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メラミンスポンジと神さまの白い裾

 あたらしい教会の椅子は、廃業した葬儀屋からもらってきた。重ねることのできる、合皮の座面がふかふかした椅子で、五十脚弱をたったの一万円で貰ってきたそうだ。

 わたしたちがはじめて得た会堂は、横浜の住宅街のなかの旗竿地に建つ一軒家で、二十畳のリビングが礼拝の場所になる。賃料を浮かすために、二階には赤ちゃんのいる家族に住んでもらうことになっている。

 それまでわたしたちは、日曜日のたびに貸しホールを借りて、礼拝を続けてきたのだった。それはそれで身軽でよかったけれど、子どもを遊ばせる場所がなかったり、次の利用者を気にして説教を中途半端で終わらせなくてはならなかったりと、なかなか大変だった。

 その日、設営準備のために集まったわたしたちは、ぽかぽかと光のあふれる南側に面した小部屋で、スーパーの惣菜を昼食につまみながら、これがわたしたちの教会だ、としあわせに満たされて笑いあった。神さまはなんて良いお方なんだろう、と。

 大工が出来るわたしの夫は、あちらこちらで引っ張りだこの大活躍をしていたけれど、なにもできないわたしは、葬儀場からもらってきた椅子を磨いていた。屋外で保管していたのだろうか、その椅子は物は良かったけれど、黒い汚れがこびりついていた。

 合皮の座面のこまかいシボに、汚れがはいりこんで、それがなかなか取れない。牧師が安い歯ブラシを手渡して、これで取るようにと言う。住居用洗剤のスプレーをかけ、歯ブラシで思い切り擦ると、汚れは取れないこともなかった。

 けれど金属部にこびりついた黒い汚れは、どうやったって取れはしなかった。がむしゃらにその箇所だけを擦り続ければ、確かに少しは取れた。けれど椅子は五十脚あるのだ。わたしたちは、諦めることにした。

 そうして何時間も、あたらしい教会の玄関先で、「スクラブクラブ」のわたしたちは椅子を擦った。ホームセンターに買い出しに行くひとたちには、歯ブラシよりも大きなブラシを買ってきて、そうね、トイレブラシでいいわ、と頼んで。

 革命はトイレブラシとともにやってきた。買い出し組の持ち帰ってきたビニール袋のなかを漁りながら、わたしはほんとうにそのままのトイレブラシに笑ってしまった。こんなもので椅子を擦りたいと言ったなんて、ちょっとどうにかしてる。

 それと一緒にメラミンスポンジも買ってきてもらっていた。いわゆる「激落ちくん」というやつである。それを持って玄関先で椅子を擦っている仲間のところへ行く。メラミンスポンジを水で浸して、椅子を擦ってみると......!

 「なにこれ、すごい落ちる!」
 「わあ、こんなに簡単にキレイになっちゃうよ!?」
 
  いままで一生懸命ちいさな歯ブラシで擦っていた汚れが、メラミンスポンジでみるみるとキレイになっていく。わたしたちは、それから半時間くらいずっとメラミンスポンジに感動し、メラミンスポンジを褒め讃え続けていた。何時間もかけて掃除し終えた椅子たちを、ふたたび擦り直しながら。

 あまりに長く椅子を擦っていたので、もう手に力は入らず、頭もうまく回らなかった。「ミェラミンスポンジ?」と、革命的商品に興味津々なナイジェリア人のKさんに、興奮しながらこう言ったことは覚えている。

 「わたしたちが今まで歯ブラシで磨いていたのはみんなdung糞土で、このメラミンスポンジはキリストの義みたいなかんじなの!」

 この支離滅裂な感想は、フィリピの手紙3章8-9節を読んでいただかないと、伝わらないだろう。つまり、正しくあろうとじぶんでいくら奮闘しても、そんなものはキリストの被せてくださる正義に比べれば、dung糞土に過ぎない、ということだ。dung糞土を現代語に言い換えるなら、さしずめpoopうんちといったところか。

 意味がわからないけれど、その考えは最近ずっとわたしの周りを漂っていたのだ。わたしは塵芥、わたしの正しさなんて糞土にすぎない。わたしが正しくあれるとしたら、それはもう思いきってじぶんを誇ろうという努力をすべて捨て、キリストの正しさを衣のように纏うことによってのみである、と。

 ずっと昔にしたこと、言ってしまったこと、出来なかったこと、恥ずかしかったことを思い返しては、じぶんを心のなかでずたずたに切り刻む癖があったわたしに、それは一筋の光のように、目の前に差し出された救いの手のように感じられた。

 たしかにわたしは、言ってはいけないことを言い、ひとを傷付け、恥ずかしい行動をしたことがあり、そしてこれからだってそういうこともあるだろう。だけれど、それでじぶんを切り刻むのは、わたしがじぶんの力で完璧になれる、という愚かしい自負のせいではなかろうか。

 それはすっぱり諦めろ、と神さまは仰っている。歯ブラシで擦り続けたって、汚れは取れないよ、と。わたしのスポンジを使ってごらん、わたしのやり方じゃないと、なにも上手くはいかないよ。

 わたしはどう頑張ったって、完璧な人間にはなれない。なろうとしたって、その努力が糞土なのだと聖書が言っている。だからわたしは降参を選ぶ。降参して、神さまが与えてくださった正義を、ただ信じることによってのみ得られる正しさを、この身に纏うのだ。

 わたしはそっと、この身をキリストの足もとに投げだす。どうぞ、わたしをお好きにしてください。じぶんの力で足掻くことは、もう諦めました。ただあなたの思いを、あなたのやり方を、わたしのこころに囁いてください。

 するとキリストは、その衣の裾をふわりとわたしに被せてくださるのだ。白い亜麻布の裾を。罪を犯したことさえない、ひかり輝くようなその正義を。わたしに正しさがあるとすれば、わたしに誇るものがあるとすれば、それはすべてキリストがわたしに被せてくださったものなのです。

 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。
 
 キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている。
 
 それは、わたしがキリストを得るためであり、 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。

ピリピ人への手紙 3:8‭-‬9 口語訳
https://bible.com/bible/1820/php.3.8-9.口語訳


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