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おいとま東京

東京?→東京

この駅のホームなんて何千回も足を踏み入れているけれど、私は今日初めてその姿を見た。

今までコンクリートの床にこびりついてるガムの数しか数えたことがなかったから、左横の方を見上げたらこんなに輝かしい線路と街の風景が待っているなんて知らなかった。
これじゃあまるで、新海誠が描く美化された日本みたいじゃん。うそだ。

そんな光の方から主人公ぶった動く直方体のつながりがやってきて、2枚の板たちが君も箱の世界に入らないかと誘い込もうとしてくる。

箱の中の人が少ない時は頑張って抵抗する(各停は遅いから)が、たまに誘惑に負けて乗ってしまう。

一歩踏み込むと、もわんとした冷たくてあたたかい空気が二の腕を包む。

広告の中の女優さんが笑顔を振りまくが彼女の努力も虚しく、人びとは皆食い入るように小さな画面を見つめる。まるで今それを見ていないと死ぬかのように。
別に今見なくたって死なないくせに。

あぁそうだ、あんまり人間観察してても悲しくなるだけなんだった、と別に好きでも嫌いでもない村上春樹の文庫本を取り出し、開いて出てきた文字一つ一つに私の意識をハイジャックさせようと努力する。
が、だいたいはマスクしない人に無言の圧力を与えることを生業としているおじたん(愛をこめて)の目線か、私と違って自ら箱に足を踏み入れた女の人のロングスカートの端のひらひらによって私のハイジャック作戦は失敗に終わる。

あーあ。今日も1ページしか読めなかった。
この調子だと300ページ読み終わるには一年くらいかかる。
これじゃあ2週間後の返却期限に間に合わないじゃない。

箱の世界から押し出された後は、まるでその先にはなにか失ってはいけないものがあるかのように一点を見つめてせかせかと歩く人々の意識の矢印たちを邪魔しないように、私も「失ってはいけないものもどき」を無理やり捻出して足を動かす。

別に失ったって死なないくせに。


すぅぅぅ、と鼻で息を吸って、純粋さと不純さが混ざり合った空気を体内に取り入れて、
わたしはこれから東京人のふりをする。

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