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「影響のちから」 ウィリアム・ブランハム (日本語訳)



これは筆者が、何年も前に翻訳した、
ウィリアム・マリオン・ブランハム
(William M. Branham
アメリカ、1909-1965)
による一説教の全文です。

どなたか探されている方の、
お目に止まりますようにと祈りつ、
ここに掲載することにいたします。

大変長い、説教の書き起こしを
翻訳した文章ですので、
お読みになられたい方は、
どうぞご自由に
印刷等なさってください。





影響のちから 63-0803E

 ありがとう、どうもありがとう。もう少しの間立ったままで、頭を垂れて祈っていましょうか。頭を下げるだけでなく、心も一緒にね。一体このなかに、祈りのリクエストのある人がどれだけいるでしょうか。手を挙げて、神様に知らせてくださいますか。さあ、いまから祈る間、そのリクエストを覚えていてくださいね。

 天におられるお父様、今日のこの楽しい時を感謝します。またあなたの元に集まれたことを感謝します。信じさえすれば、私達が望むものをすべてあなたは与えてくださるのだという、その素晴らしい約束を感謝します。私達は手を挙げています。そして私達の願うものを、すべてご存知であるあなたに祈ります。どうか今夜、私達に与えてください。励ましを与えてください。この世界はひどい状況ですし、私達は大きな嘆きに直面しています。主よ、どうかあなたの聖なる助けを与えてください。私達をあなたの御言葉によって励ましてください。あなたが地上に来るまでに、私達が何をすればいいのか、どうか教えてください。どうか、お父様。イエス・キリストの御名によって訊ねます。アーメン。
席についてください。

 今夜またここに戻ることが出来て、本当に感謝しています。恵み深い主についてもう一度語ることができるなんて。ここ、レーンテクにもう一度来ることが出来て、嬉しく思います。何度も来たことのある馴染みの場所ですから。おやおや、祈るべきハンカチがだいぶあるようですね。昨日は二度も集会がありましたから、いつもの癒しの集会ができませんでしたね。二度もの集会によって、みなさんを疲れさせてしまっていないといいのですが。今晩こそは、これらのハンカチの上に祈りましょう。そして信仰を持って祈る全ての人に、主がその祈りを叶えてくださいますように。

 メル・ジョンソン兄弟が明日帰ってしまうのは、本当にさびしいことです。彼は素晴らしい歌い手ですしね。神様が彼に与えられた、あの素晴らしい歌声を感謝します。

 そうそう、明日のことを話しましょう。ミード兄弟、明日ここで集会があったりはしませんか。おお、あるそうですよ。何時ですか。≪誰かが「十一時」という。≫ 十一時にここで集会があるそうです。私も三時ごろには戻るでしょう。そして明日の晩は七時ですね。もし御自分の教会で集会が無いならば、ぜひ明日ここにいらしてください。

 あなたがたをそれぞれの教会から引き離そうだなんて、そんなつもりは全く無いのですよ。私達にそんな権限はありませんから。私達が願うのは、まだ救われていない人たちが救われる手助けをしたいということです。まだ聖霊を受けていなくて、聖霊を受けたいと心から願う人、そんな人たちのお手伝いがしたいのです。そして病気に苦しむ人たちを助けたい。どこの教会から来たのだろうと関係ありません。あなたが聖霊を受けたら、あなたの病が癒されたら、みんなのところにいって証しなさい。人々に述べ伝えるのです。あなたの教会がそれに反対しようとかまわない。いいですか、光が溢れているところで輝くのはたやすいこと。しかし光が必要なのは闇の中です。光は闇のなかでもっとも輝くのです。

 おっと、ありがとう、ヴェール兄弟。≪ヴェール兄弟がマイクの調整をする。≫ ヴェール兄弟がマイクを直してくれましたが、これでよく聞こえるようになりましたか。うん、いいみたいですね。

 今晩は癒しの集会がありませんから、すこし早めに終わらせましょうね。私は毎回言うんです、「さあ、今晩は九時半までに皆さんを解放してあげますよ」ってね。ああ、でも九時半まであとちょっとしかない。今朝も二時間喋ってしまったし、今晩もこんな感じですから、きっと皆さん、明日の夜私がこの町を去る頃には疲れきってしまうでしょうね。ああ、やっと去ってくれた!なんて思うかもしれません。ほんの二十分くらい喋って、それで終わりに出来たらいいのだけれど。皆さんも私も疲れてきたなと思ったらやめにしますね。

さあて、聖書を開いてくださいますか。イザヤ書です。イザヤ書の6章ですね。聖書を読む前に祈りましょう。神様がその御言葉を祝福してくださるように、わたしたちがそれを自分のこととして受け取れるように。さあ、まず御言葉を読みましょう。よく聞いてくださいね。

ウジヤ王が死んだ年のことである。
わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのをみた。

衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。
上のほうにはセラフィムがいて、それぞれ6つの翼を持ち、
2つをもって顔を覆い、2つをもって足を覆い、
2つをもって飛び交っていた。

彼らは互いに呼び交わし、唱えた。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
 主の栄光は、地をすべて覆う。」

この呼び交わす声によって、
神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。

わたしは言った。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。
 わたしは汚れた唇の者。
 汚れた唇の民の中に住むもの。
 しかもわたしの目は
 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んできた。
その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。

彼はわたしの口に火を触れさせて言った。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので
 あなたの咎は取り去られ、罪は赦されたのだ。」

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。

「誰を遣わすべきか。
 誰が我々にかわって行くだろうか。」

わたしは言った。

「わたしがここにおります。
 わたしを遣わしてください。」

 祈りましょう。主イエスさま、私達はあなたの助けなしにはこの憐れみ深い御言葉を理解することが出来ません。どうか、今晩、私達を助けてください。もう一度、このシカゴの街であなたの福音が語られるために。どうか、主よ。いまここで及ばされる影響力が、いつまでも続くものとなりますように。イエスの御名によって願い求めます。アーメン。

さて、今読んだこの箇所から、今日は「影響のちから」について話したいと思います。ご存知でしょう、私達はいつも自分の行動によって、誰かを感化しているのです。私達のふるまい、喋り方、生き方。すべてのことで、誰かを感化しています。

 皆さんも知ってのとおり、多くの人は教会に行きません。彼らは教会について偏見を抱いているのです。彼らは教会にいる女性は魔女ばかりで、男性は黒衣の悪魔たちだなんて、間違えた印象を持っているのです。でもね、彼らは何をしていると思いますか。教会に行かない人たちはね、私達のことを観察しているのです。こういったのはパウロでしたっけ、「私達は生ける神の手紙、すべての人がこれを読む」。そしてあなたがどこにいようと、誰かがあなたを見ているのです。

 そして特に、特にですね、あなたが自分はクリスチャンだと言い表したならば、周りの人たちはあなたの言動をよく観察するでしょう。そしてあなたの行動が彼らを感化するのです。私達は自分の行動を気をつけなくてはならない。だってもし人々を間違った方向に感化してしまったとしたら、勿論自分自身も非難されますが、人々は、あぁクリスチャンってこんなものなんだなと考えるのですよ。するとキリストが非難されるわけだ。誰もキリストに不名誉を押し付けたいなんて考えていないでしょう。しかし間違えた時にする間違えた行動というのは、きっとあなたを見ている人たちに間違えた感化を及ぼします。クリスチャンであると宣言したならば、誰もが周りから見られているのです。

 そう、今日読んだ聖書の箇所ですが、影響のちからについて書いてある場所は、すこし前のところなんですね。もし聖書を開いてくださるなら、第二歴代誌の26章にあります。ウジヤ王の生涯についてです。

 ウジヤ王は羊飼いの少年でした。彼は王の息子で、若くて、外で遊ぶのが大好きでした。彼は家畜の世話をしていました。森で時を過ごすのが大好きだったのです。葡萄園も好き。何かが育つのを見るのが好きだったのかもしれません。そして彼は本当に素晴らしい家庭のなかで育ちました。父のアマツヤは正しい人でしたから。ただ晩年少し道をそれて、外国から偶像を取り入れたりしてしまいました。神様はそれでアマツヤを地上から取り去られたのですね。しかし父は良い感化を息子に及ぼしていました。ウジヤの母はエルサレムの娘で、父のアマツヤは信仰のある人でした。ウジヤは両親から良い影響を受けて育ったのですね。

 そう、これは子どもを育てるときに大切なことです。子どもには良い影響を及ばさなくてはなりません。知っていますか、子どもたちがあなたを一番よく見ているのですよ。子どもたちはあなたのすることなすことを観察しています。そしてなんでもあなたのすることを真似するのです。あなたは彼らのお手本ですから、子どもたちはそれをそっくり真似するわけです。

 思い出すのは、そうそんなに昔のことじゃないなぁ、ロサンジェルスでのフルゴスペル・ビジネスメンの集会の時でした。オーラル・ローバーツが何か、影響の力について語ったんですね。そして私にも何か喋るようにと言われた。その時私が話したはなしというのが、

 昔どこかで読んだことのあるお話です。ある男がクリスマスイブの夜に、クリスマスプレゼントを配りに家の近くを歩いていました。プレゼントを隣人や同僚に届けるためです。一軒一軒の家で、彼はお酒を振舞われました。彼がすべての家をまわったころには、もうすっかり酔っ払いになっていました。頂いてきたたくさんのプレゼントを抱えながら、その男は公園を横切って、家まで近道しようとしました。雪は四、五インチは積もっていたでしょうか。男は酔っぱらっていたので真っ直ぐに歩けませんでした。彼が歩いてきた道を振り返ると、白い雪の上にジグザグの足跡がついていました。

 男の後ろを七歳の息子が、短い足で懸命に追いつこうと歩いていました。男の子はめいっぱい大股で歩いて、時々倒れながらも、ジグザグに進んでいました。父親の彼はすこし立ち止まって、息子が追いつくのを待ってあげました。彼は息子に尋ねました。
 「息子よ、どうしてそんな変な歩き方をするんだい?」
男の子は言いました。
 「パパの真似をしてるんだよ!」

 これはただのたとえ話じゃありません。本当のことです。本当に、あなたの子どもたちは、あなたのパターンに沿って歩むのです。

 今のアメリカが次の世代に示しているお手本ときたら、どうしたことでしょう。煙草を吸う、男も女も酔っぱらう、家のなかで賭け事をしている。一体こんなんじゃあ、次の世代はどうなってしまうというのですか。みんなノイローゼになってしまう。アメリカだけじゃない、全世界がこんな感じですよ。この世代がこれでは、次の世代が思いやられる。次だけじゃない、次の次はどうなる。このまま続けば我々はキリストが再臨するまえに絶滅してしまうでしょうね。だって、こんなにひどい手本を子どもたちに見せているのですから。

 今日のクリスチャンだってそうです。御覧なさい、クリスチャンだといいながら、酒は飲む、煙草は吸う、詐欺師まがいなことはするし、不正を働きます。キリスト教が衰退しているのも、不思議なことじゃありません。クリスチャンが世の人にもたらす影響力を考えてごらんなさい。私はクリスチャンだって証しながら、全然違う生き方をするのですから。

 だからこそ、聖霊を受けなくてはならないのです。このような時代にこそ、聖霊が必要なのです。聖霊が、あなたの人生を生きるのです。あなたが自分の人生を生きるんじゃない。聖霊とは、あなたの内に生きるキリストです。聖霊を受けたのに、まだ昔と同じ生き方を続けているのだとしたら、あなたは聖霊を受けていないのです。もし本当にイエスがあなたの内にいるとしたら、あなたはイエスのようになるからです。イエス様があなたの人生を生きる、その逆ではない。あなたはもう自分勝手には生きられない。「あなたは死に、神の内に生きる。キリストによって、聖霊に封印されたのだ。」だからもうあなたが昔の生き方を続ける余地は全然ないのです。

 さて、ウジヤ王の話に戻りますね。この若い男の子は、父親から良いしつけを受けてきました。父のアマツヤが死んだとき、彼は十六歳。人々は彼を次の王にかつぎ上げました。たったの十六歳で権力の座についたのです。彼の生涯について読んでくだされば、ウジヤはユダの政治に影響を受けなかったのがわかります。ウジヤは、大衆の意見に惑わされませんでした。そうではなく彼は「主を求めた」と書いてありますね。

 ウジヤ王が若かりし預言者イザヤに影響を与えたのは、この点においてです。イザヤはウジヤ王の治世に生きました。この王と預言者は、だいぶ気が合って仲良しだったようです。イザヤはよく宮殿で、王と親しく談笑しました。イザヤはウジヤ王から良い感化を受けたのです。イザヤにとって、王は英雄でした。ウジヤは決して人を分け隔てしないし、その意見がぶれることもありませんでした。ウジヤ王は神ただ一人に仕えることを強く決心していたのです。皆さん、このような人をお手本にするべきです。

 ウジヤは決して異教徒の風習に歩み寄りはしませんでした。逆に異教徒たちが、神に大いに祝福されるウジヤを見て、感嘆したくらいです。

 神はその御言葉に忠実である人を、みな祝福されます。神はそのような人を祝福せざるをえないのです。さて、イザヤとウジヤ王の友情について見てみましょうか。

 王国は大いに栄え、ソロモンの栄華に少し劣るくらいでしたでしょう。ウジヤの勢力はエジプトにまで及んだのですから。

 政治やその他の何にも惑わされず、神のために立ち上がる王を見て、若いイザヤはとても感銘を受けました。ただ真っ直ぐに神の言葉に従うウジヤ王は、イザヤに素晴らしい感化を及ぼしたのです。神は御言葉に常に真実であった彼らを、大変祝福されました。

 しかし、この王にも誘惑があったのです。王が謙虚でいる間は、神の豊かな祝福が彼に降り注ぎました。しかしまわりのすべてが上手くいき、すべてがバラ色に見えたとき、彼は思い上がってしまったのだと、聖書に書いてあります。彼は偉いのは自分なのだと勘違いしてしまったのです。そして彼は神の道を外れてしまいました。

 今日の教会でも同じことが起きています。人が自分自身に満足してしまったとき、彼はもう祈るのを止めてしまいます。もう神を忍耐強く待つことを止めてしまいます。

 こんな表現をしてもよいでしょうか。私はこれが「後の雨運動」や今の時代のリバイバルに起こっていることだと思っています。これらの運動の指導者達のなかには、酔っぱらって説教壇に立ったなどと非難される人がいます。実際に間違えたことをした人たちがいます。それというのも始まりは、彼らが人々に大いなる影響力を持ったことで、偉いのは自分なのだという思いに捕らわれてしまったことです。自分の小さな王国を持ったような気になって、自分が何をしようと構わない、皆ぼくのことを尊敬してるんだから、なんて思うようになってしまったのです。しかし神様はすべてを見ておられます。ネブカドネザル王を思い出してださい。彼はある日、散歩をしていて、「見よ、わたしが建てた王国はなんとも素晴らしいじゃないか」と言ったとたんに、主の天使に打たれてしまいました。

 男であろうが女であろうが、司祭だろうが枢機卿だろうが同じこと。もし自分が偉いなどと思うようになったら、気をつけなさい。神様はあなたをそのままにはしておかれません。神様は決して他人と栄光を分かたれないのです。栄光は神のみにあるのです。

 時に神様は、ある人に他の人より少し優れたミニストリーを与えられます。いや、優れてはいないかもしれない、少し他の人と違っているだけかもしれません。でもとにかくその人は途端に鼻高々になってしまうのです。大得意になって、もう道で会っても挨拶なんぞしてくれないかもしれない。そしてその時、彼は道を踏み外してしまうのです。神様はそのような人間を使うことが出来ないからです。

 このウジヤ王は、敬虔な人ではありましたけれど、あるときから驕り高ぶってしまったのですね。彼はプライドが高くなり、自分のしたいことはなんでも勝手にしていいような気になった。神にたずねる必要なんかもう無い、そう思ってしまいました。しかし、いつだって誰だって神様の下にいるんですからね。神様はわれわれの神です。

 ウジヤには、わたしは神に祝福されているんだ、というプライドがありました。そして彼は、祭司にしか許されていない仕事をしようとしました。彼は神殿に入り、主に香を焚こうとしたのです。これはアロンの子孫である祭司にしかできないことでした。ウジヤは、自分は王だし、神様に祝福されているのだからと驕り高ぶってそんな行動に出たのです。

 わたしはいつも、フルゴスペル・ビジネスメンの人たちに言っています。「牧師になろうなんて思っちゃいけないよ」ってね。牧師というのは大変な仕事ですし、金銭的にも苦しい仕事です。あなたがたは神様に召された仕事をするべきです。境界を越えようとしてはいけません。

 覚えておきなさい、世の中にはたくさん、牧師になるべきでなかった牧師達がいます。牧師や宣教師といった仕事は、食事に招かれたり、有名になったり、誰かより偉くなったり、褒められたりしたいからという理由でなるべきものではありません。時として彼らは昔の祭司たちのようになってしまうのですね。

 イエスは言いました。「お前達はやもめを餌食にし、高い地位に就くことを望み、見せびらかすために長い祈りを捧げる」「お前達はその悪行の報いをうけるだろう」と。

 私達は決して、そのようにならないようにしましょうね。神様は私達が謙虚でいることを望まれます。登り坂はすなわち下り坂に通ずる。謙虚でいなさい、そうすれば神様が持ち上げてくださいます。自分自身を持ち上げるのなら、つまり自分を落とすことになります。

 ウジヤ王は祭司でもないのに、祭司の領域を侵したのですね。

 それでも神様はウジヤを祝福し続けました。彼は偉大な男だったからです。彼はユダを大いに栄えさせました。周りの国々はどんどん貢ぎ物を送ってきました。ウジヤはたくさんの家畜と葡萄園を持っており、たいへん裕福な暮らしをしていました。それから彼はのぼせてしまったのです。

 教会でも同じこと。ある地方の小さな教会が慎ましく神様に仕えているとします。教会は小さいけれど、真実な心を持って神様に仕えています。すると誰かが褒美のつもりで、美しい教会堂を買ってくれます。教会が人並みになると、他の教会に負けてはいけないというようなプライドが入り込みます。会衆は美しい教会堂に誇りを持って威張るかもしれません。さて、これは間違ったことです。覚えておいてくださいね。

 神はイスラエルにおっしゃりました。「わたしがお前を見つけたとき、お前は野で血だらけになっていた。」そしてこう続きます。「お前は十分な食べ物を食べ、綺麗な服を着せてもらうと……」彼女は神に背を向けます。そして娼婦のようになってしまいます。神様がそれを喜ばれるはずがありません。

 この偉大なるイスラエルの王ウジヤでさえも、驕り高ぶって自分に召されていない仕事に手をだそうとしてしまいました。勇気ある祭司たちが駆け寄ってきて、王に言いました。「これはあなたの仕事ではありません。あなたにこれをする権利はないのです。これは神が聖別された人だけができるのですから。」

 ああ、もしすべてのミニストリーが聖別されたものだとしたら! もし人々が、福音を述べ伝えるのは教会のメンバーを増やすためではないとわかったら! 宣教の目的は聖別された赤子のような人たちを神の御国に入れることなのです。彼らがどんな教団や教派に属そうが、神の御国のためなのです。

 時々あたらしい人が、何かちょっと新しい教えを携えて現れます。そして既存の教えに、ちょっとだけ新しい風を吹き込もうとするのですね。

 私の知り合いに、素晴らしい説教家がいます。彼は本当に良い兄弟です。私はこの前彼と話す機会があったのですが、彼はやたらと聖霊から受ける興奮にこだわるのです。彼はそのミニストリーを完全に、その感覚の上に建ててしまいました。いまや彼は人々が不老不死になれると説いています。彼はもう大分危ないところまで行ってしまっていました。正しい道に戻るのも危ういかもしれません。これも、間違った道に進んでしまったからです。

 「人は女から生まれ、人生は短く、苦しみは絶えない」生まれ出た者はみな滅びねばならない。「また人間はただ一度死ぬこと、その後に裁きを受けることが定まっている」死ぬこと、それは定めなのです。

 私はこんな伝染病病院みたいな世の中に、いつまでも生きていたいとは思いません。私が欲しいのはこんな肉の体ではなく、神様が下さる霊の体です。神様さえお呼びくだされば、私はいつでもこの世を去る用意が出来ています。「私たちの住まいである地上の幕屋が壊れても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。」(第二コリント5:1)霊の体は壊れませんし、死ぬこともありません。

 この世で何百年と生きたって、何が面白いのです。私は嫌ですね。私はこの世を去ることを歓迎します。この死にゆく老いた体を捨て去るなんて素晴らしいではないですか。もう痛みも苦しみもないのですよ。誰がこんな体に永遠も留まっていたいものですか。私達は主の備えてくださった新しい栄光の体に移るのです。この空虚な殻から命が去ると、なかに住む神の永遠の霊が、向こう側にある新たな幕屋にむけて、旅立ちます。そしてそこに永遠に住まうのです。これ以上なにを望むのですか。なんて素晴らしい約束でしょう。これらのことを単純にわかりやすくしてくださった神様に感謝します。

 いいですか、こちら側の出来事はみな、あちら側の影にすぎないのです。私達も、影です。ここ説教台からはたくさんの人たちが見えますね。通りにもたくさんの人たちが歩いています。彼らはみな生きていますが、それが本当に生きているのだとは言いがたい。なぜなら死がそのうちに潜んでいるからです。「たとえ死の陰の谷を行こうとも」(詩篇23:4)、ダビデの言葉です。影を作るにはとても強い光が必要なのですよ。闇しかなければ、影は作れませんからね。暗闇のなかに光があって、影が出来る。さて、あなたは光と闇、どちらのうちにいますか。

 ハンサムな若い青年も、数年経てば、髪は白髪混じりで薄くなって、昔の男前はどことやら、疲れきった中年男に成り下るでしょう。聖女のように美しく清らかな少女も、数年後には、猫背で二三人の子どもを抱えて、やつれた主婦になっているかもしれません。私達は死とともに生きているのです。どんなに健康で美しく見えたって、死は必ずそこに潜んでいるのです。

 光に属する者は、常に光について語り、光輝いています。反対に闇に属する者は、世について語り、世に影響され、完全にこの世のものです。死んでもただ闇に帰るだけ。私達がいまこの場にいるのは、ただただ神様の恵みのおかげです。私達が偉かったからでは決してない。神様が哀れみ深くおられるからです。神の御前では、ただひれ伏してその御名を讃えるのみです。

 ウジヤ王がこのように謙虚な気持ちでいた間は、神様は彼を祝福しておられました。しかし問題は、彼が自分の召された仕事に満足せず、すべきではないことに手を出してしまった時です。彼は自分は主に祝福された者だから、なにをしても正しいのだと思ってしたのです。

 私達はなんと間違いを犯しやすい生き物なのでしょう! 本当にほんとうに、これには気を付けなくてはなりません。神様に召されない限り、勝手に物事を始めようとしてはなりません。本当にそれが神から来たものだと確信するまで、祈って待つべきです。

 モーセやパウロは、神の僕になる前に、どん底まで追い詰められ、すべての栄光を剥ぎ取られました。それは彼らが聖霊の囚われ人になるためです。神はそのようにして神の僕をお召しになります。神から頂いた力を、自分の名誉のために使おうと考えているような人を、決して神様はお使いになりません。

 さてウジヤ王は、自分の誤った行動を指摘されたとき、どんな行動をとったでしょうか。ウジヤ王は祭司達に向かって、怒りました。

 これはなんともおぞましい反応です。誰かが来て、あなたの間違いを指摘してくれたときに出来る、一番ひどい反応がこれです。ウジヤはなにをしても自分は正しいのだと思っていたので、祭司達を忌々しく思って怒ったのです。

 ウジヤ王になにが起きたのでしょうか。怒っている間に重い皮膚病が、彼の額に現れました。それを見た祭司達は、王を神殿から追放しました。ウジヤ王は、そのまま寂しく死にました。あんなに順調にスタートした彼の人生も、こんな惨めな終わり方をしてしまいました。神殿からも宮殿からも追い出されて、隔離され、皮膚病に苦しみながらの死でした。若い頃は神を慕い求め、神からの感化を受けた人なのに。

 神に仕え始めた頃はすべて順調だったのに、今は神から離れ、酒に溺れていたり、ボロボロになったり、神から離れたりしている人たちがたくさんいます。彼らは、金のために道を踏み外したり、妻でない人と関係を持ったりしたのです。大あれ小あれ、どこの教団もそのような醜聞を抱えています。一時は神の祝福を受けていたのに、日も当たらない所で一生を終える、そんなウジヤのような人は珍しくありません。

 あなたが神のために周りの人に感化を及ぼせる、そんな立場にあがったときは、常に謙虚でいることを気をつけなさい。決して思い上がってはなりません。いつもいつもへりくだっていなさい。

 この王は不名誉な最期を迎えましたが、預言者イザヤはこのことから多くを学びました。それは人に望みを置くのではなく、神のみを望むことでした。イザヤが自分の手本と思ったウジヤは、人生に失敗してしまったのです。

 ここから私達も教訓を得ることが出来ます。それは誰を自分の手本としようと、心は神のみを仰ぐべきだということです。司祭だろうが、牧師だろうが、預言者だろうが、人間であるかぎり間違いを犯すことがあります。いつまでも正しく、確かでおられるのはただ一人、イエス・キリストのみです。
でもとにかく、イザヤはこれで大切なことを学べました。そしてそれは神様の御心に適ったことでした。

 「僕はラクな暮らしがしたいから、牧師になろうかなぁ。よし、進路は神学校にしておこう。僕だったら牧師になるぐらい簡単だと思うんだ。きっと有名になってみせるぞ。」こんな考え方で聖職につこうとしてはならない。もうこんな牧師で、説教壇は溢れかえっていますからね。これ以上はいりません。

 イザヤは学びました。人の運命を決めるのは神なのだと。ウジヤ王は王になるようにと召されたのであって、祭司になるようにとは決していわれていなかった。ウジヤ王は王であることに満足しているべきだったのです。あなたは決して、他の誰かになろうと考えてはなりません。

 自分のヒーローだった王が恥辱にまみれて死ぬのをみたとき、イザヤは絶望を感じました。そこで彼は神殿に行って、神に自分の思いをすべて話してこようとしたのです。彼が幻を見たのはその時でした。神殿でイザヤが見たのは、彼の真実のヒーローでした。幻のなかで、神は天高く御座についておられた。その衣の裾は神殿いっぱいに広がっていました。神の栄光は、地上では想像できないくらい、輝かしいものでした。その方こそ、イザヤが本当にヒーローとして慕うべき方でした。

 そこにはまた、天上の生き物であるセラフィムが飛び交っていました。このセラフィムですが、ここではヘブライ語で「燃やし尽くすもの」という言葉が使われています。彼らは捧げものと香を、神の御前に焚くものだったのです。彼らはまあ、地位の高い天使の一種だとでもいいましょうか。彼らは罪人たちのため、神の臨在のなかで働いていました。セラフィムはケルビムとも呼ばれますね。彼らは特別な役目を持っており、常に神の臨在のうちにいるのです。

 神の霊がイザヤの上に降り、イザヤは目を開きました。彼が目を開けると、そこはもう地上の世界ではなく、幻のなかでした。そして彼は、高く上げられた神の御座を見、セラフィム達が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主!聖なる、聖なる、聖なる万軍の主!」と唱えるのを聞きました。

 このことがどれだけ偉大な感化を、この若い預言者の上にもたらしたことでしょう! 彼は良い人が失敗するのを目の当たりにしましたが、いまや偉大なる神を見、セラフィムを見ているのですから!

 セラフィムの翼に注目しましょうか。彼らは二つの翼で顔を覆い、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛んでいました。神様はなんとも聖なる方です。見よ、天使達でさえ、神の御臨在のなかでは、顔を覆わずにはいられなかったのです。

 考えてもごらんなさい、兄弟姉妹よ! 天使達でさえ、神の臨在のうちでは敬意を示して顔を覆ったのですよ。今日のクリスチャンたちはどうしたのですか。神への敬意がないのでしょうか。復活の日に一体彼らはどこにいるのでしょうね。だって聖書は言っていますから。「正しい人さえやっと救われるなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」(第一ペトロ4:18)ってね。

 セラフィム達は主の臨在の中で、昼も夜も絶えることなく神を讃えています。神の恵みの御座の側で、二つの翼で顔を覆いながら。これにはどういった意味があるのでしょう。

 今日の人々には尊敬の念というのが欠けています。彼らは教会に来て、ふざけまわったり、大声で笑ったり喋ったり。神の御言葉が語られている場所では、敬意を示さなくてはなりません。彼らは道で会っても、知らん顔です。私が通りで注目されたいだとか、そんなつもりで言っているのではありません。しかし、道で人に会ったら、「お早うございます、兄弟。いい天気ですね!」くらい言うのがクリスチャンとしての礼儀ではないでしょうか。人を敬うのは大切なことです。それが、説教台の上の人に向かって、「おい、さっさと説教しろよ!」なんて叫ぶなんて。これが当たり前になってしまったのですよ。

 いいですか、イエス様はこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さなものの一人にしたことは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

 不遜な行動をする人たちは、神の臨在に気づいていないのです。世俗の世界が強くなり、宗教が衰退しているので、もはや尊敬や敬意というようなものは、彼らのなかになくなってしまったのです。

 例えば、イエス様を十字架に付けたローマの兵士です。彼らは汚い敷物を我が主の顔の上に乗せ、イエス様を棒で打っては言いました。「お前が預言者なら、いま打ったのが誰か言い当ててみろ!」ね、敬意なんて無いのです。彼らはイエス様に触れても何も感じなかったのです。

 しかしイエスの衣の裾に触れたあの長血の女、彼女はただその衣に触れるだけで癒されました。彼女の信仰がそれを成したのです。私達は神の臨在に気づき、それに敬意を払わなくてはならない。

 私達は毎日を、ちっぽけな五感に頼って生きています。五感はこの地上で生きるために必要なものですが、本当はそれを超える感覚があります。地上を超えた次元で生きるための感覚が。

 私達は気づかずとも、神はいつもわれわれと共にいます。「主を畏れるひとの周りに、主の使いは陣を敷き、守り助けてくださった。」(詩篇34:8)今日この建物のなかにも、イエス・キリストがおられます。この建物のなかには、たくさんの天使たちがいます。見えないですか、そうかもしれません。しかしあなたには彼らの影響力が感じられはしませんか。彼らはここにいるのです。そうでなければ、聖書が間違えていることになる。もし聖書が間違えているなら、神が間違えていることになりますね。聖書には書いてあります。「主の使いは陣を敷いている」と。陣を敷いているので、去ることはありません。「主を畏れるひとの周りに」いるのです。

 イエス様はおっしゃいました。「二人、または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもそのなかにいるのである。」(マタイ18:20)神様は私達に見えなくとも、側にいてくださる。五感では感じ取れません。もし私達がそれを感じ取れるのならば! イエス・キリストはいまここにいるのですよ!

 そしていまここだけではない、道を歩いているときも、どこにいるときも、天使があなたの側にいてくれます。神を畏れるひとと、いつも共にいていてれます。天使はいつもあなたの側で、あなたを見守っています。彼らはあなたの心の思いを読み、あなたのすべてを見ています。それを覚えていてください。

 それを覚えていないと、道を踏み外してしまうかもしれないですからね。今日の世界がこんなに堕落しているのは、人々が神の臨在に気づいていないからでもありますから。

 もしもダビデのように、「わたしは絶えず主を見つめています」(詩篇16:8)と言えたなら。素敵な言葉ですよね。「主の行かれるところ、わたしも行き、主は決してわたしを離れることがない。わたしはそれを知っている。」またダビデの言葉があります。「神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。」(詩篇59:11)

 「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない。」(ヘブライ13:5)イエス様の言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる。」(マタイ28:20)神は私達を見捨てることが出来ない。これは約束ですから。

 これが私のミニストリーの目的です。イエス・キリストがいまも生きておられる、それを人々に伝えるため。そのために私はどの教団からも遠ざかり、一人で働いているのです。すべての信者に、すべての教団に、カトリックにも、プロテスタントにも、イエス・キリストが二千年前と変わらずここにいることを伝えるために。「わたしは絶えず主をみつめている。」ダビデは言いました。「わたしは揺らぐことがない。」

 そう、セラフィムに話しを戻しましょう。セラフィムの顔を覆う二つの翼ですね。彼らは神の臨在のなかで、神に仕えています。

 セラフィムが、神に仕えるのにその聖なる顔を翼で覆ったのなら、牧師は何で顔を覆えばいいでしょうか。恥によって! 私達はへりくだって生きねばなりません! 神はいつまでも聖なる方。私達は常にそれを覚えねばなりません。神の恵みがなければ、私は裸の罪人です。イエスの血が、私達を清めてくださったのです。

 さて、セラフィムの足を覆う二つの翼ですね。これは謙遜を意味します。

 例えばモーセ。モーセは燃える柴の前で神に出会うまでは、あまり謙虚な人ではありませんでした。しかし神の光が語る声を聞いたとき、彼は変わったのです。声は言いました。「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブと交わした約束を忘れてはいない。」それを聞いてモーセは靴を脱ぎました。その超自然的な存在の前で、彼は自分を卑下したのです。足は彼の土台、それまでに身につけてきた知識や教養などを意味します。

 パウロにも同じことが起こりました。パウロは光の天使に出会ったとき、「主よ!」と叫んで地に倒れました。彼は声の主が誰なのか、理解したのです。彼は自分の小ささに気づいたのです。

 「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしの目は万軍の主を見てしまった!」そうイザヤが言ったのも無理ありません。

 パウロは偉大な学者で、地位の高い者でしたが、神の御前ではなすすべもなくただひれふしました。

 そしてモーセも、神の臨在のなかでは、へりくだって靴を脱ぎました。彼は預言者で、神を畏れることを知っていたのです。

 洗礼者ヨハネを見てみましょう。彼がヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けていたとき、天から光が降ってきて、彼は叫びました。「見よ、世の罪を取り除く子羊だ。」彼はイエスに洗礼を授けましたが、自分にはその資格がないとへりくだりました。

 私の古くからの友人であるロイ・デーヴィス博士は昔、これについて言っていました。私が彼から、ミッショナリー・バプティスト教会に叙任されたときでしたっけ。「ここで起きたのはね、つまりこういうことだよ。実はヨハネは自分自身まだ一度も洗礼を受けたことが無かったんだ。イエス様も、未洗礼のヨハネから洗礼を受けるわけにはいかないだろう。だからヨハネは自分にはその資格がない、まず自分を洗礼してくださいと言ったんだ。」その時は、まあそれもありえるかなと思ったのですけれど。

 しかし二年後のある日、私が森の中で座っていると、聖霊が光の形で降りてきて、私に幻を見せてくれました。そこで聖霊は教えてくれたのです。

 私が見たのはこういうことでした。その日のヨルダン川のほとりには、その時地上で最も重要な二人の人物が揃っていました。預言者ヨハネと、救世主イエスです。その二人が、その時代に語られるべきメッセージを持っていました。彼らは水の中で出会い、お互いの目と目を合わせました。ヨハネはへりくだって言います。「わたしがあなたから洗礼を受けるべきですのに、なぜわたしのもとにいらしたのですか。」

 イエスは言いました。「今は止めないでほしい」そうです。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」イエスは神であり、ヨハネは預言者だったからです。ヨハネは預言者でしたから、イエスの言葉を理解することができました。律法によると、生贄は捧げられるまえに洗われなくてはならないのです。それゆえイエスは十字架の上に捧げられるまえに、洗われなくてはなりませんでした。だからイエスは言ったのです。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(マタイ3:15)

 ああ、もしこのことについてもう少し喋ることができたのなら! 終わりの時代を生きる私達にも、すべて正しいことを行うのはふさわしいことなのです。聖霊に満たされたペンテコステ教会の人たちが、ほかの教会の人たちとの交わりをさけるのは、ふさわしくないことです。教会をどんどん教団化して、聖霊に満たされた人々を遠ざけるのは、ふさわしくないことです。本当にふさわしくありません。神の霊に溢れ、聖書の言葉に沿った素晴らしい働きをしている人がいるのに、その人が自分の教団に属していないからといって、拒否するのは正しくありません。

 私達はクリスチャンであるべきです。私達は紳士であるべきです。私達は神を畏れねばなりません。私達はどんな人にも手を差し伸べて、親切であるべきです。そう、すべて正しいことをするのは、私達にふさわしいからです。

 イエスが洗礼を受けたのは、彼が生贄だったからです。ヨハネはイエスの上に大いなる光を見て、それを知りました。その時まで、地上で最も重要な人物はヨハネ自身だったのですが、イエスが現れるのを見て、彼は言いました。「私はあなたから洗礼を受けなくてはなりません。」

 しかしイエスは言いました。「すべて正しいことをするのは我々にふさわしいことです。」

 ヨハネは神の僕、預言者でした。捧げ物は洗われねばならぬこと、それを成就せねばならないことを彼は知っていました。「見よ、世の罪を取り除く子羊だ。」彼が言ったとおりです。

 イエス・キリストを受け入れたからには、あなたは正しいことをしなくてはなりません。イエス・キリストの下にある男性も、女性も、罪から離れなくてはならない。

 最近の懺悔ときたら、まるでおふざけのよう。前のほうに出て二分くらい跪いて祈り、すぐ立ち上がって言います。「おお、主よ。あんなことするつもりじゃなかったけど、あなたはご存知ですよね。もう大丈夫、ハレルヤ!」そしてまたすぐ罪に戻るのです。懺悔というのは、こんなものではありません。

 心から反省しなさい。罪の告白をするのです。そして間違いを正しなさい。イエス様はおっしゃいました。「あなたが祭壇に捧げ物をしようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず兄弟と仲直りし、それから帰ってきて、供え物を捧げなさい。」(マタイ5:23-24)いいですか、正しいことをするのは私達にふさわしいのですよ。

 ショートヘアのご婦人方、知っていますか。あなたがたは髪の毛を伸ばして、正しいレディーのように振舞うべきなのです。ズボンを履いているご婦人もそうです。そんなものは脱いで、スカートを履くべきです。クリスチャンらしい振る舞いをしなさい。聖書はこれらのことが間違えていると書いていますよ。女性はそんなことをすべきではない。

 そして煙草を吸っている男性方、そんなことは正しくない。そして妻にレディーらしくないふるまいをさせている。それなのに、自分を「神の子ども」なんて呼ぶのですか。

 結婚式で女性が誓う、「これを愛し、尊敬し、従います。」という言葉はもう意味が無いも同然になってしまった。いまのアメリカでは、女性が支配者です。どこにいっても、女性がまるで男のように振舞っています。しかし聖書にはなんて書いてあったでしょうね。

 女性はとても安全で慎重なドライバーだなんて話を聞きますけれど、それは違うと思いますね。私と息子は国中をいつも横断したり縦断したり、車で移動しています。毎回警笛がブーブーと鳴るたびに、それが女性か男性かチェックしているのですが、300回中281回が女性でした。

 どうして女性が危険な運転をしても捕まらないのかって。警察も、身なりの良いご婦人なら電話番号を控えただけで解放してしまうのです。だから表面には出て来ない。

 そう、この世は女性の支配する世界になってしまいました。聖書にもそう預言されています。説教壇上の牧師は、そんな世界を批判するのを怖がってばかりいます。

 しかし私達には、全て正しいことをするのがふさわしいのです。誰かが声を上げなくてはなりません。自分の評判や名誉を気にするのではなく、聖霊の促しに素直になりなさい。私達はイエス・キリストに、愛によって囚われた囚人です。イエスだけを見つめていれば、ほかの事はなにも気になりません。正しいことを語りなさい。特にペンテコステ派の人たちはですね。

 ある時、ある有名な方が私のところにきて言いました、
「もう女性について何やら言うのは止したらどうだね。どうだい、君がもうそんなことをしなくてもいいように、祈ってあげようか。君は病人に癒しの祈りをするだけで十分だと思わないかね。人々は君のことを預言者だと言っているんだ。」
 私は言い返しました、
「私は決して、自分が預言者だなんて言ったことはありませんよ。」

 彼は言いました、
「でも人々はそうだと思っているんだ。君はその才能をいかして、人々にどうすれば彼らも、君のような霊的賜物を得られるのか、教えるべきじゃないかね。」
 私は言いました、
「それが今日の教会の問題なのですよ。」

 彼は言いました、
「女性に髪を切るなだとか、あれをするな、こうするなと教えるよりも、もっと高尚で、偉大なことを教えるべきではないのかい。」

 私は言いました、
「ABCすら学ぶ気のない人たちに、どうやって代数を教えこめるというのですか。」

 まず、土台をしっかり建てなくてはなりません。建物を屋根から建てようなんて、そんなことをしてはならない。土台が無いのだから、ちゃんとした家は建てられません。それが今日の問題なのです。「すべて正しいことをするのは我々にふさわしいことです。」この言葉を人々は無視しているのですよ。

 洗礼者ヨハネ、パウロ、彼らはみな、神の栄光とその光を見たときに、ひれ伏しました。それはその崇高さの前に、敬意を抱いて自分を卑しめる意味がありました。

 そして天使たちでさえ、神の臨在のなかでは、顔と足を翼で覆い、
神の前に自分を卑しめるのです。さて、気づきましたか。セラフィムにはもう二つ翼がありましたね。その二つをもって彼らは飛んでいるのです。これは行動することを意味します。

 これは有能な僕がどんなふうであるべきかを語っています。主はイザヤに、ウジヤ王の不名誉な最期を見せ、それから天の国にある揺ぐことない王座を見せました。その御座をこそ、私達はつねに仰ぐべきなのです。そして主は、有能な僕の有り様を見せました。神の臨在のなかで仕えるセラフィムの、顔と足を覆う翼はへりくだっていること、謙虚でいることを意味します。そして飛んでいる翼は行動を意味します。へりくだり、謙虚で、常に行動していること! アーメン。真に有能なのは、めかし込んだ召使ではないのです。へりくだって、謙虚で、常に行動している召使、これが真に有能な神の僕なのです。

 井戸端でイエスに会ったあのサマリヤ人の女。彼女はイエスを救い主として受け入れるとすぐ、水甕さえ忘れて、町に走って行き福音を伝えました。「さあ、見に来てください。私のしたことを何もかも言い当てた人がいます。もしかするとこの人がメシアかもしれません。」(ヨハネ4:29)おお、福音をつたえる足のなんとうつくしいことか!

 ペトロは舟の上でイエスに出会い、すぐそのままイエスに付いていきました。イエスの言葉に従って、ペトロが網を片側に下ろすとすぐさま大量の魚が獲れました。それを見てペトロは舟も網も捨てて、その場でイエスに付き従いました。そう、彼はその前にイエスにひれ伏して言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(ルカ5:8)

 ね、ペトロの言葉はイザヤのあの言葉に似ていませんか。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者なのです。」(イザヤ6:5)

 ね、真の信仰を持つ人は、神の臨在のうちで自らへりくだるのです。「えぇ、でもわたしはペンテコステ派だし…。」とか「うちは代々長老教会に属しているから。」などと言っていてはなりません。意味の無いプライドを抱いて、そのまま罪の生活を送ってはならない。心から神に仕える僕は、神の御前でへりくだるのです。批判をするのではない。

 ファリサイ人、律法主義者達を見なさい。彼らはイエスの近くで同じ空気を吸いながら、イエスを批判しました。

 しかし神のまことの僕は、そんな時に神の御前にひれ伏し、すぐさま行動に移すのです。イエスは言いました。「わたしについて来なさい。人間を獲る漁師にしてあげよう。」それを聞いたペトロは、すぐさま何もかも捨ててイエスに従いました。

 イエスに癒してもらった盲人は、外に出るとすぐさまその地方一帯に、イエスのことを言い広めたと聖書に書いてあります。地上に神が生きておられることを知ると、彼はすぐさまそれを人々に伝えるための行動にでたのです。彼はみちみち神を讃えながら人々に証をしました。途中でファリサイ人が彼を捕まえて、なぜそんなことを語るのかと非難しました。イエスに目を癒してもらった盲人はこう言いました。「どうしてかって、そんなこと僕にはわからないです。僕は先生と神学について話せるような頭はありませんから。でも一つだけ分かるのは、見えなかったこの目で、いまは見えることです。」彼は素晴らしい行動をしました。そぐにその地方一帯に福音を述べ伝えたのですからね。

 福音を伝えるのに、牧師である必要はありません。あなたの神の御心に叶う生き方は、人々にすばらしい感化をもたらします。

 ペンテコステの日に集まっていた百二十人の信者達の内訳は、貧しい漁師や収税人、卑しい職業の人ばかりでした。彼らは二階の部屋に集まって十日間、熱心に祈って待っていました。すると、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」のです。聖霊を受けた彼らはすぐさま通りに飛び出して、神の御国を述べ伝えました。神の約束が果たされたとき、私達は行動を起こさねばならないのです。

 この二、三年に私達が見てきた神の御業ですが、これはすべてのボーンアゲイン(生まれ変わった)クリスチャンを行動に移させるに十分だと思いますね。でも実際のところ、そうは成っていない。私達人間は好奇心が旺盛で、ちょっと不思議なものを見て、興奮してしまえばそれで終わりになってしまいやすいのです。しかし本当に神の臨在に触れたのなら、あなたの人生はそれに影響されずにはいられません。本当に信じているのなら、あなたは謙遜になり、行動を起こすはずなのです。

 ある朝マリアは井戸に向かう途中に天使に出会い、彼女が乙女のまま男の子を産むことを知らされました。それを聞いた彼女はすぐさま、周りの人々に、自分が乙女のまま男の子を産むのだと、天使に告げられたとおりに語りました。マリアは他の人が自分を気違いだと思おうと気にしませんでした。彼女は聖霊が自分の上にあり、新しい命がその胎に育っていることを知っていたのです。

 ああ、もし私達の上にも聖霊があり、新しい信仰を育ててくださっていることを、私達が自覚できたなら! 聖霊はさまざまな方法や賜物を使って、キリストの花嫁に強い信仰を持たせようと働きかけています。それに答えて私達は、行動を起こすべきなのです。もし私達がセラフィムのように謙虚でいつも行動するようでいたなら、どれだけ素晴らしいことが起こるでしょうか。

 終わりの時代に現れる火の柱は、神の再臨が近いことの徴です。どうして火の柱を見たのに、あなたがたは行動に移さないのですか。

 一九四十八年にイスラエルが再び建国されましたね。イエスが言っています。「いちじくの木の枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことがわかる。それと同じように、あなたがたもこれらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」(マタイ24:32)イスラエルの建国を見た世代は、メシアの再臨をも見るでしょう。

 私がパレスチナに住むラビから聞いた話です。不毛なパレスチナの土地には、何百年も何百年も葡萄の木が生えませんでした。しかし今年、まだ小さいが、葡萄の木がその土地に根付いたのです。ユダヤ人たちは、これからどんどん葡萄園が増えるだろうと言っています。メシアは確かに帰途にあるのです!

 イエスが生まれたときにバビロンからやってきた、天文学者たちがいます。彼らは三つの明るい星が夜空に並んでいるのを見ました。それはセム、ハム、ヤペテの星です。この科学者たちは、ずっと天の事象を観察していました。この三つの星がエルサレムの上にかかるのをみて、彼らはエルサレムへ旅することを決めました。バビロンの空から見ると、三つの星はちょうど西の空に輝いていたはずです。この三つの星が一直線上に並んだときに、メシアが地上に生まれたのです。ハレルヤ!

 今は終わりの時です。イスラエルが建国され、聖霊が教会の上に降り、世界教会運動が盛んになり、カトリックとプロテスタントが統一しようとしている。もうキリストがその花嫁を迎えに来てもいい頃ではありませんか。

 病人が癒され、盲人の目が見えるようになり、死者が復活する。神はそのような賜物をこの時代に与えておられます。それは私達の信仰を強めるためです。

 天にも徴が現れています。天使が星座のように現れたではありませんか!これは科学者が何ヶ月もまえから予測しており、雑誌にも載っていました。七人の天使が降りてきて言ったではありませんか。「神についての六つの謎が完全に解き明かされる。」と。ちょうど主がおっしゃったとおり、これは前々から予測されていたのです。

 今の時代は不思議な徴が満ち溢れています。人々はそれを空飛ぶ円盤だのUFOだの恐ろしい徴だの呼びますが、これらはイエスの再臨が近づいていることを知らせる徴なのです。

 小さな葡萄の木が生えたように、イスラエルも再び国として生まれました。世界一古い旗であるダビデの星の旗が、またイスラエルの空にたなびいています。約二千五百年ぶりに、イスラエルは自国の軍隊を持つことができました。自国の貨幣さえあります。イスラエルは国連にも加盟した、正真正銘の国なのです。

 「真夜中まであと三分」という名のテープの中で、ユダヤ人にインタビューをしている場面があります。そこで年老いたユダヤ人にこう聞くのです。「あなたは約束の地に骨を埋めるつもりで、イスラエルに帰るのですか。」彼は言いました。「いいや、メシアが帰ってくるのを待つために行くんだよ。」いいですか、キリストの再臨は本当に近づいているのですよ。

 私達はへりくだらねばなりません。敬虔でいなくてはなりません。人々をキリストに導くために、右にも左にも種を撒くために、すべてをつくさねばなりません。

 それなのに、私達はまだこんなことを言っているのです。「今日は礼拝があるけれど、なんだかそんな気分じゃないな。このテレビの番組を見ていたいしなぁ。今日は祈りの集会があるけれど……。」このラオデキアの時代の教会は眠っているのです。金持ちだと思っていても、実は貧しく哀れなものなのです。私達は行動しなくてはならない。

 何千年も前にイザヤの目の前で起きたようなことが、今日の教会でも起きています。ウジヤ王は神と良い信頼関係を築いていましたが、自分を崇めてしまった途端、重い皮膚病に罹ってしまいました。同じように今日の多くの教団は、神ではなく自分たちを崇めています。「私達の教団はどこよりも大きく、格式が高いのですよ。これほどメンバーの多い教団は他にありますまい。」いいですか、こういった高慢な態度のせいで、不信仰という名の皮膚病が彼らを襲ったのです。彼らは神から追い出されてしまいました。

 私達は天からの幻を求めるべきです。私達に必要なのは、人間が作った教団に影響されたメッセージではなく、神から直接影響を受けたメッセージです。イエス・キリストは私達のうちにいるのですから。

 ウジヤのように、神からの御言葉を教義や信条と交換してしまったが故に、神から離れてしまった人々は、今日にもたくさんいます。自分を神様に召された以外の誰かに仕立て上げようとして、人々は道を外れてしまうのです。クリスチャンであると言っておきながら、聖書の言葉を否定するような人間は、ウジヤが祭壇に用が無かったのと同じくらい、説教壇にふさわしくないのです。また聖霊に満たされて神の祝福を受けていると宣言しておきながら、聖書やその中の真理を無視するような人は、ウジヤ王よりひどい、不信仰という名の皮膚病にかかっているとみなしてよいのです。

 神の道から離れてしまったような人たちは、その知性によって神の道を究めようとします。「わたくしは何々博士云々……」彼らは聖霊の油注ぎが欠けているのを、その学歴や地位の高さで補おうとするのです。世の賢い神学博士達は、聖書の部分部分をうまくつなぎ合わせて、耳ざわりの良いメッセージをかたってくれるかもしれません。彼らはどうすれば色々な要素が意味を成しえるのかについて、延々と研究しているのですから。

 しかしこれだけは言っておきましょう。神が御言葉の意味を明らかにされ、それに息を吹き込まれるとき、その言葉は現実のものとなるのです。神はそれにより、御言葉が真実であることを証明されるのです。これが御言葉の真実、神ご自身の語り方です。

 この幻はイザヤに大いに影響を与えました。おお、何たる影響!

 いいですか、イザヤはそれまで一人の人間をヒーローとして仰いでいたのです。イザヤが聖なる人だと思っていたウジヤは、目の前で失敗し、皮膚病に罹って死んでしまいました。同じことがいまあなたの目の前で、あなたの身近な教会で起きてはいませんか。気づけばみな神を離れていた、そんなことがありはしませんか。

 さて、いま世界教会運動(エキュメニカル運動)が盛んです。この世界教会運動によって、教会は緊急事態に備えているのです。「最近の牧師は外部の人に福音を伝えられない。自分の教団外の人に説教すれば、それだけで首になってしまうだろう。もし教団を超えて説教する人がいるならば、彼は世界教会運動に参加しているのだ。」これはルーテル教会の誰かが書いた言葉ですが、その通りのことが実際に起きています。「教会は賛美の対象ではない。教会はただの倉庫だ。」いいですか、もう人々には獣の刻印が押されているのですよ。教会は行動をおこさねばなりません。そう、その通りです。

 あの幻が、イザヤに及ぼした影響を見てみましょう。イザヤは、神が一人の人間に怒り、その男を皮膚病で打たれるのを見ました。ウジヤは神から見放されてしまいました。

 それを見てイザヤは神殿に行き、祈りました。「おお、主よ。あなたこそが神です。わたしは今まで間違えたものを仰いでいました。」そして神は幻を見せてくださったのです。そして驚くべきことに、その幻は幻に留まらず、セラフィムの声は実際に神殿に響いたのです。

 そう、イザヤが見たのは幻だけではありませんでした。彼は預言者でしたが、それまで地上以外の次元を見たことはありませんでした。ウジヤ王が彼にとっての牧師であり、尊敬するお兄さんでした。その失敗を目の当たりにしたとき、イザヤは天を仰ぎました。そうです、彼はついに、人ではなくて天を仰いだのです。そして彼は万軍の主を見ました。

 私の言っていることがわかりますか。どこに話しを持っていこうとしているのか、想像がつきますか。主イエスは約束してくださいました。「主が来られる日は、ロトの時代のようになる。」神ご自身が聖書でこうおっしゃったのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、永遠に変わることのないお方です。」(ヘブライ13:8)そしてまたこうもおっしゃいました。「わたしを信じる者は、わたしが行う業をまた行う。」(ヨハネ14:12)私が言いたいことがわかりますか。

 そして正直な心を持つ預言者イザヤは、神の栄光を見て行動を起こしました。彼は自分の罪を自覚して、大声で罪を告白しました。彼はいままで神の臨在をこんなに近くに感じたことはなかったのです。自分が罪人であることを、イザヤは叫ばずにいられなかったのです。

 それから何が起きたでしょうか。預言者が罪を告白すると、清めの炭火が運ばれてきました。

 人々がその罪を告白しないかぎり、癒しの集会を開く意味はないのです。あなたが自分の罪を、不信仰を、過ちを告白するなら、神様もあなたのために何かをしてくださるでしょう。しかし罪の告白が無いかぎり、罪の清めも無いのです。

 「災いだ!わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。そして汚れた唇の民のうちに住んでいる。」とイザヤが叫んだ途端、セラフィムが聖なる火を運んできました。いいですか、人は神学校に行ったからといって清くはならないのです。律法をすべて守っても清くはなりません。神は火によって人を清められるのです。

 神の僕がその役目につくときに、神は聖霊と炎によって彼を清められます。教育や書物や知性によって清めるのではない。教団や教派も人を清めることはできない。神はその僕を、聖霊の炎によって清められるのです。

 もう皆さんは気づかれましたか。罪の告白をし、罪を清められると、その次に来るのは神の任務に応じることです。神が誰を遣わすべきだろうかと言う声をきいて、イザヤは言いました。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」彼は罪を告白し、炎によって清められたので、神の仕事をする準備が整ったのです。彼はそこから新しい人生に漕ぎ出したのです。彼の人生を見て、多くの人が良い感化を受けました。

 しかし罪を告白する以前、清められる以前の彼には、人々に強い感化を与える力はありませんでした。彼はウジヤ王のただの腰巾着でしたから。

 さて、罪を告白し清められ、神から任務を頂いたので、イザヤは預言者として働く準備が整ったのです。イザヤ書は六十六章ありますが、これは聖書の六十六巻と対応しているのです。創世記から始まり、洗礼者ヨハネが登場し、イザヤ書六十五章と六十六章の千年紀で終わります。イザヤは聖書のあらすじを書いたようなものなのですね。なぜ彼はそんな大役を任されたのでしょう。それは彼が神の臨在のうちで、へりくだったからです。

 彼の成し遂げた仕事は実に偉大なものです。彼はへりくだり、罪を告白し、清められ、任務につきました。何百万人もの人たちが、彼に影響を受けました。ここに彼の書いた本があります。イザヤ書は、何千年ものあいだ、人々を感化してきました。そしてこれからも彼は人々を影響し続けるでしょう。

 聖書に書いてあります。「彼らの行いは報われる。」(黙示録14:13)聖霊がパトモス島でヨハネに語りました。「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また王たちに、再び預言しなくてはならない。」(黙示録10:11)その通り、ヨハネの黙示録はいまも人々に預言し続けているのです。「然り、彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いは報われる。」(黙示録14:13)彼らはいまだに人々を感化し続けているのです。

 さて今日にも、同じことが言えます。私達が持つ影響力についてです。

 私達が誰かに影響力を持とうと思うなら、まず神を知ることから始めなくてはなりません。そして正しく生きることや謙虚でいることを学び、自分自身を卑しめねばなりません常に自分に、いかに自分が小さいものであるかを言い聞かせなさい、それを思い続けなさい。あなたは何でもない存在です。私も同じ。誰にも価値などというものはないのです。ただ神だけが偉大なお方。神こそ讃えられるべきお方。おお、子羊であられる神よ。私達は神殿に戻らなくてはなりません。私達は神の神殿に戻り、神の祭壇のもとに行かねばなりません。私達の心の中に祭壇を築き、そこで自分たちを捧げなくてはならない。そうすれば万軍の主がまたこの終わりの日に現れてくださり、奇蹟をおこしてくださるでしょう。それを見ると、あなたは叫びます。「災いだ!わたしは滅ぼされる。」

神の炭火 唇に触れ
預言者の罪 雪より白くなりぬ
我誰をつかわさん 神の声が言えり
預言者は答えん 我ここにあり我を遣わし給え

その通りだと思いますか。≪会衆がアーメンと言う。≫ 歌いましょう。

【訳者注:ここで一同が、George Bennard作の賛美歌”Speak,my Lord”を歌う。以下はその歌の大意】

語りませ、主よ 語りませ、我が主よ
語りませ、我すみやかに答えん
語りませ、主よ 語りませ、我が主よ
語りませ、我は答えん 我を遣わし給えと
罪と恥のうちに滅び行く幾万の民の
苦く悲しき叫びを聞け
すみやかに、君、すみやかに行け
すみやかに答えよ、我ここにありと
語りませ、主よ 語りませ、我が主よ
語りませ、我すみやかに答えん
語りませ、主よ 語りませ、我が主よ
語りませ、我は答えん 我を遣わし給えと

皆さん、主を愛しておられますか。≪会衆がアーメンと言う。≫ さあ、頭を垂れていましばし祈りましょう。いまの歌をハミングしましょうか。
神の炭火 唇に触れ…

さて皆さん一緒に。≪会衆と一緒になってハミングする。≫

預言者の罪 雪より白くなりぬ
我誰をつかわさん 神の声が言えり
預言者は答えん 我ここにあり我を遣わし給え
語りませ、主よ 語りませ、我が主よ
語りませ、我すみやかに答えん
語りませ、主よ 語りませ、我が主よ
語りませ、我は答えん 我を遣わし給えと

 天のお父さま、私達の不信仰の罪を清めてください。実に幾万の民が罪と恥のうちに滅んでいるのです。私達が持っていないものを持っていると嘘をついたからといって、どんないいことがありましょう。私達が人間の頭で、起こってもいないことが起こったと想像しても、なんの意味がありましょう。私達の天におられるお父様、いま私達を不信仰から清めてください。肉の体の思いから、清めてください。イエス・キリストの血によって、清めてください。

 主よ、あなたは先日幻によって、このシカゴの会衆の一部に、キリストを待つ花嫁がいると教えてくださいました。主よ、どうすれば彼らの心をあなたに向けることができるでしょうか。私はただどこでも蒔けるところに種を蒔いているだけです。もし今夜ここに、まだあなたの御国が地上に現されるのを見た経験がない人がいるのならば、もしまだ御言葉によって生きていない人がいるのなら、主よ、どうか今夜彼らにそれを与えてください。どうか、主よ。イエス・キリストの御名によって祈ります。

 さて、皆さんは私がどんな人間かご存知だと思います。ご存知なければ是非知っていただきたい。私は狂信者ではありません。神様が狂信的な人を用いられるとも思いません。長い間色々なことを見てきたから言うのですが。私は皆さんの兄弟です。そして私はキリストの再臨が近いことを心から信じています。これは神様から伝えられたことではなく、私が思って言うだけですが、今ここにいる世代は携挙を経験するのではないかと思います。それほど、終わりの日は近いのです。すべてが神の計画のうちに進んでいますから。

 ソドムの町が焼かれるまえに、何が起きたか覚えていますか。神が肉体をもって地上に現れたのです。そのとき神は人間の体を持っていました。それで牛乳やコーンブレッドや子牛の肉を食べることが出来たのです。アブラハムはその方を「全能の神」と呼びました。人間の体なのに全能なのかって。そうです。神は後の日に起こることを身をもって示されたのです。イエスのことですね。

 そのとき神のなされたことを見てみましょう。まずはじめに、神は約束について話されました。これは神学的にも興味深いところです。神様はおっしゃいました。「わたしはあなたに約束をしたが、いまそれを確かなものとするために来た。」アブラハムとサラは十五年間も、約束の息子が生まれるのを待っていました。ソドムに火が下りてくるまえに、神はアブラハムを訪ねられたのです。神は人間の肉体をとり、後に来られるイエスについて暗示されたのです。

 さて、教会はどんどん悪くなる一方ですね。これがラオデキアの時代であることが、一目でわかるではありませんか。

 いま聖霊がここにおられます。病気の人のために祈るつもりでしたが、いま人々を祭壇に招きたいと思います。いままで神に告白したことのあるひとも、ない人も。あなたの心の中の祭壇で神に告白しなさい。「主よ、わたしを清めてください。炭火を持った天使を送って、わたしのなかのすべての不信仰を取り去ってください。イザヤのように、今夜わたしもあなたの臨在に触れることができますように。」さあ、真剣になって、神と向かい合いなさい。

 神様はこの時代に大いなるものを約束してくださいました。大いなる神学理論を約束されたのではない。神が約束されたのは…。

 いいですか、ヘブライ人たちは二千年も神学を研究してきました。しかし神はその前にもう彼らに徴を送られているのです。ロトやその仲間も、神からの徴をいただきました。同じ徴を見たのです。イエスが地上におられたとき、イエスはヘブライ人たちに徴をお見せになりました。そしてサマリヤ人にも。しかし異邦人にはなにもなさいませんでした。

 いまは異邦人の時の終わりです。イエスの日がユダヤ人たちの時の終わりだったように。異邦人の教会はいま呼ばれているのです。神はその御計画を変えることができません。神は果てしなく、完全で、あまねくおられ、全能で、全知でおられるからです。神はいつ何時でも変わることがないのです。

 もしイエス様がきょうここに、この演壇に立っておられたら、イエス様がなさることは一つしかありません。二千年前にもされていたことです。それは人々に彼が神の息子であることを知らせることです。

 いま、ここにイエス様はおられます。神がそう約束されたのですから。「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である。」枝自身には命はなく、葡萄の木が命を送っています。しかし枝も栄養をたくさん得れば、木と同じ命を得ることができます。葡萄の木は、枝に命を与えているのです。

 さて少し静粛に。神様のお助けによって今日私が話したのはこういう話でしたね。イザヤは、いつも神の御心を行っていた人が自分を神に置き換えようとしたせいで、失敗するのを目の当たりにします。このイザヤは私達、ふつうの信者にも置き換えられますね。イザヤは神の臨在を近くに感じて叫びます。「災いだ!わたしは滅ぼされる。」神様はすべての時代それぞれに約束をお与えになっています。私達の時代にも、約束は与えられています。神の再臨のための準備は着々と進んでいるのです。

 さあ、ここにイエス様がおられるのを信じますか。《会衆がアーメンという。》 どうか、主よ、お助けください。

 このなかに病気の人はどれだけいますか。手を挙げてください。「偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情してくださいます。」(ヘブライ4:15)さあ、この御言葉のうちに確かな信仰を持ちましょう。

 あとに続けて祈ってください。「神様、あなたに触れさせてください。そしてあなたの僕を通して、イエス様がなされたように、わたしに語りかけてください。ブランハム兄弟もわたしも同じ神の養子ですが、終わりの日にはこのようなことをなさるとあなたは約束なされました。主よ、どうかあなたの御業を見せてください。」

 私はすべてを尽くし、ここシカゴであなたの福音を伝えました。どこにいっても、主よ、あなたがわたしと共にいて助けてくださいますように。

 あそこの大柄な男の人、いま椅子から立った人。私から見てちょうど正面にいる人。あ、いま手を挙げていますね。いやそのひとつ後ろだ、白いシャツの人ですよ。あなたは自分のためではなくて、誰か他の人のために祈っていましたね。牧師の人だ。私がその人のどこが悪いのか、言うことができると信じますか。彼は心臓に問題がありますね。そうでしょう、手を振ってください。彼が癒されることを信じなさい。

 ただ信じるのです! 信じなくてはなりません。信じなければ、何も起きません。さあ、真剣になって。

 あそこにいる女性、二列目の端から二番目に座っている方です。彼女は結腸の病気ですね。結腸の感染症だ。端のほうに座っている、すこし白髪がかった、小柄なご婦人です。さあ、立ち上がってみんなにあなたがどこにいるのか教えてあげてください。そう、あなたです。あなたは結腸の感染症で、そして合併症もあります。その通りなら、手を挙げてください。

 彼女は誰に触れたのでしょう。私ではありません。彼女は神様に触れたのです。イエス・キリストは、昨日も今日も変わりないお方ですから。

 後ろのあそこのほうにご婦人がいますね。頭が疼いて、神経質になってしまう。いろいろな症状がでる。プフェイファー夫人、心の底から信じますか。さあ、立ち上がりなさい。私はあなたを知りません。イエス・キリストがあなたの願いを叶えてくださったのです。私はいままで彼女に会ったことはありません。見知らぬ他人です。心配しないで、あなたの信仰が癒しをおこしたのです。

 みなさん、信じますか。≪会衆がアーメンと言う。≫ 神様が約束されたとおりでしょう。

 後ろのほうに座っている男性、そこの人です。神の光が見えないのですか。彼は大変悪い状態にあります。喉に腫瘍があるのですね。手術を受けたのに、医者は匙を投げてしまった。神様があなたを癒してくれると信じますか。信じますか、ストーンレイクさん。心の底から信じますか。いいでしょう、立ち上がりなさい。イエス・キリストがあなたを良くしてくださいます。
「もし信じることができるなら!」

 あそこで担架の上に寝ているご婦人、あなたはプレイヤーカードを持ってらっしゃらないでしょう。そうですよね、もう最近はそんなもの使っていませんから。あなたは麻痺にかかってしまった。神の真を受け入れますか。今夜聞いたことが真実だと信じますか。そのままでいれば、あなたは死んでしまうでしょう。しかしイエスさまは麻痺だって治してくださるのです。イエス様がそうしてくださると信じますか。あなたが信じて受け入れるなら、その担架から起きあがって家に帰りなさい。イエス・キリストの御名によって。良くなりなさい。

 ほら、彼女が立ち上がった。誰かちょっと彼女に手を貸してあげなさい。彼女は麻痺だったのですよ。誰か…。おっと、彼女は一人で出来たようだ。もうどこも悪いところはありません。イエス・キリストの御名によって。

 みなさん、心から信じますか。≪会衆は喜びの声を挙げる。≫ では立ち上がりましょう。

おお、あの麻痺のご婦人が人々のなかを歩いています!
主よ、どうか語りかけてください、油注いでください。
心から信じますか。≪会衆が喜びの声を挙げる。≫

 これまた他の麻痺だった男の人が、担架から起き上がって神を褒め称えています。
みなさん、信じますか。≪会衆が喜びの声を挙げる。≫

 もう一人の麻痺の人はどこにいったのですか。ここにある担架はすべて空になりました! みんな自分の足で立って神を賛美しています!
神の炭火 唇に触れ…

 あの麻痺だったご婦人がいま演台の上を歩いています! 主を讃えます! 主に栄光と賛美あれ!

 もうひとりの麻痺だった男の人も、こちらにやってきました。彼の足取りを御覧なさい、フィッチ兄弟。

 さあ、神を讃えましょう。両手を挙げて神に栄光を捧げましょう。≪会衆は賛美を続ける。≫


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