わたしが尊敬する人 - 厳しすぎる叔母
今まで出会った人のなかで、一番「厳しかった人」は誰か
「厳しいの解釈は人それぞれ」という前提のもと、わたしの No.1 を挙げるなら母の妹、つまり「叔母」だ。
先日、母のことを書いた記事の中で「母とわたしが叔母に怒られた」という話に少しだけ触れた。
祖父の通夜で、母とわたしが盛大に酒盛りをしていたことに叔母がキレた。そんな話。
「爺ちゃんもきっとよろこんでるし、固いこと言うなよ」と言いたくなるが、叔母にそんなことは絶対に言えない。
叔母は「自分の正義を貫く」ことに長けていた。
今日は、叔母との思い出を振り返りながら、叔母からの教えを紹介させていただきたい。
こんな書き出しになってしまったが、叔母はわたしが尊敬する人の一人であり、返せなかった恩が山ほどある。
この記事を読んでくれる方にとっても、示唆に値する何かがあると確信している。少し長くなるけれど、読んでもらえたら嬉しい。
✏️___________
三姉妹同盟
叔母は三姉妹の三女として生まれ育った。
幼少期は祖母が入退院を繰り返す生活だったため、2人の姉たちが母親代わりとなって末っ子の叔母を育てたらしい。
そんな家庭環境だったためか三姉妹の結束は強く、大人になってからも交流は深く続いた。
盆正月は、三姉妹の実家がある帯広に集まった。
祖父母、長女一家(5名)、次女一家(5名)、三女の最大13名が集まる盆正月は、最高に楽しかった。
あれ?もしかして北海道の盆正月、最高か?
🌽___________
末っ子同盟
わたしは母方の親戚のことをまとめて全員大好きなのだが、叔母はその中でも特に慕っていた。
叔母は、子どもがそこまで好きではなかった。騒がしい場所を好まず、思慮深い叔母にとって「子ども」はその対極だったんだと思う。
逆に、わたしは父方の親戚のことがあまり好きではなかった。
「末っ子はわがままが許されるもんね〜」
「まだそんなに甘えてるの?さすが末っ子だね〜」
そうことを言われるのが嫌だった。文字にするとどうでもいい気もするが、こういう発言をするときの「末っ子だもんね感」が心底イヤだった。
幼稚園生くらいのわたしが言語化できたわけはないが、振り返って整理すれば、当時の嫌悪感の正体はこれだった。
それは「お年玉」で顕著に表れた。父方の親戚のほとんどは「姉5,000、兄3,000、私1,000」のように兄弟間で差をつけた。一方、母方の親戚はみな一律だった。
その影響で、わたしもお年玉は一律で渡している。「意図のない年齢の考慮」をする意味がわからない。年上が偉いわけでもなかろう。
話を戻すと、特に叔母はわたしの心理を汲み取ってくれた。末っ子同士、幼い頃からいろいろな想いを共有したと記憶している。
👩👩👦___________
カレー事件
ひとつ、エピソードを。
わたしが小学3,4年だった頃
叔母がバイクに乗って一人、釧路の我が家にやってきた。
このときの来訪には
「叔母が自慢のカレーを作る」
というイベントが盛り込まれていて、わたしたちは心待ちにしていた。
しかし、さすが叔母。
子どもが好むようなカレーは作らなかった。
弊姉「辛い。無理」
弊兄「・・・」
ワイ「 … おいしい!! 」
そう思いながら、末っ子同盟として頑張らざるをえないわたしはカレーをおかわり。誰よりも小食だったはずなのに…
「さすがに君たちには早すぎたか」
叔母は気にも留めず、換気扇の下でタバコを吸っていた。
あのときのカレーをもう一度食べてみたいと、今になって思う。
それはもう、叶わなくなってしまったが。
🍛____________
建築同盟
幼少期の話を中心に書いてきたが、叔母との関わりは大学〜社会人になるにつれ深くなっていった。
大学生になったわたしは、叔母がお世話になっている会社でアルバイトをした。もちろん、叔母の紹介で。
就職してからは、わたしが勤めていた飲食店に来ては、手厳しい意見をくれた。
「この新商品はちゃんとディスカッションして決めたの?これじゃお客さん満足できないよ?」
転職する際も、相談に乗ってくれた。
「わたしはITはよくわからないけれど、なんでその会社なの?もっと調べる方法はないの?」
その後、わたしは建築関係の職に就き、建築士の叔母と同じ業界で仕事をすることになった。
叔母とはよく、仕事のことでLINEをした。ごはんも定期的に食べに行った。
「たっちゃんがいると、ごはんが進むわ〜」
叔母が少しだけ痩せていることが、気になった。
🤔__________
事業主同盟
「ステージ2の肺がんだって」
母から電話があった。
50歳を過ぎたばかりの叔母に訪れた試練。
「進行が早ければ3年もたないって」
膵臓がんで51歳の若さで亡くなった長姉の、良くない記憶が蘇る。
しかし、久々にあった叔母はあっけらかんとしていた。
「なったもんは仕方ない」
抗がん剤治療、オーガニックフード、酵素を取り入れた食生活。
あらゆる対抗策を講じた叔母は、余命と言われた闘病生活3年目に会社を設立。
「悔いのないように生きる」
芯の強い、叔母らしい決断だった。
そこからの叔母は癌をものともせず、仕事にプライベートに精を出していた。
😂__________
突然の別れ
肺がんの発覚から8年が経ったある日
「Nさんが亡くなったって」
母から連絡がきた。
「Nさん」とは叔母の相棒であり、会社の共同創設者であり、叔母を支えてくれていた人だった。
そんな「元気だったNさん」が脳梗塞で突然死。
その直後に会った叔母は、さすがに疲弊しているように見えた。
「まぁ、なんとかやってくさ」
2018年、2月。
それが叔母との、最後の会話になった。
✏️__________
最期
相棒が亡くなってから2ヶ月の間に、叔母の体は一気に衰弱した。
入院生活になった叔母は、早々に会話ができなくなった。
そして、親族が交代で看病をしていた4月下旬。
叔母の容態が安定したのを確認し、母とわたしが一時帰宅をした直後に、容態が急変。
歩いて10分かからない道を、車でぶっ飛ばした。
ギリギリだった。
「なんで、わたしが帰ってるときに逝こうとするのさ」
「まぁ、頑張ったわね」
最後の瞬間さえ愚痴を言う姉とその息子、18年前に先立った長姉の娘たちに囲まれ、叔母はそのまま亡くなった。
59歳だった。
✏️__________
叔母の言葉
あれから5年。
わたしはその間に結婚したり、いろいろあった。
叔母に結婚の報告ができなかったのは悔やまれるが、そこまで頑張れなかった叔母が悪い。
いや、こんな文章を叔母に見られたら
「別にわたしは結婚姿を見せろなんて言ってない」
と言われてしまいそうだが。
とにかく、叔母からもらったたくさんの言葉は、今もわたしの中に強く残っている。
✏️__________
だいぶ長くなっている本記事ではあるが、最後に一つだけ紹介して終わりたい。
「弊母、焼鳥屋号泣事件」の翌週に叔母からもらった一枚の手紙。
ただ、躊躇している。
生前の叔母に「載せていいか」と聞けば、間違いなくNGを喰らうだろう。叔母は表に出たり、自分のことを話題にされるのを好む人ではない。
ここまで書いたこともすべて「載せないで」と言うだろう。
叔母が生きていれば説明をさせてもらいたいところだが、それはできない。
考えた結果、わたしは紹介することに決めた。
その理由については、叔母の言葉を紹介したのちに触れたい。
A4の便箋に、叔母の大きくハッキリとした文字が並んでいる。
わたしは今も、たまにこの手紙を見て、勇気をもらっている。
そうだよね。曲るか、曲らないか。
結果を引き受けるのは自分だ。
この投稿を見た親戚は、どう思うだろう。
叔母のことを世に出すなと、思うだろうか。
そしてこの世にいない叔母は、どう思うだろうか。
自分中心になってはいけない。だけど、わたしには伝えたいことがある。
2日間、考えた。
叔母に会ったら、ちゃんと納得してもらえる説明が出来るのか。
出来ると思った。
叔母は、わたしがこの記事を書いた理由や意義を理解してくれる。
叔母の信念に沿えば、喜びはせずとも制限はしないんじゃないか。
わたしは叔母の言葉に、大きな力があると信じている。
無理を承知で、公開させてもらいたい。ごめん。
✏️___________
便箋の最後に、もう一文、書かれていた。
自分の行動は自分で決める。その責任は、必ず全部とる。
曲った先がどうなっているか、わからないけれど
俺はこの道を進むよ。
進んだ先の自分は、今よりもっと幸せだと、信じてるから。
たまに、便箋を開くこともあると思うけど
絶対、幸せに生きるよ。
だから、これからも変わらず
厳しい目で、見ていてください。
あなたが想像もしていなかったほどに
幸せになるからさ😊
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?