練炭の日=2

二〇二四年一月二十九日、えん世からか自殺を選んだ。自殺の経緯や経過に関しては前項に記したため割愛する。目覚めたのはマンションの廊下だったと思うが、これも正直記憶があいまいなところがある。急性一酸化炭素中毒で完全に前後不覚の状態だった。

一一九番通報を受けた消防隊が隣室ベランダから突入したのか玄関が解錠されていた。私を呼ぶ声がするが、もう前も後ろもよくわからない。担架に担がれていたのかどうかも定かでないが、天井の照明が流れていくのを覚えている。救急隊のやり取りが無線から聞こえてくる。「えー同室の一酸化炭素濃度にあっては八五五ppm…」、「サチュレーションはダメ、何回やっても取れない」、「選定は協同病院」…。矢継ぎ早にいろいろ言葉が飛び交うのが耳に届きながら、そのまますっぽ抜けて行ってしまった。口にマスクをあてられながら、夕暮れの街の中を救急車が疾走した。

病院に着いたときもいろいろやり取りをしたはずだが、正直言ってその全ては記憶していない。時々意識を失ったり覚醒したりを繰り返していたと記憶している。医師の質問が飛ぶ。「なんでまた練炭よ」。返す言葉に窮し、苦し紛れに「確実だからね」と吐き捨てる。「とりあえず今日は返せないから。このまま酸素カプセル入ってもらうよ」と言われた。看護師たちが慌ただしそうに大腿動脈に太い針を刺したり、腕に点滴をされたりした。推定血中COHb濃度(一酸化炭素の濃さ)は35%で、実際その程度だった。とにかく、身体のあらゆるところに心電図モニターのシールを貼られたり、血を抜かれていたのを覚えている。記憶がとぼしい中でも、手首に太い針を刺されたことは鮮明に記憶している。ガス分析のためのルート確保のためだが、ゴリゴリと腕をえぐられるような感じだった。痛みに対しては、天罰であろう、医療費の削減が叫ばれる中、こうしてはた迷惑な自殺患者に対する罰であろうと納得した。

カプセル状の容器が見える。車椅子でそのまま運ばれ、簡単な本人確認を受けたあと、一時間強にわたって高気圧酸素療法を受けた。技師に「見たいテレビのチャンネルは?」と問われたので、あまり回らない頭で「NHK茨城を」と答えた。ちょうどクローズアップ現代をやっていて、泥沼化する中東情勢を伝えていた。たった一人がどうなろうと、世の中はいつも通り回っていくものだと変に感心していた。その後の番組が脳を鍛えるとうたった番組だったのは、偶然の皮肉と捉えた。午後八時半をまわり、ようやくカプセルから出されたあとは、そのままICUへ連れて行かれた。

この頃には酸素療法が著効し、意識もある程度鮮明になっていた。やはり世界はおぼろげに見えながらも、意思疎通に問題ない程度になっていた。同九時をまわったころ、医師がやってきた。改めて問われたのは、なぜ自殺しようと考えたのか。なぜよりにもよって練炭なのかと問われた。答えがない。返す言葉も答えもない。なぜ自らを殺そうとしたか、その理由の説明が自分でもつけられない。特に理由がないから。適当に会社がしんどいと一切の責任を会社に無理やり擦り付けた。その程度のことは医者も見抜いているのか「会社なんか辞めちゃえばいいじゃん」と軽いノリで答えてくれた。もちろん、「今のところ異常所見はないけど、短時間とはいえ濃い一酸化炭素吸ってるから、間歇化一酸化炭素中毒(注:一酸化炭素中毒による意識障害から回復後、二―四十日後に起きる遅発性脳症。三十代後半かつ来院時の意識障害の有無によりある程度リスク検討ができるとされるが機序は未だ不明)にならない保証はないからね」と告げられた。そのぐらいのことは私も知っている。その晩、睡眠薬なくとも眠りにつけた。いや正確には、意識を飛ばすことができた。時々やってくる病的な睡魔で意識を手放しては、また数時間後に目を覚ますことを繰り返した。

翌日、再び酸素カプセルの中へ入れられる。この時もまだ眠気はあり、カプセルに入って十五分ぐらいで意識を手放して、気づいたら全て終わっていた。昼頃にICUに戻ったあと、医者がやってきた。「一応精神科にコンサルしたけど、『たぶん退院すればまた自殺するだろうし入院してもらうのが一番良いとは思うよ』って言われたわ。医療保護で入る?退院する?それとも自分で精神科探す?どうする?」と問われた。そんな時にもやはり会社のことを思い出して、退院を申し出た。医者は不服そうだった。「でも退院したらまた練炭焚くでしょ」。負けじと反論する。「昨日私は死んだのと変わらない。治療を受けるのも良いが、どうやって生活費を稼ぐのか」。退院は認められた。

腕に刺されたラインが抜かれた。手首に刺さったそれを抜くと、噴水のように血が出た。動脈の血は止まりにくい。酸素療法を受けたあとなら尚更だろう。四苦八苦しながら止血が終わったあと、会計窓口への水先案内人がやってきた。入院治療費計約七万円を支払い、帰路に着いたのは十四時過ぎのことだった。近くのコンビニで手に入れたタバコに火をつけて、身体に煙を取り込む。「これぞまさにマッチポンプか」とくだらない冗談を一人つぶやきながら、家路についた。(終)


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