BGM conte vol.8 《黄昏のビギン》
「あら、コウさん。どないしたん、こんなとこで」
「……サワさんこそ、なにしてん」
「あとで使いが行くからって、おばあちゃんが。庚申さまの辻で待ってなって」
「ぼくはじいちゃんに、母ちゃんが庚申様のところで待ってるから、傘持ってってやりぃって」
「なんで、おじいちゃん、コウさんのお母さんが辻で待ってるってわかるんやろ」
「それやがな。変やなとは思うたんやけど、じいちゃん最近耄碌しとるし、変に逆らうとたいへんやから、辻はすぐそこやし、わかったわかった言うて」
「コウさん、優しいんねんや」
「そんなんちゃうわ。散歩がてらや」
「傘、二本あんねんな」
「そうや」
「うち見て」
「なに」
「傘あらへん」
「それがどないしてん」
「うちなぁ、おばあちゃんに、傘持ってくよ言うたら、それはあかん、て。なんでって聞いたら、使いが持っていきよるからって、変なこと言う」
「おかしいなぁ」
「おかしいやろ」
「年寄りの言うことはケッタイやな」
「コウさん、気づかへんの」
「なにが」
「うちら、その年寄りにはめられてんのんや」
「はめられてるって……なるほど、そうゆうことか」
「そうゆうこと」
「でも、こないお膳立てされても、困るなぁ」
「困るよなぁ」
「どうしよう」
「どうしようなぁ」
麓のお稲荷様と山の石切場とをつなぐ道と、佐和子の家と浩介の家とをつなぐ道とが交差するのがこの辻である。佐和子は麓へ降る道と、山を登る道とを交互に見比べると、なにやら思い立ったような明るい顔になって、
「これ、降りましょう。お稲荷様まで行ったら、引き返しましょう」
「なんで」
「なんでって、コウさんかて、散歩がてら言うてたやん。付き合うてよ」
「これ、デートなん」
「そんなん、知らんよ」
佐和子は肩をすくめると、すたすたと歩き出した。
しばらくして、ぽつぽつと来た。浩介が傘を差そうとすると、不意の剣幕で、あかん、と佐和子はこれを制した。
「なんなん」
「あかんよ、傘を差したら。うちいま、お稲荷様と張り合ってんねん」
「なに言うとん」
「黙っとき」
言って佐和子は振り返ると、にっと笑った。
なにやら長いこと祠に向かって願掛けすると、
「これでしまいや」
と言って、佐和子は浩介の腕に両腕を絡めてきた。折りからの雨が繁くなった。
「なにしてん」
「ええねん」
「ええねんちゃうやろ」
佐和子はぱっと身を離すと、来たときのようにまたすたすたと道を登り始めた。傘は、と言って小走りして浩介が差し出そうとすると、それはあかん、と相変わらずの剣幕で制する。
「コウさんなぁ、うちのおばあちゃんと、コウさんのおじいちゃん、昔恋仲やったの、知っとった?」
「なにぃ? まじでぇ」
「まじやで。おばあちゃん、ようその頃のこと、うちに話してくれるんよ」
「知らんかったわぁ」
「相変わらずめでたい人やね。知らんのは、コウさんくらいやわ」
「ふたりはなんで結ばれひんかったんやろ」
「なんでやと思う」
「さぁ。なんでやろ」
「ヒントは、傘やで」
「なに」
「もう、ええねん」
「ええことないやろ」
佐和子は駆け上がると、辻で一旦振り返り、両手を振って、ほな、さいなら、と叫ぶようにして言った。杉木立のなかを駆けていく佐和子の後ろ姿を、浩介はいつまでも辻で見守った。振り返れ、振り返れ、と念じたが、ついに佐和子は振り返らなかった。
やがて山は雪に閉ざされて、長い冬になった。
雪解けの声が聞かれる頃、佐和子は近親者にだけ挨拶を済ませると、村を出た。東京の専門学校に通う、とは浩介は人伝に聞いた。
それから十年。同じ日の、薄曇りの空を背負って、麓からトレンチコートの女が登ってくる。庚申塚の辻に立つと、人待ちげな顔をして、石切場のほうと、麓のほうとを交互に見渡した。
じきぽつり、ぽつりと来て、恵みを受けるような満足げな笑みを浮かべて、女は空を仰いで目を閉じた。
ちょうどその頃、男が、早く、急げ、雨になる、と年寄りに家から追い立てられている。なんなん、せっかくの休みなんに、わけのわからん、と不貞腐れながら、振り返り振り返りして、男は山道を降る。
雨は本降りとなりつつある。
山を降る男の腕に、二本の傘が揺れている。
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