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秋桜

 秋桜の花叢が忽然と目の前に現れて、黄立羽が何頭と群がっていた。

 ひと気を避けて歩いていると、たまさかシジマ場に足を踏み入れることがある。

 そのときもそうで、公団裏と貯水場にはさまれた路地を歩いていると、物音がいっさい聞かれなくなって、あ、シジマ場、と気づいたときには一面の花畠だった。公団の一隅にある花壇のはずが、みるみる四方は見渡す限りの花咲く野になった。シジマ場とはそういうもの。陶然として我を忘れれば、たぶん、二度と、戻れない、と都度自戒する。

 シジマ場を破るには、儀式が必要だ。このたびの私は、手提げから和鋏を取り出すと、花に留まって羽を休める一頭にそろりそろり背後から近づいた。警戒心の強いのがパッ、パッと飛び立って、さかんに仲間の前に躍り出て危機を知らせるようであるけれど、私の手にかかろうとしているそれは、いまにも寝入らんばかりの緩慢さで羽を開閉しながら、心ゆくまで蜜を吸うようである。

 我ながら熟練した早技で、その黄立羽の羽は、上部三分の一ほどが切られてはらりと落ちた。こうなっては、蝶はいくら羽ばたこうとも取りついた花を離れることはできない。すかさず私は秋桜の花弁を二枚、同じ早技で中途から切り落とすと、それらを摘み上げ、片端の羽に重ねて指を閉じた。しばらくすると、秋桜の花弁は羽に同化して、新しい色味の蝶として再生する。新種の蝶が舞い立つと、黄立羽たちは恐慌して八方へ散り、花畠は跡形もなく萎れて雲散霧消した。

「どうした。また囚われたのか。いっそ囚われたまま戻らなきゃいいのに」
「だって、怖いもの」
「怖いが、なんだ」
 そういって通りすがりの薄三毛は、か細い鳴き声の尾を引くと、公団の花壇の花叢へ飛び込んだ。




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