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新米編集者よ、へこたれるな!

こんにちは。
フォレスト出版・編集部の美馬です。

前回の投稿に引き続き、初の担当書籍づくりについて現状をレポートしたいと思います。

前回は、細かいミスが積み重なり、関係者の方々に迷惑をかけてつらい! というような悩みを書き連ねてしまいました。自責の念に駆られて夜も眠れなくなりそうだったので、「だって初めてだし。知らなくて当然だし。次から気をつければいいし」なんて、ひどく傲慢なことを考えるようにしている今日この頃です。


さて、2週間後にいよいよ校了を迎えようとしていますが、今朝、新たな理由で気分はどん底に突き落とされました。

校正者の方から、初稿ゲラのチェックが戻ってきた(ざっくり言うと、初稿ゲラができる→校正者に誤植や表現に問題がないかなどをチェックしてもらう→1週間程度で戻してもらうという流れ)のですが、単語選び、表現の仕方、言い回しなどなど、訂正しなければならない箇所が大量にありました。

覚悟はしてたけどここまでか・・・・・・!
とがっくりです。

校正者は、編集者や著者以外で初めてこの本にじっくりと向き合ってくれる、言わば1人目の読者になります。 つまり、校正者の気づきや疑問は、これから本を購入してくれる読者の気づきや疑問ということです。

読者に"伝わる"文章になるようにと編集作業を行なった”つもり”だったのに、全く"伝わる"文章になっていなかったことに、不甲斐なさで胸が締め付けられる思いです。

そう言えば、私がフォレスト出版に入社してから初めて投稿した記事で、『「本をつくる」という仕事』(稲泉連/筑摩書房)から校正者の想いを取り上げたことがあります。

以下、校閲者の矢彦孝彦さんを取り上げた一節です。

 編集者と同時に校閲部員もまた、作家の原稿を最初に読む読者であり、重い責任がある。しかも世の中に原稿を送り出す側にいる編集者に対して、校閲部員は読者の側に立って原稿を読むという重大な役割を担っているのだ、と。
「これは物事を知っていないと書き手に負けるな、と感じました。ゲラを通した闘いというのかな。あの人たちが分からないようなことを、こっちから指摘してやろう。そんな思いが湧いてきたんです」
 誰もが真剣に作品を世に送り出そうとしていた。
 作家が書き、編集者と校閲者が読み、そこで生まれる疑問に作家が答える。
 それは著者のためであると同時に、何よりも読者のための仕事である。
彼は校閲を仕事とする者として、そのように自負するようになっていったのだ。
 以来、四〇年以上にわたるキャリアのなかで、彼は『週刊新潮』や単行本、文庫と担当部署を渡り歩き、最後は新潮社校閲部の部長を務めた。
 そして、いまもなお外部の校閲者として仕事を続ける彼は、その日々を振り返って言うのだった。
「出版業界には、非生産部門である校閲部門を縮小しようという流れがあります。でもね、僕は校閲部こそが出版社の良心だと思っています。ネットがあって、あらゆる人が文章を書くようになったからこそ、その社会的な意味は増しているのではないでしょうか」
 校閲は出版社の価値であり、良心である——。
 矢彦さんはそう言うと、酒の入ったグラスに口を付けた。
 校閲一筋、四〇年——それが彼のたどり着いた結論である。

『「本をつくる」という仕事』(稲泉連/筑摩書房)

この時感じた気持ちをすっかり忘れて、文章に向き合ってしまっていたのかもしれません。ここは傲慢にならずに、丁寧にやりなさい! と自分に言い聞かせなければなりませんね(笑)。

それでは、今から初心に戻ってもう一度原稿に向き合ってきます!
最後までお読みいただきありがとうございました。


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