はるかに大きな、 大きな
「あなたはわたしに
悪事を企みましたが、
神はそれを善に
変えてくださいました。」
ヨセフはそう言った。じぶんに嫉妬し、憎しんで、挙げ句の果てに奴隷商人に売り飛ばした、みずからの血肉、血の繋がった兄弟たちに。
-あなたがわたしを憎んで、苦しめてやろうとしたことを、神さまは良い結果のために
用いてくださったのです。わたしが売り飛ばされたおかげで、多くの民の命が救われました。
簡単に言える言葉ではなかった。苦しみと葛藤であがなった、一世一代の赦しのことば、悟りの言葉だった。
*
はるかに大きな、大きな、主の御手のなかにいること。そのなかでは、すべてについて、大きな手の持ち主を信頼していいのだということ。
それを最初から、頭で分かってさえいられれば、こんなに苦しむことはなかったのに。ヨセフもそう思っただろうか。
でも、たぶんこの苦しみが、彫刻家の鑿のように、わたしを削って、キリストの形を作るのだ。
頭で分かるだけでは、満足でないのだ。心で分かるようになるために、ヨセフは何も知らされず、まるで不当な試練ばかりに襲われたのだ。
そして何十年も経って、ふいに彼から滴るように零れたのが、あのうつくしい言葉だったのだ。まるでキリストのような言葉。
多くのひとの命を救うため、みずからの命を投げだした、キリストのような言葉。
*
キリストが描いておられる、大きな、大きな絵。あまりの大きさに、地上からは把握しきることのできない、とても巨大な作品。
その登場人物であるわたしたちは、これから何が起きるかを知らない。わたしはピンクで塗られるのかしら、それとも深い青? はるかに高いところから見渡せば、すべては調和がとれている。
本の虫であるわたしは、小説を想像することもある。この人生が小説で、書いておられるのは神さま。この世界は神さまの書く小説で、すべては大団円に向かっている。
その鍵となる人物は、わたしを、そしてあなたを破滅から救ってくれたキリストで、彼もまた、ヨセフのように葛藤したのだった。
キリストは神であるから、みずからの身に迫る十字架という惨たらしい死を、はっきりと目に浮かぶように知っていた。
予告された痛みは、とつぜん訪れる痛みより恐ろしいのではなかろうか。人間だから、想像してしまう。歯医者だって、あのウィーンという音のほうがおぞましくありません?
暗闇の迫るオリーブ山で、苦しみに悶えながら祈るキリストは言った、
「みこころなら この杯を
わたしから取りのけてください。
しかしわたしの願いではなく
みこころが成されますように」
イエスのなかの、人間と神が葛藤し、神が勝利したような祈り。もし彼がこのとき、みずからを大きな手に委ねていなかったなら-
けれど彼は、じぶんの目前の苦しみから逃れることではなく、大きな絵を完成させるために、みずからを捧げることを選んだ。
その彼が描く、はるかに大きな、大きな絵のなかで、ちいさな、ちいさなわたしの身に起こることは、すべてがうつくしい絵のための材料だ。
主のよろこびがわたしのちから、なんてじぶんに囁きながら、わたしはこのささやかな日常を生きている。ときどき、目には見えない大きな絵に思いを馳せたりして。
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