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家で静かにミャンマー料理をつくる、これが今の私の祈り(松村圭一郎『うしろめたさの人類学』)

1年前までミャンマーにいた知り合いから、チェッウーヒン(卵をスパイスで煮込んだ料理。チェッウーは鶏卵、ヒンはミャンマー語テキストではだいたいカレーと訳されている)の作り方を教わったので、作った。

みじん切りの玉ねぎを炒めたら、ターメリックパウダー、パプリカパウダー、チリパウダーを加えてさらに炒め、ナンプラーと塩で味をつけ、好みで唐辛子も入れたら水を入れ、ゆで卵も入れて煮込んで煮込んで……


できあがり。

教えてもらったのは卵を8個使うレシピだったけれど、二人暮らしではそんなに卵ばかり食べられないので、4個に減らして鶏肉を追加した。チェッウーとチェッターのヒン。写真はちょっとシャバシャバ目になっているけれど、これは私がうっかりたくさん唐辛子を入れてしまって辛くなりすぎそうだったので、早めに火を止めたせい。この日は、せっかくなのでミャンマー人の同僚からもらったお茶の葉の漬物ともやしの和え物とジャスミンライスを炊いてミャンマー風の夕食にした。


ミャンマーでクーデターが起こってから、もう5ヶ月。まだミャンマーでは大変な状況が続いているとは知りつつ、ニュースで見る頻度も減っている。

そんな状況で、先日用事があって有楽町に行ったらJRの駅前で、声を張り上げてミャンマーへの募金を呼びかけている人たちを見た。

この人たちはミャンマーで本当に困っている人たちに送金する手段を持っているのだろうか(今は銀行なども軍が抑えているため、送金の段階でかなり高いハードルがあると聞く)。このお金は軍に渡らずにちゃんと傷ついた人を助けてくれるのだろうか。普段募金をするとき、私はそうやって考えて納得した上で硬貨を箱に入れることが多い。

でも、この日の私はいつもと違った。大きな声でミャンマーの人たちへの助けを求めるのを聞いて、衝動的に近づき、財布からお札を抜いて箱に入れた。邪魔になるからすぐに離れはしたけれど、少し離れたところで、しばらく動けなかった。私はヤンゴンに二度、マンダレーに一度行ったことがあるだけだけれど、あの穏やかな国が、夕日の綺麗だったあの場所が、悲しみの現場になっているなんて。何とかして、今祖国を思って苦しい思いをしている人たちに、あなたたちと一緒に悲しい気持ちでいる日本人がここにいると伝えたい。でも私には今日たまたま出会った人たちが抱える募金箱に、わずかなお金を入れるしかできない。そこが街中でなかったら、大声で泣いてしまいたかった。


最近読んだ『うしろめたさの人類学』という本で、「商品」と「贈り物」を区別しているものはなんなのか、ということが書かれていた。

「構築人類学」の視点をもって、経済とは、社会とは、国家とは、市場とは、その構造や境界がどのようになっているのか紐解いていくのがとても興味深く、当時大学生だった著者がエチオピアに滞在したときの日記が章ごとに紹介される構成も、実際に日本とエチオピアの文化の間を行き来するようで楽しい。

とても面白い本なので詳しくは読んでみてほしいのだけれど、とても簡単にいうと、「商品」はシステマチックなもの(経済)、「贈り物」は感情を伴うもの(非経済)、と言える。プレゼントを買ったら渡す前に値札を外し、ラッピングをするのは、商品として流通しているそのモノの商品っぽさを消し、より感情的な記号を追加するためだ。

このようなモノ以外も、日本はとても綿密にシステム化された国だ。店に入れば店員の丁寧なおもてなしを受けられるけれど、それは店員個人が私を歓迎する気持ちに突き動かされているというわけではなく、マニュアル化された商品に付随するサービスにすぎない。良いとか悪いとかではなく、それが今の日本の文化だし、変なエネルギーを使わなくていいから楽だ。

本の中に、海外で物乞いに出会ったときのことについて書かれている。




 ぼくらは、こういうときにお金を渡すのに慣れていない。ガムやパンをあげることはできても、お金を与えることには抵抗を感じてしまう。たとえガムの方が高価でも、わざわざガムを買って渡すことを選ぶ。
 それは、これまで書いてきたように、ぼくらが「経済/非経済」というきまりに忠実だからでもある。
 このきまりには、ふたつの意味がある。
 ひとつは、お金のやりとりが不道徳なものに感じられること。特別の演出が施されていない「お金」は「経済」の領域にあって、人情味のある思いや感情が差し引かれてしまう。だから、人になにかを渡すとしたら、それはお金ではなく「贈り物」でなければならない。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』


私がいつも募金活動を見かけたら、それがどのような用途に使われるのか、私はそれに賛同するのか、いくら入れるのが妥当なのか、考えてから募金をしていたのは、無意識にそれが「商品」だと認識していたからなのかもしれない。その商品にはどんな機能があって、どんな価値があるのか。私はそれを考えて、商品としての募金をしていたのだ。

ミャンマーへの募金箱に私が衝動的にお金を入れたのは、いつもミャンマー人の同僚たちと仕事をして、ときには恋愛の打ち明け話をするような親密な仲だからかもしれないし、以前訪れたミャンマーが日本と比べたら「商品」と「贈り物」の差、つまりは理性と感情の差が小さいように感じられたからかもしれない。

感情にまかせて募金をしたから、ミャンマーにまた平和が戻ってくるというわけではない。すぐにそんな風にできる力なんてない。悲しいけれど。

今私にできることは、家でひとりスパイスの香りを嗅ぎながら、ミャンマー料理をつくること。ミャンマーのみなさん。私は今ここであなたがたの国を思っています。夕陽の美しい、祈りに溢れた国に近々またいけることを願っています。

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