざりしているようでも、好きな人に告るならバカ山に限ると町の大半の若者が信じていた。だから昼日中に登ると、学校をサボってワイセツしている高校生がそこらの茂みにいるとかいないとか噂されてもいた。どうせ世界は終わるのだ。誰が誰とワイセツしようと、僕の知ったことではなかった。
安藤くん! 待ってぇ。
背後で名を呼ばれて僕は立ち止まった。クラスの花巻寿美礼だった。大声で名を呼ぶ馴れ馴れしさに、僕は瞬時面食らった。同じクラスでも、花巻とは一度もことばを交わしたことはないはず。取り立てて秀でたところのない、かといってブスでもバカでもない、クラスの埋草のような女子。まぁ、そんなこといったら、僕だって似たようなものなんだけど。ところが、麓のそのダラダラ坂を駆け上がってくる彼女の満面の笑顔を見て、僕は不覚にも、その眩しさに目を細めていた。声もよく通って耳心地が良かった。花巻って、こんなに可愛かったっけ。
やっぱ、男は足が速いなぁ。
屈んで膝に手をついて息を整える花巻の背には、僕のとよく似た天体望遠鏡がタスキに掛けられていた。
キミもバカ山に小惑星見に来たんやねぇ。うちと考えることいっしょや。
日は暮れかかっていた。舗装道は車一台通れるか通れないかの狭さになり、左手に水路が切ってあって、その向こうにふた抱えはあろうかという太い幹の檜が整然と並んでいた。道に面した木々には蔦草が絡みついていた。かしこで藤の花が咲き、どこかでカッコウが鳴いた。右手はいよいよ切り立って、眼下に赤や青や緑やの家々の屋根が、穏やかな海原のように広がった。
これからいい季節になるんやけどねぇ。
花巻がいった。やがて舗装路がなくなって、岩と木の根とあとは赤土ばかりの山道になった。ときどき花巻は音を上げて、そのたびに僕は上から手を差し伸べた。それを花巻は躊躇なくつかんで引っ張ったし、僕もしっかり握り返して引っ張り上げた。僕は同じ歳の女子の手や腕を、こんな具合にたしかな感触の伝わる形で触れたことなど一度もなかった。自然さを装うのに僕は精一杯だった。
頂上の電波塔まで一時間もかかっただろうか。頂上まで花巻も僕もほとんど言葉を交わさなかった。眼下の、ポツポツと明かりの灯り始めた町の美しさを眺めては尚のことだった。あるいは西の果てに控える山影のキワが落日に赤く燃え、棚引く層雲の紫紺に染まる様子に見惚れては尚更だった。
二人ともすっかり躰がほてって頂上の更地を吹き抜ける風を心地よく感じたが、じき風の芯に底意地の悪い冷気を感じるようになった。寒いね、と花巻はいい、リュックからジャージの上を取り出して羽織った。僕もそうした。それから二人して申し合わせたように畳まれた一人用のポップアップテントを取り出したときには、その用意の良さと、一々考えることの同期のされ方とに、声を上げて笑った。僕のテントは水色で、花巻のそれはピンク色だった。仕上げに天体望遠鏡を組み立てると、僕らはまずそれを西に向けた。山ぎわに一等明るく輝く星があって、あれはたぶん金星やろうと花巻はいったのだった。
綺麗やなぁ。爪切りで切った爪のようやね。
なんやねん、それ。ぜんぜんきれくないたとえやな。それにしても、あれ、宵の明星やろ。学校では左が欠けるぅて習ぅたはずやのに、欠けてるの右やねんな。
欠けてるの、左やん。よう見てみぃ。
いや、メガネないからよう見ぃひん。
なんでメガネないの。持ってきとらんの。
持ってきとるけど、人前ではかけへんねん。
ふん、思春期やねんなぁ。あんなぁ、安藤くん、望遠鏡いうのんはなぁ、上下左右逆さまになんねんで。
東の果てには海がある。夜闇に水平線は定かでないが、漁火が点々としてその在処を教えてくれていた。
漁火や。
世界の終わりの日になんで漁に出るん。
舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老いをむかふるものは、日々旅にして旅を栖とすってやつなんやないの。
なるほどぉ。あるいは家族とおるかもわからんねぇ。舟の上でみんなして祈ってる。
そういや、俺ら、自分の家族のこと、一言もいわひんね。
いわんでもわかるやん。同期しとるんやから。
水平線近くに天体望遠鏡を構えていた二人は、仰天して尻餅をついた。
見た?
見た!
それは太陽を除く全天中もっとも明るく輝く天体に違いなかった。望遠鏡が掠め取った水平線ギリギリに現れたそれは、僕の網膜に殻つきの落花生の形をした赤いシミを作った。
でっかいピーナッツやん。
うちら、あのピーナッツにすべてを奪われるんやなぁ。
なんか、儚いなぁ。
儚いなぁ。
今からおよそ六時間後に小惑星は地球に衝突するものと予想されている。ちょうど真夜中前後にそれは南中し、バカ山の頂上で見上げる僕と花巻の正面に襲いかかるのだ。僕らは銘々のテントのなかに避難していた。晩春と初夏の端境にある夜はまだまだ冷え込んだ。僕は自分の肩を抱いて小さくうずくまっていた。
安藤くん、寒くないん?
寒いよ。
ほな、ふたりして温まろ。
ええよ。
あんなぁ……。
え?
こういうのって、男から女のとこへ来るのが昔からのしきたりやんか。
そうなん?
そうやん。通い婚いうのんや。
なんか、自分、さっきから賢いなぁ。
それで僕は花巻寿美礼のテントにお邪魔した。最初は背中合わせになって、できるだけ彼女から身を離して丸まった。それだけでも僕には十分温かったのだけれど、そんなんじゃあぜんぜん温とくならんと花巻が不平をいうので、僕は彼女の背のほうを向いて、彼女の姿勢の相似形を作った。ほどなくして花巻は僕の片腕を後ろ手で探ると、それを自分のほうへ回して、両腕で抱え込むようにした。僕は彼女のしたいようにさせた。口から心臓が飛び出しそうという形容をどこかで見たか聞いたかしたことがあるように思うが、僕はいままさにそういう状況だった。案の定、すごい心臓の音、と花巻はいった。
生きてるって感じがする。
恥ずいな。
素晴らしいよ。うちもドキドキしてる。わかる?
そういって花巻は僕の手のひらを自分の胸に当てようとしたものだから、僕は慌てて手を引っ込めた。
やめよ!
あんなぁ、今日バカ山で会ったこと、安藤くんは偶然やと思っとるん。
なんで。
偶然っちゃあ偶然なんやけど、安藤くんがいるような気がするなぁってゆうか、安藤くんやったらええなぁとちょっと思ってたから、偶然やないともいえる。
なんのこっちゃ。
こんなふうに女の子の後ろから手を回したりするの、初めて。
初めてに決まっとる。
そっか。うち、好きな人いっぱいおんねんで。安藤くんもうちの好きな人の一人や。
なんや、ずいぶんお盛んやな。
そんないい方やめてぇな。だって、うち、誰がどんな人かわからひんやん。だから、顔とか声とか笑い方とかもそうやけど、場面場面でな、ああ、この人ええなぁこの人もええなぁって思うだけやんか。好きの断片をかき集めたらな、きっとうちの理想の人になんねんな。
なんか、聞いてて複雑な気持ちになるなぁ。
安藤くんかて、好きな人何人かおんのやろ?
いない。
うそゆうてからに。本命はおるんやろうけど、この子もこの子も可愛い思うとるんとちゃうの。
そんなんちゃうよ。
じゃあ、うちのこと、好き?
なんやねん、藪から棒に。
ふふ、キミ、さっきから勃ってるよ。
え?
うそうそ。
風が出ていた。
まるで嵐の先ぶれのよう。
地鳴りか、潮の遠なりか、はたまた小惑星の大気圏を切り裂く音なのか、葉擦れのそれに紛れて轟々と聞こえていた。地の底から湧くように、あるいは天から覆い被さるように。僕は庇う心で花巻に回した腕に力を込めた。自然腹と背中とが密着する形になる。僕は構わなかったし、花巻は花巻でたじろがなかった。地球が怯えている、そう思った。
たくさんの人を好きになる。それなのに、いつか、この人って思うようになるらしい。それってどういうことなんやろ。そんな不思議ってあるやろか。
僕はなにも答えず、目を瞑っていた。
うちら、世界はこのままのうなってもかまひんてほんとうに思っとるんやろか。それとも、まだ終わらんといてって、心の奥底では泣き叫んでるんやろか。
轟音が明らかに増していた。ウォーン、ウォーンと、どこかで巨大な生き物が咆哮するような音が混じる。あるいは生者のみならず、この星に生まれて死んでいったあらゆる存在が束の間蘇って、いまこの瞬間を嘆くように聞こえた。
なぁ、安藤くん、キミ、どっちなん?
花巻はほとんど叫んでいた。そうしなければ聞こえないくらいに、テントの外はあらゆる音に満ち溢れているのだった。そのうち、戸外は夜明けを迎えたかのようにみるみる明るんでいった。地鳴りに加え、地面が小刻みに震え始めた。来る! 僕の心に渦巻くこの興奮はなんだったのか。ほんとうに僕は終わりを望んでいたのか。それとも心の底では、小さな子どものように泣き叫んでいたのだろうか。
地球がなくなってしもうたら、生まれ変わりもなしやな。もう、二度と、キミとも会えへんのやね。
僕は花巻の髪にぎゅっと顔を埋めると、来るな! と叫んでいた。それは声にならない声、僕が生まれて初めてする切実な「祈り」というものだった。
🌏
結論からいえば、小惑星は地球に衝突せず、世界は終わらなかった。
母さんは正しかったわけだ。
終末の幻想からの回復は、人によってまちまちだった。僕は回復の遅れた組のひとりだった。世界は破滅を免れても、大いに傷ついて、その回復に相応の時間がかかるものと思っていた。学校も仕事もいましばらくは始まらない。電気もガスも水道も止まったまま。車は道路を一台も走らず、電車もバスも飛行機も屍のように動かない。それこそは世界の次の幕の書き割りに相応しい光景だった。まさか、宣告された死刑執行日の二日後から、当たり前のように日常が再開するなんて、僕は思ってもみなかった。そして大いに失望したものだった。
花巻とは同じクラスの一員として毎日のように顔を合わせるが、なんとなく向こうから避けられている感じもあるし、僕も自分から話しかけようなんて気はさらさらなかった。話しかけるといったって、一体なにを? 世界が破滅しなかったいまとなっては、あのバカ山でのひとときを、どう名付けたらいいのか、僕には見当すらつかなかった。あのバカ山でのひとときを的確に名付けられなければ、僕は僕自身の傷から回復しようがない気がした。そしてじっさい、僕はいつまでもぐずぐずしてしまった。
翌年の大学受験は、ことごとく僕は失敗した。花巻は東京の国立大学に合格し、そこに進学する旨、人伝に聞いた。
おめでとう。
安藤くんも、頑張りぃ。
卒業式の日、僕は安藤寿美礼から手渡しで手紙をもらった。そこにはこう書いてあった。
あれからきっかり十年後に、バカ山の頂上で会おう。それまでに、お互いにとって、恥ずくない人になっていよう。
僕は一年浪人したのち、東京の中堅私大に進学することになった。浪人中、花巻と連絡を取り合うことはなかった。第一僕は彼女の東京の住所を知る由もなかった。東京に出ても僕は花巻を探そうとはしなかった。片時も忘れはしなかった。でも僕は、東京で別の女の子を好きになり、食事に行き、映画に行き、初めてのセックスをした。旅行に行き、半同棲のようなことにもなり、喧嘩をして、別れた。そんなことを二、三繰り返して大学を卒業し、人並みに就職し、仕事に忙殺されながら、また色々な人を好きになり、たくさんセックスをして、やがて虚しくなり、別れを繰り返した。
そしてあれから十年が経とうとしていた。
僕はその日に備えて、初めて有給を取った。リュックのなかには、折り畳み傘と防寒着とポップアップテントと三脚。それを背負い、仕上げにあのときの天体望遠鏡を肩にかけると、僕は一人暮らしの部屋の玄関の扉を開けて外への一歩を踏み出した。
いい加減大人になりなよと、なじる声がどこからか聞こえてきそうな気がする。気を抜くといつだってそうだ。そのセリフは、花巻寿美礼にはっきりいってもらうことにしよう。
少なくともそれまでは、僕の青春は終わりそうにないのだから。
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