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【判決分析】離婚後単独親権違憲訴訟一審判決(東京地判令3・2・17)

〔写真〕2021年2月17日、一審判決を伝える朝日新聞電子版

大方の予想通りの判決ではあったけど

離婚したら父母のどちらかしか子どもの親権を持てない民法の「単独親権制度」は、法の下の平等を定める憲法に反するなどとして、東京都の50代男性が165万円の賠償を国に求めた訴訟の判決が17日、東京地裁(松本真裁判長)であった。判決は民法の規定を合憲と判断し、原告の訴えを退けた。原告は2019年の離婚で息子2人の親権を失ったことに精神的苦痛を負ったと訴えていた。(朝日新聞電子版2021年2月17日)

当noteにおいて、何度もその危険性を指摘している離婚後共同親権。

推進派が桎梏と捉えている、民法819条1項の規定の合憲性が争われていた裁判で、冒頭にご紹介した通り、合憲判決が出ました。

記事が出た直後、いくつかの報道機関の記事をザッピングしましたが、簡単な内容紹介にとどまっている記事が多いせいか、裁判所の法的判断の枠組みが明らかではありませんでした。

例えば、
・”親が子を育てる権利”は憲法上の権利か
・民法の規定が合理的というのはどのような違憲審査基準に拠ったか
・原告の法的な不利益は認定されたのか
などです。

<参考記事>

時事通信の記事「他の人権とは本質が異なる」とはどんな文脈で示されのか分かりにくい記事です。

NHKの記事。よくまとまっていますが、憲法判断の箇所を完全にすっ飛ばしています。

産経新聞は相変わらず。判決文にない文言が創作されています。

実際の判決文はどうだったのか?

これについては、原告代理人の作花知志弁護士が運営しているHP「作花共同親権訴訟」に、東京地裁の判決文が掲載されています。

私は、作花弁護士とは意見を正反対にしていますが、こうした判決を惜しみなく情報公開する作花弁護士の姿勢には、誠実さを認めています。

上記HPに掲載された判決文を確認しながら、裁判所の法的判断を確認していきたいと思います。

分厚かった国家賠償訴訟の壁

まず、本件訴訟も国家賠償訴訟であるところ、国が、(原告がいうところの)離婚後単独親権制度の不合理を解決しない違法性・違憲性(立法不作為の違憲性)を問う判断基準について、従来の判例通り、昭和60年以降確立された判例法理を引用しています。

法律の規定が憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠る場合などにおいては、国会議員の立法過程における行動が上記職務上の法的義務に違反したものとして、例外的に、その立法不作為は、国家賠償法1条1項の規定の適用上違法の評価を受けることがあるというべきである。

この判例法理は、従来、学説から「立法不作為の違憲審査を否認したにひとしい」(芦部信喜)と批判されているものですが、今回も無批判に引用されました。

その結果、選択的夫婦別姓訴訟において民法750条を改正しなかった違法性や、旧優生保護法の下で行われた強制不妊手術の違法性を否定する方向へも機能しています。

本件判決の結論の妥当性とは別に、立法不作為の違憲性を判断する法的枠組みは見直しが必要ではないでしょうか。

親権の憲法上の権利性をほぼ否定

次に、この判決で大きな意義を有するポイントは、原告らが主張した「親権は憲法上の権利」という点をほぼ否定している、という点です。

東京地裁は、親権制度に関連する民法の条文を列挙しつつも、民法820条、834条などを根拠に、「民法の定める親権制度が「子の利益のためのものであることが明示されている。」と指摘しています。

そのうえで、次のように述べます。

このような親権についての各規定の在り方をみると、親権者たる親は、子について、当該子にとって何が適切な監護及び教育であるか、親権を行うに当たって考慮すべき「子の利益」が何かを判断するための第一次的な裁量権限及びそれに基づく決定権限を有するが、これらの権限は、子との間でのみ行使され、親とは別人格の子の自律的意思決定に対して一定の制約をもたらし得る形行使されるものであるばかりか、その権限の行使に当たっては、「子の利益」のために行使しなければならないという制約があり、それが親自身の監護及び教育の義務にもなっている。そうすると、親権は、あくまで子のための利他的な権限であり、その行使をするか否かについての自由がない特殊な法的な地位であるといわざるを得ず、憲法が定める他の人権、とりわけいわゆる精神的自由権とは本質を異にするというべきである。

また、原告らは親権について、「成人するまで父母と同様に触れ合いながら精神的に成長する権利」なるものを主張したようですが、裁判所は、「親権の法的性質をどのように考えようとも、親による親権の行使に対する受けての側にとどまらざるをえず、憲法上はもちろん、民法上も、子が親に対し、具体的にいかなる権利を有するかも詳らかでない」としています。

民法学説の多数説に立った親権理解

実は、ここまで読み進めて気が付いたのですが、裁判所は、原告らの主張する親権について、おそらく非常に注意深く、「権利」だと認定することを、徹底的に回避しています。

親権の各条文を説明する際にも、「権利」ではなく「権限」を使い、「義務」を強調する一方、上記に引用した通り、親権は「特殊な法的地位」とする。

これは、下記記事でご紹介したように、従来から、親権の権利性を否定し、義務性を強調してきた民法学説の動向に、非常に親和性があると評価することができます。

裁判所は、親権の憲法上の権利性について、結論においては「甚だ困難」としており、明確に否定はしていません。

しかし、上記のように「権利」であるこを徹底的に忌避する姿勢からは、親権を憲法上の権利性を認める余地を、徹底的に回避する意図が明確に読み取ることができます。

子の独自の人格的利益を認定

この判決の優れた点をもう1つ指摘する点は、親権とは離れた立場で、子の独自の人格的利益を認めていることです。

ちょっと分かりづらい表現ですが、次のように述べています。

親である父又は母と子とは、三者の関係が良好でないなどといった状況にない限り、一般に、子にとっては、親からの養育を受け、親との間で密接な人的関係を構築しつつ、これを基礎として人格形成及び人格発達を図り、健全な成長を遂げていき、親にとっても、子を養育し、子の受容、変容による人格形成及び人格発展に自らの影響を与え、次代の人格を形成することを通じ、自己充足と自己実現を図り、自らの人格をも発展させるという関係にある。そうすると、親である父又は母による子の養育は、子にとってはもちろん、親にとっても、子に対する単なる養育義務の反射的な効果ではなく、独自の意義を有すものということができ、そのような意味で、子が親から養育を受け、又はこれをすることについてそれぞれ人格的な利益を有すということができる。

ただし、こうした利益を認定するのは限定があります。

「三者の関係が良好でないなどといった状況にない限り」

なのです。

冒頭に紹介した各報道機関の記事に「単独親権によって人格的利益は失われない」と報じていますが、これはおかしい、と思ったのはこの点です。

裁判所は次のように述べています。

しかし、これらの人格的な利益と親権との関係についてみると、これらの人格的な利益は、離婚に伴う親権者の指定によって親権を失い、子の監護及び教育をする権利等を失うことにより、当該人格的な利益が一定の範囲で制約され得ることになり、その範囲で親権の帰属及びその行使と関連するものの、親である父と母が離婚をし、その一方が親権者とされた場合であっても、他方の親(非親権者)と子の間も親子であることに変わりがなく、当該人格的な利益は他方の親(非親権者)にとっても、子にとっても当然に失われるものではなく、また、うしなわれるべきものでもない。慮るに、当該人格的な利益が損なわれる事態が生じるのは、離婚に伴って父又は母の一方が親権者に指定されることによるのではなく、むしろ、父と母、又は父若しく母と子の間に共に養育をする、又は養育を受けるだけの良好な人間関係が維持されなくなることにより生じるものではないかと考えられる。 
※太字は筆者

このように、親が子を育て、子が育てられることによる利益は、あくまで「三者の関係が良好」であることが前提であり、良好な人間関係が維持されていない状態で、これらの保護すべき人格的利益が失われていない、といっているわけではないのです。

よく、離婚後親権推進論者が連れ去りだの虚偽DVだのをがなりたてていますが、裁判所の判断を裏返していうと、これらの不健全な人間関係の下では、保護すべき人格的利益を認めていない、ということができます。

旭川学テ事件の先例性を否定

憲法学上の細かい論点ですが、旭川学テ事件最高裁判決があります。

旭川学力テスト事件最高裁判決とは、昭和36年、旭川市で発生した全国中学校一斉学力調査の実施に対する反対運動で起きた刑事事件です。

最高裁判所は判決の中で、「親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められる」とし、親の教育の自由権を認めており、原告らは本件訴訟において、親権の憲法上の権利性の論拠として引用していました。

しかし、東京地方裁判所は「子の教育について国家の干渉を制限する観点から、親に一定の決定権能がある旨を判事したもので、それを超え、親権が憲法13条により保障された権利であるという判断を示したものではなく、その趣旨を含むものとも解されない。」とし、原告らの主張を一蹴しています。

憲法学上もこうした見解が多数説であり、親権の憲法上の権利性に引用したのはお門違いといえるでしょう。

パターナリスティックな平等原則侵害性の判断

裁判所はどうも、離婚というのは「三者の関係が良好でなくなる」典型的な例であると考えているようです。

それが如実に現れるのが、原告の憲法14条・24条違反の主張に対する判示部分です。

裁判所は、離婚後の親権の定め方に関し、明治民法からの改正経緯を説明し、戦後、親権制度が「子の利益」のためのものであることが明示された、とします。

そのうえで、次のように述べます。

離婚した父母が通常別居することとなり、また、父母の人間関係も必ずしも良好なものではない状況となるであろうという実際を前提とし、父母が離婚をして別居した場合であっても、子の監護及び教育に関わる事項について親権者が適時に適切な判断をすることを可能とすること、すなわち、子の利益のために実効的な親権を行使することができるように、その一方のみを親権者として指定することを定めるとともに、裁判所が後見的な立場から親権者として相対的な適格性を判断することを定める点にあると解される。
このような本件規定の趣旨に照らせば、本件規定の立法目的は、的確性を有する親権者が、実効的に親権を行使することにより、一般的な観点からする子の利益の最大化を図る点にあるということができるから、本件規定の立法目的には合理性が認められるというべきである。

そして、立法目的と制約手段の合理的関連性について、次のように述べています。

子の父母が離婚するに至った場合には、通常、父母が別居し、また、当該父母の人間関係も必ずしも良好なものではない状況となることが想定され、別居後の父母が共同で親権を行使し、子の監護及び教育に関する事項を決するとしたときは、父母の間で適時に意思の疎通、的確な検討を踏まえた適切な合意の形成がされず、子の監護及び教育に関する事項についての適切な決定ができない結果、子の利益を損なうという事態が生じるという実際論は、離婚をするに至る夫婦の一般的な状況として、今日に至るもこれを是認することができる。このような事態を回避するため、父母のうち相対的に適格性がある者を司法機関である裁判所において子の利益の観点から判断し、親権者に指定するという本件規定の内容は、実効的な親権の行使による子の利益の確保という立法目的との関係で合理的な関連性を有すと認められる。

木村説と同様に、離婚後共同親権の弊害を示していた裁判所

そして、次のくだりは、離婚後共同親権の弊害について、非常に重要な見解を示しています。

離婚をした父と母が、その両者の人間関係を、子の養育のために一定の範囲で維持したり、構築し直したりすることも可能であると考え、そうであれば、本件規定により親権を失ったとしても、子の養育に関与し続けることが可能なものとなり、人格的な利益の制約が限定的なものにとどまると考えられる一方、そのような人間関係を維持したり、構築しなおしたりすることができない場合には、他方親からの同意が適時に得られないことにより親権の行使がいわば拒否権として作用するといった事態さえ招来しかねず、結局、子の利益を損なう結果をもたらすものといわざるを得ない。

離婚後共同親権が、監護親に対する非監護親の拒否権の性格を持つ、という見解は、木村草太東京都立大学教授がかねてから示していたもので、当noteでもご紹介しております。

この弊害への踏み込んだ指摘は、裁判所が学説等にあたったうえで検討したものと高く評価して良いポイントではないでしょうか。

何を「見極め等がされていない」と言ったのか?

それから、冒頭にご紹介した報道記事について、「見極めがされていない」とされた部分、いったい何を指していたのでしょうか?

上記にご紹介したように、裁判所は平等原則違反の主張に対し、離婚時には父母や子との良好な人間関係が損なわれているケースが多いという立法事実を前提に、パターナリスティックな合憲判断を示した。

しかしもちろん、そのような離婚カップルではない、という主張にも配慮しています。次の通りです。

なるほど本件規定の立法目的が、通常、離婚をした父母が別居することとなり、また、当該父母の人間関係も必ずしも良好なものではない状況となるであろうという実際論を前提とすると解される異常、離婚をする夫婦にも様々な状況があり得、立法目的前提とした元夫婦像にそのまま当てはまらない元夫婦も実際には相当数存在し得ると考えられるから、離婚をする夫婦にいわゆる共同親権を選択することができることとすることが立法政策としてあり得るところと解され、認定事実(2)のとおり、それを含めた検討が始められている様子もうかがわれる。しかし、このような立法政策を実現するには、離婚後の父及び母による子の養育のあるべき姿という観念論、諸外国の状況、我が国が締結している各条約の趣旨ばかりでなく、それとともに、我が国における離婚の実情、親権の行使の実情及びこれらを含めた親権の在り方に対する国民の意識等、更に単独親権制度を採用していることによって生じている種々の不都合、不合理な事態を踏まえ、共同親権を認めることとした場合に離婚後の父及び母による子への養育に及ぼす実際の効果を、それを認めた場合に生じ得る障害に照らし、子の利益の観点から見極める必要があると解されるところ、本件証拠関係をもってしては、現段階において、国会、政府はもちろん、国民一般においても、その見極め等がされている状況にあるとは認められない。
※太字筆者

ここまで読み進めればお分かりのように、裁判所が判断の基底としたものは、実際論です。「離婚してもパパはパパ」なる観念論ではありません。

そして、単独親権制度の不都合、不合理だけではなく、離婚後共同親権を導入した場合の弊害も含めて、総合的に判断すべきことを一般的に判示しています。

原告側はこれに対し、連れ去りだのひとり親への偏見だのk、合理性を揺るがす事情を主張していたようですが、いずれも排斥し、国際法違反の主張も退けました。(疲れ切ったのでここまでで。w)

【私見】原告側の敗因

①原告側の「実際的な不利益」を主張・立証できなかったこと
 この点は大きいように思われます。
 42ページの判決文において、原告の不利益について検討した箇所は1箇所もありません。twitterで得た情報によれば、当事者尋問すら却下されるような訴訟だったようですが、前提の法律論において、裁判所と意見が一致した部分はほとんどありませんでした。
 裁判所の法的判断の枠組みはいたってオーソドックス、標準的なものでした、予想される枠組みに対して、違う見方ばかりをいたずらにぶつけ続けて、勝てる訴訟ではないように思われます。

②親権の権利性論証の浅さ
 実は、提訴時にHPに掲載された訴状を瞥見しましたが、その権利性論証の浅さは気になっていました。
 主要な民法学説を引用した形跡がほとんどありません。
 上記述べたように、裁判所は親権の権利性認定を徹底して回避している形跡が強く見られますが、これは、現在の民法学説に非常に親和的な考え方です。義務性を強調し、権利性を極小化する学説に同調してなお、親の子育てを肯定する権利性を主張するような難路を、原告代理人は選びませんでした。
 ラクをした、というつもりはありませんが、難路を回避したツケは大きかったと思います。

③反対論への配慮不足
 上記で、裁判所が木村説を念頭においた判断を示した箇所をご紹介していましたが、単独親権違憲訴訟の原告代理人、それを支持する弁護士の多くは、木村教授が示した弊害論について、真摯に検討した形跡はありません。
 訴状にも如実に現れています。
 パターナリスティックな憲法判断は当然に予想され、共同親権の弊害論も、木村教授の論文ではなく、我妻博士の民法学説を読まれた方なら、十分に予想されたことだったはずです。
 自分の言いたいことを並べ立てているだけで、裁判所が思い切った憲法判断に踏み込むだけの材料提供には、全く欠けていたというのが全体的な雑感です。

【私見】判決への残された課題

判決についての今後の課題点も述べてみたいと思います。

①親の権利は本当に憲法上の権利でなくていいのか
 本件判決は、「親権の憲法上の権利性」をほぼ否定したものと評価できますし、それは妥当だと思います。
 ただ、それを離れて、抽象的な親の権利が憲法上の権利ではない、とすると一般的な感覚に反し、疑義が生じるように思われます。
 具体的な権利性を持たないので、憲法訴訟の判断には不向きですし、学説の課題であろうと思われますが、原告側訴状では、必ずしも親権の憲法上の権利性だけを触れていたわけではありません。判決の対象たる訴訟物として検討の必要がなかったのでしょうが、理論的課題が残ったと思います。
 (個人的には、親の憲法上の権利を認めつつも、広範な立法裁量により違憲審査基準を緩和し、明白性の原則に立った検討をした方が筋が通っているように思います。)

②子の人格的利益の具体化
 上記に触れたように、親権にまつわる、子の人格的利益に独自の意義を見出していますが、それが具体的にどのようなものであるかは明らかになりませんでした。
 虐待等の濫用的行使に対する、子の防御権とか、離婚後の親の監護に対し、年齢に応じた「育つ権利」の行使など、発展段階に応じて様々考えられますが、学説側の課題でしょうか。

③憲法14条と24条の違憲判断の差異
 選択的夫婦別姓訴訟の時から感じていますが、憲法14条と24条の似た規定の判断枠組みの差異は、今回も顕著にみられませんでした。
 近年、24条に独自の意義を見出して再定位する憲法学説も増えてきたように思います。もう少し明確なラインの引き方があっても良いように思いました。

最後に

まあ、変な判決でなくてよかった、と思いました。w

最近、虚偽DV訴訟一審判決とか読んじゃったので、日本の裁判官のしょぼさに改めて幻滅を覚えましたが、簡単に幻滅しないように戒めたく思います。w

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