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幻を書き記せ ① スティーヴン・L・シェリー (日本語訳) 




アメリカ、アラバマ州にある
New Hope Revival Ministriesの
スティーヴン・シェリー牧師が
1990年代に出版した手記です。
十年以上前に訳したものですが、
家族にだけ見せて、死蔵させていたので、
ネット上で公開してみようと思います。

シェリー牧師は、わたしのアメリカの
牧師で、預言の賜物のある、
とても霊的で、ふしぎなひとです。
その彼がみずからの奇特な人生と
神さまとの体験を語る本を、
何回かに分けて、投稿してみます。

まず一回目は、導入部から。
彼がみた奇跡と、たった七歳で、
聖霊のバプテスマを受けた話です。
どなたか探しておられる方に
見つけていただけますように。





 我が家のゆり椅子でくつろぎながら、今日の私は色々なことに思いを馳せていた。自分の証しがささやかな小冊子として印刷されることになり、心は葛藤していた。神の御心に従うために、慎重深く歩もうと努力する私たちを妨げようと、サタンが躍起になっていた。

 「あの人がこういうことを言うかもしれない……」

 そういったたぐいの心配を、私の心に吹き込もうとするのだ。しかし、主の霊が語って言われた、

 「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、はっきりと記せ」

 どこかで読んだことのある聖句だったが、どこだかまでは覚えていなかった。聖書をとって開くと、そこはちょうどハバクク書2:1-2だった。

 「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。主はわたしに答えて、言われた。幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと書き記せ」

 神様はこうおっしゃっていたのだと思う。

 「わたしは意味もなくこの計画を、ここまで運んできたのではない。これは人々のためである。人々がこれから起こることを知るためである」





 神は真実な方で、サタンはそれに耐えられない。だからサタンは、モーセの時代のヤンネとヤンブレのような人間を起こして、神が与えたもうた賜物に抵抗しようとするのだ。私はヤンネ兄弟やヤンブレ兄弟たちの面倒を見る気はない。教会のなかの矛盾に関わる気はない。私がしなくてはならないのは、神の御声に敏感でいること。神のしずかなささやきに耳を傾け、復活までの道のりを、手をとって導いていただくことだ。

 私にはペンテコステ教会の矛盾の責任は取れないし、カトリック教会の間違いを庇うことだってできない。アメリカの教団の邪悪なシステムのために、神の御前に立って弁解することもできない。しかしそんな私もいつの日か、神の御前に立つのだ。信じていただけるだろうか。もし神の御言葉をひとつでも聞き逃したら、神の掟をひとつでも守り損ねたら、神の教えのひとつにでも従い損ねたら、私は神の裁きの座の前に立つことになるのだ。

 神にグレーゾーンは無い。黒か白かがあるだけだ。正しいか、正しくないか。神は「それをせよ」とおっしゃるか、「してはならない」とおっしゃるかどちらかだ。「それを着よ」か「着てはならない」か。「それを言え」か「言ってはならない」か。多くの人が神の言葉にそって生きることができないのは、彼らがグレーゾーンの内に生きているからだ。

 「ちょっとくらい税金を誤魔化したって大丈夫だよね……。ちょっとくらい制限速度を超えたって悪くないよね……」

 神は、私たちが曖昧なグレーゾーンの生活から抜け出すのを望んでおられる。熱くなるのか、冷たくなるのか。神の言葉に従うのか、自分自身に従うのか。神の御心の通りに生きるのか、自分の心の儘に生きるのか。

 さあ、曖昧な生き方はもう止めよう。偽善者として生きるのを止めて、本当に神を人生の第一にしようではないか。それが神の御心に適う唯一の道である。

 人から持て囃されたいなどと思うべきではない。それでは裁きの日に、神の御前に顔を上げて立てなくなる。ちやほやされるより、私は神に選ばれたはぐれ者たちと共にいたい。それよりは、エリヤとともに立ち、道のまんなかで宣言したい。

 「神よ、あなたは昨日も今日も、永遠に変わらないお方。あなたはいまでも奇蹟を行される神、奇跡の道を歩まれるお方です」

 この世でもっとも貴いのは、使徒・預言者・福音宣教師・牧者・教師を通じて働らかれる、聖霊の働きだ。これらの5つの役目は神の手足であり、それを通じて示される御力ほど偉大なものはない。使徒・預言者・福音宣教師・牧者・教師を通じて、神が働かれるとき、この世にそれより力強いものがありえるだろうか。

 もう偉大な預言者は、この時代に現れない。「ラオデキアの教会の使者」はすでに来たのだから。わたしたちは、キリストの花嫁のリバイバルを待ち望む。キリストに属する神のひとびとが、その運命に目覚める日がくる。祈り、断食し、天の神を賛美するひとびとが現れる。いまこそ必死になるときではないか。家族に問題を抱えるひとはたくさんいる。なぜ泣きながらひれふして、神に祈らないのか。神の働きが見られないのは、人々が罪に妥協するからだ。

 何がなんでも、聖霊のバプテスマを受けなくてはいけない。今すぐ受けるべきだ。聖霊のバプテスマがなくては、復活にあずかることができない。




 異邦人の花嫁たちが、この世を去る日は近い。神の憐れみはふたたび、イスラエルに戻ろうとしている。花婿の到着を知らせる声はもうひびいており、キリストの花嫁は方々から集ってきている。神の子たちを待ち望み、大地はおののきうめいている。火山は叫ぶ、「神の子たちはどこだ?」 地震が大声を挙げる、「神の子たちはどこなのだ?」

 預言者ウィリアム・ブランハムは言った、

 「霊的な花嫁のうちに、リバイバルが起きるとき、キリストの花嫁が神に立ち返り、御言葉にそって生きようと心を決めるとき、見ていなさい。偉大なことが起こるでしょう。神のメッセージが、選ばれた者たちを捕えるでしょう」

 いまキリストの花嫁は、最終レースのゴール直前にいると思う。いまの時代、何かが起きている。もはや水は、死んだように淀んでいない。主の天使が降りてきて、水面をかき乱したのだ。私の内なる人が、神はメッセージをかこむ環境の過ちを正されるだろうと感じている。神はこれから、ご自身が送られた預言者の正体を明らかにされる。メッセージは嘲られ、誤解され、嘘を付かれ、捻じ曲げられ、台無しにされた。罪の生活を送る卑劣な人間が、この福音を信じると嘘を付くこともある。

 神の心はこれらのことに嘆き、もはやこれらのことに耐えられない。神はみじめで役立たずの花嫁を娶られるのではない。神はもう一度、「宵の光」を照らされるだろう。世界中の国々から、ヨシュアである聖霊が、花嫁たちを呼びだされる。神の息子達が現れるときが近づいた。神の息子達は、キリストの心を持ち、誰も彼らを止めることができない。

 キリストの花嫁のリバイバルは、ただ花嫁だけのためである。花嫁だけが信じ、癒される。花嫁だけが人生を変えられ、神の高みに、そして深みに達することができる。籾殻は落ち、花嫁だけが国々から集ってくる。花嫁は頭石であるキリストに強く引きつけられて、聖霊の磁力を帯びるだろう。この石が教会の上に落ちると、教会は神の栄光のうちに逃げ帰るだろう。

 ブランハム兄弟は言った、

 「御言葉に立ち返りなさい! 原点に、ペンテコステに立ち返りなさい! 本当の祝福に、イエス・キリストの御名に、聖霊のバプテスマに立ち返りなさい! 奇蹟や幻に立ち返りなさい! 教団から離れて、聖霊様に立ち返りなさい! 聖霊様はわたしたちの教師です……」



 少年の頃、神が私に使命を与えられた。そしてその使命のために、神は道を備えてくださった。これ以外の生き方は考えられない。いま立っているこの説教壇に、私が一番最初に説教したとき使った、思い出の聖書が置いてある。





 ずっと昔の話。懐かしい板張りの教会の隅に、調理板がついた薪ストーブがあった。ハイネックに長い袖、裾は床に届くようなドレスを着た、ひとりの姉妹がいた。髪は頭の後ろで大きなシニヨンに纏めて、いつも大人しく控えめな人だった。私は聖書を置いた説教壇に立ち、悔い改めを願うひとたちを祭壇へ招こうとしているところだった。説教が終わったとき、突然その姉妹が席から飛び上がって、踊り始めた。彼女は会堂中を、異言を語りながら踊りまわった。そしてくるくると舞ってから、薪ストーブの上に座り込んだ。

 時は冬で、薪ストーブは一晩中燃えていた。煙突は真っ赤で、炎が外からも見えるかのようだった。彼女は調理板の真上に座って、異言で語り続けた。それを見て、婦人たちは悲鳴をあげた。疑り深い私は、彼女が再び飛び上がったときに、走っていってそのスカートの端が燃えていないかを確かめたが、焼け焦げのひとつも見つからなかった。彼女はまたくるくる舞うと、ストーブの煙突を掴み、泣きながらそれに小さな頬を寄せた。人々は教会堂の四方から、祭壇に走りよった。これは神からの奇蹟の徴だと、誰もが理解したのだ。

 けれどもこれを読んでいる兄弟たちよ。この奇蹟も、この次に起きた事に比べればずっと色褪せる。彼女は薪ストーブの小さな掛け金に手を伸ばすと、扉を開け放ったのだ。両手をストーブの中に突っ込むと、たじろぎもせず、熱く燃えている木炭を山盛りひき出した。それから彼女はまた泣き叫び、異言を語りながら、教会中を踊りまわった。

 (これでも聖霊などいないという人がいるのだろうか?)

 彼女は灰を落とさずに、教会中を踊りながら、演壇のほうへ向かった。女性は説教するべきではないと信じている彼女は、少したじろいだ。演壇には上がりたくなかったのだ。しかし聖霊が、彼女にその二段の段差を上らせた。演壇の上を踊りまわってから、開いていた私の聖書の上に、両手一杯の赤い木炭をのせた。人々はその間中叫び続けていた。みなさん、これが神からの奇蹟というものです……。

 彼女は演壇から降りると、私に向かって預言をした。

 「アガボが夢や幻によって導かれたように、あなたも召されている。わたしは夢や幻によってあなたを導く」



 兄弟たちよ、私は神の力が力強く望み、建物の中にいる人が、みな主にひれ伏すような日が来るのを待ち望む。神はこの教会を献堂したときに、預言をくださった。 

 「私の臨在がソロモンの神殿を満たしたように、いつの日かこの建物を私の臨在で一杯に満たす。その時、老若男女みな私の前にひれ伏すだろう」 

 聖書は、祭司達は臨在の雲があまりにも厚いので、勤めを果たすことができなかったと書いている。シェカイナ・グローリーの雲が幕屋を満たし、人々はその臨在にひれ伏したのだ。なんて素晴らしい神だろう! 神は約束を守られるお方である。



 私の育った家庭は、クリスチャン家庭ではなかった。嬉しいことに、今は母も主に仕えているが、子どもの頃はそうでなかった。父方の祖母は五十年もの間、女性牧師をしていた。主は幼い頃から私に目をかけてくださり、ほんの少年の頃に、公のミニストリーを始めることができた。

 この話を信じてはくれない人もいる。それはそれでいい、しかし私が聖霊のバプテズマを、七歳のときに受けたのは事実である。聖霊のバプテズマを受けた証拠とは、異言を語ることではない。人生が変えられることである。神の御言葉のひとつひとつに「アーメン」と言えることである。聖霊のバプテズマを受けたとき、私はすべての御言葉に「アーメン」を言い、いつまでも言い続けたいくらいだった。それは内なる人の仕業だったのだ。ハレルヤ!

 主は私に素晴らしいバックグラウンドを与えてくださった。祖母は、癒しのメッセージを説きながら、アメリカ南部一帯を廻る伝道者だった。私は女性が説教することについて、祖母とは違った意見を持っていたけれど、子どもの頃からずっと祖母が大好きだった。他の色々な真理を知った今も、祖母の語ってくれた真理の言葉は忘れられない。私が見たさまざまな奇蹟も、価値を失うものではない。

 私は七歳のときに、聖霊のバプテスマを受けた。祖母とふたりで教会に向かっているときに、私が言ったのだ。

「おばあちゃん、ぼく、聖霊がほしいな」

 祖母は、孫が聖霊を受けるために充分成長しているかを、少し考えてから言った。

 「スティーブン、神様はお前に、聖霊を受けて欲しいと思っておいでだよ」
 「神様が、ぼくに聖霊をうけてほしいと思っているなんて、思わないな」

 それを聞いた祖母は驚いてハンドルを急に切ってしまい、もう少しで事故を起こすところだった。

 「まあ、神様はそう思ってらっしゃるよ!」

 それから聖書を暗誦しはじめた。

 「スティーブン、新しい自転車よりも、聖霊様が欲しいと思うかい?」

 それは難しい質問だった! だいたい聖霊がどんなものなのか、すっきりわかっていたわけではないのだから。新しい自転車も欲しかったけれど、聖霊も欲しかった。祖母はまた尋ねた。

 「仔馬よりも、聖霊が欲しいと思うかい?」

 私は仔馬が欲しかったのだ。しかし言った、

 「うん、おばあちゃん。仔馬よりも聖霊が欲しいよ!」

 祖母は言った、「これは今晩にでも、聖霊を受けそうだね」

 その晩集会で、わたしは励んで、歌ったり、手をたたいたり、アーメンを言ったりしたが、なぜだか淋しい気分に襲われた。まわりの人々は賑やかに賛美しているのに、訳も無く淋しくなったのだ。そっと席を下りると、椅子の前にひざまずいて祈った。

 「主よ、ぼくはまだ小さくって、聖霊ってどんなものなのかわからないし、もしかしたらもっと大きくならなきゃ、もらえないかもしれないけど、もしぼくが充分大きいとおもってくださるなら、どうかぼくに聖霊をください」

 その次の瞬間に起こったことを、どうやったら説明できるだろう。私は自分の体を、上から眺めていた。神がこの霊を揚げられたので、私は建物の上から自分の体を眺めて祈っていたのだ。なんて体験だろう! まるで飛んでいるような気分だったが、体は下にあった。それから自分の体に降りていって、こう祈った、
  
 「主よ、聖霊をください」

 誤解されるのを恐れずに言おう、それから私はいままで聞いたことも無いような言語を自分が喋っているのを聞いたのだ。私は思った、

 「おお、主よ! ぼく、この言葉を貰っていいんですか?」

 それからまた霊は上に揚がり、自分の体を上から眺めていた。下のほうで、私の体が頭を地に打ちながら、聖霊をくださいと祈っていた。それを上から、鳥のようになって見ていたのだ。それは世の中の心配事からすべて解放された、なんともいい気持ちだった。

 (この一週間の中で何回か、そんな状態になったことがある。神にあまりにも高く揚げられて、もうなんの心配も無い、酔っぱらったような気分だ)

 私はただふわふわ浮きながら、祈っていた。三度肉体に戻って、「おお、神様どうか…」と祈り、三度上に揚がって、鳥のように自分を見下ろした。

 一時間が経ち、やっと元の自分に戻った。唇に手をやってみると、なんと唇が動いているではないか。私は一時間以上ずっと異言を喋り続けていたのだ。神はもう異言を与えてくださっていたのである。自分が異言を喋っているのを知るのは、なんて素晴らしい気分だったことだろう。

 異言を語らなくてはいけないというわけではない。ただ神様は、七歳の私に聖霊を受けたことがわかるようにと、印をくださったのだ。ブランハム兄弟も、神様はあなたが聖霊を受けたことを確信できるように計らってくださる、と言っている。神様は、私が聖霊を受けたことを理解できるように、異言を与えてくださったのだ。

 「やった! やったよ、お祖母ちゃん!やった! 聖霊をうけたよ!」

 私は叫びだしたが、肝心の祖母が見つからない。さっきまではそこで歌っていたはずなのに。後ろを振り向くと、祖母はそこで休憩していた。こちらに走りよりながら、祖母は叫んだ。

 「やったよ、うちの孫が聖霊を受けたよ!」

 聖霊に酔っぱらった私を、皆が外に運び出した。家に帰る道すがらずっと、車の後部座席で異言を語っていた。祖父が言った、

 「ミルドレッド、わしはこの子のことが心配だよ。まだ元に戻ってないじゃないか。今日はここに寝かそうと思うよ」

(その部屋には二段ベッドがあった。)

 「わしがここに寝て、この子をもうひとつに寝かせればいい」

 夜のあいだずっと、私は起きだしては異言を語っていた。祖父が飛び起きては聞いた、

 「おい、どうした、大丈夫か!?」 

 そして私が英語ではない言葉を話しているのを聞くと、また横になるのだった。

 朝が来て、朝食の席で祖母が聞いた。

「ミルクとオレンジジュース、どっちを飲みたい?」

 私は何が欲しいか答えようとするのだが、口からは異言が出るばかり。

 祖父が言った、「ミルドレッド、この子はいままで見たなかで、一番大きい奴を引き当てたみたいだ。夜なかのあいだずっと続いたんだぜ」

 しかしその夜だけではない、聖霊はなんともう十七年間も、私を支配しているのだ。祖父が知ったらどう思うことだろう。ハレルヤ! まことに私はいま、ペンテコステの日以上に聖霊に燃えている。聖霊の賜物を受けただけではない、聖霊であられるイエス・キリストが、私のうちに住んでおられるのだ。

 そんな体験をすると、地獄の悪魔でさえ、あなたを神から引き離すことができなくなる。「でも私はそんな体験、しなかったわ」、そういう人もいるだろう。常に祈り、そして信じなさい。

 わたしは誰もが、何かしら聖霊による体験をするべきだと信じている。喜びだとか、そういった体験を。




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