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忘れずにいること。繋ぐこと。

嫁の祖母が亡くなった。93歳だった。


「90歳を過ぎた葬儀は、ゆうほどしんみりしないんじゃね?」

葬儀の前日、友人宅にお邪魔していたわたしは、そのようなことを言われた。彼の祖父は、数年前に92歳で亡くなっていた。


実際どうだったかと言うと、しんみりした部分はありつつも、久々に集合した親類はみな、表向き和やかな雰囲気だった。

わたしも結婚して以来、顔を出せずにいた嫁の叔父・叔母に会い、近況を報告したり、祖母の最後がどんな様子だったかを聞いたりして、互いの労をねぎらった。


人の死はだいたいが急だし、そこから数日はバタバタと過ごすことになる。孫の夫という立場のわたしが何かをしたわけではないけれど、非日常な数日が終わり、そこそこの疲労感を抱えて東京に戻ってきた。


そして今、久々にいつものスタバでパソコンを開いた。少しだけ、この数日間の出来事と抱いた感情を思い返してみたい。


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嫁の両親はすでに亡くなっている。つまり、亡くなった祖母の息子は、母親よりも先に亡くなっていた。


「親不孝な父親だ」とよく嫁が言っていた。

義父が亡くなったのは嫁が10歳に満たないときで、彼女が「人の死」というものを理解するより前の出来事だった。したがって悲しみの類の感情は生まれなかったらしい。

それが大人になると「親不孝」という烙印を押される始末。4人の娘たちの間で亡き父の話になるたび、義父は一方的な集中砲火を浴びることになる。

わたしだけでも義父の肩を持つよう心がけているのだが「タバコなんて吸うからだ」と言われるたびに反論の材料を失う。したがって彼女たちの同情を得ることは早々に諦め、同じ喫煙者として義父の心情を思いやることで十分だろうと思い直す。



亡くなった人は、わたしたちのことを見ることができるのだろうか。


お経を聞きながら、そんなことを考えていた。

死後の世界については昔からいろいろ考えていたけれど、大人になってからは一貫して存在することを信じることにしている。

亡くなった人たちにはもちろん会えるし、先立った人に文句を言う時間も必要だ。彼らと現世で共有できなかったその後について報告もしたいし、彼らの意見や感想も聞きたい。

亡くなった人たちは、そんなふうに新しくやってくる人たちを迎えたり、現世をたまに覗きに来ては勝手にやんややんや言っているんだと、そう思っている。というかその方が楽しそうなので、ぜひそうであってほしいと思っている。


ということで、庇うわたしを見て義父は喜んでいるはずだし、残念ながら祖母からあれこれ文句を言われているだろう。仕方がない。さすがに死ぬのが早過ぎた。

そんなことを考えているうちに「ボォーん、ボォーん」と鐘が二度鳴り、お経が終わった。


久しぶりに、会ったことのない亡き義父のことを考えた1時間弱だった。


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「リメンバーミーって知ってる?」

告別式を終えた晩に、嫁が聞いてきた。


リメンバーミーは2017年に公開されたディズニーの映画らしいのだが、わたしは見たことがない。


「あの映画ってさ、死後の世界に男の子が迷い込む話なんだけど、忘れられた人はその世界からも消えちゃうんだよね」

なるほど。それは切なそうだ。

彼女はきっと、祖母が今どんな世界にいるのか、思いを巡らせていたのだろう。そして、亡き両親のことも一緒に考えていたのかもしれない。


それは彼女にとって必要な供養の時間だと思い、わたしは何も言わないことにした。・・・俺の想像の中では、父ちゃんボコボコだけどな。



「忘れられたら、もう終わりだもんね」

たしかに。人は何も持たずに死んでいくと言うけれど、記憶にだけは残ることができる。言い換えると、人の気持ちや想いにだけは、死後も宿り続けることができる。



「人が死ぬのは、人に忘れられたとき」

ワンピース、Dr.ヒルルクの言葉。

ふけっている嫁に、この名シーンを伝えようとトークを展開したのだが、Dr.くれはと冬に咲く桜のくだりに話が逸れてしまい、何を伝えたいんだかわからない話になった。


「なげぇな、なんの話やねん」

一応、つっこむ元気はあるみたいなので、よしとしよう。



「ちゃんと、繋いでいきたいね」


人の死は、人にいろいろなことを考えるきっかけを与える。

亡き人のことを連鎖的に思うこともあれば、作りたい未来を想像することもある。


今日は、そんな日なんだろうと思った。


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東京に戻り、日常が始まった。


9時から美容室を予約していたので、復帰早々の散髪。

他愛もない話をするなかで、最近ビッグなイベントがあったか、みたいな流れになった。


「来月、10周年なんですよね」

すごい。美容室を10年続けることがどれだけ難しいことか。


「20代の10年よりも、30代の10年の方があっという間で、ちょっと怖くも感じます」

たしかに。わたしももう35歳。年々、時の流れを早く感じている。

そして、これからはもっと早いんだろうと想像する。


ひたすら仕事をして、子どもが産まれて、もっと忙しくなって、誰かが亡くなって、親戚で集まって、互いのことを報告して・・・

今わたしが思う以上に、10年後のわたしはいろいろな出来事を経験していて、それは相当あっという間なんだろう。


そんなわたしたちが、亡くなった人のことを常々考えるのは現実的に不可能だ。そして、誰もそんなことは望んでいないだろう。

彼らに会ったときに、彼らからもらった出会いや生を全うした旨を報告できるように、なんとかやっていけたらと思う。

そして亡くなった祖母のようにみんなから愛され、懐かしい記憶として誰かの心に残り続ける人生を送ることができたなら、それ以上に望むことはない。



さぁ、今日もがんばろう。



あとがき

札幌にいる祖母が亡くなったのは金曜の深夜。わたしはその翌日の土曜に、北海道に行く用事があった。

叔母は「なんでこんなタイミングで亡くなったの!」と怒っていたけれど、わたしは勝手に「おれに合わせてくれたん?」と思っている。

祖母とは結婚の報告で一度だけ会ったきりで、結婚式も挙げず、孫の夫として正直なところ後悔だらけだ。

でも、もうやり直すことはできない。わたしが死ぬまで祖母に直接謝ることもできない。

あまり気にしても仕方ないけれど、後悔の念が消えることはたぶん一生ないので、何かしらの力に変えていきたいと思う。

そして、わたしにそんなエネルギーを与えるために「おまえの都合に合わせてやるからな」とプレッシャーをかけてくれたんだと、都合よく解釈したいと思う。

ばあちゃん、ありがとう。とりあえず頑張るわ。




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