わたしの母 「ちえみ」 のこと
「いいかい?ばあちゃんじゃないよ。ちっちゃんだよ。」
姪っ子(2歳)に叩き込む母。齢は60を数えていた。
その5年後
「ちがうよ!ばあちゃんじゃないよ!ちっちだよ!!」
わたしの母のことを「おばあちゃん」と呼んだ看護師に向かって、姪っ子が叫ぶ。
そういう恥ずかしい話をケタケタと笑いながら話すのが
わたしの愛する母だ。
我ながらマザコンだと思う。母親をリスペクトしていることを、そう呼ぶのであれば。
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先ほど、父に関することを書いたので、その勢いのまま母との思い出を振り返りたい。
弊家族の全容についてはこちら
エピソードを端折らず書くと父の10倍は書けてしまうので、このnoteでは彼女の人生をなぞる形で紹介したい。
才色兼備な女
母の名は「ちえみ」という。漢字にすると「智恵美」
「知恵と美しさに恵まれますように」
だろうか。
そんな大層な名前をつけられた人間は真逆の人生を歩む気がしてならないが、わたしの母は名前負けしなかったらしい。
「ちっちゃんは賢かった」
「ちっちゃんは綺麗だった」
親類の誰に聞いても、そんな言葉が並ぶ。
わたしは度々、母のアルバムを引っ張り出し、写真に映る母をバカにするのだが、けしてブサイクなわけではない。
むしろバカにできるのは「時代感」くらいで、母は幼い頃から容姿端麗で、身につけているものはすべて品があって似合っていた。
そして、笑顔とポージングがぎこちない母を見て、遺伝の恐ろしさを感じるのだった。
貧乏だった女
母は「福岡県久留米市」で生まれ育った。
3姉妹の次女で「3つ上の姉」と「5つ下の妹」がいた。
祖父は北海道の帯広市で生まれ育ったが、全国を渡り歩き、九州で祖母と出会い結婚した。
この爺さんがなかなかの曲者なのだが、とにかくイケメンでかっこいい爺さんだった。
そんな母一家は、母が小学生のときに北海道へ移住。
もともと体の弱かった祖母は極寒の帯広の生活に苦しみ、体を壊しがちに。
祖父は印刷屋を始めるも軌道に乗らず、貧しい生活。
母は姉と共に、まだ幼い妹の面倒を見ながら、家事をしながら、仕事も手伝いながら、学校に通う。
そんな小・中学時代を過ごしたらしい。
後述するが、祖父はそこそこ自分勝手な人で、家族にたくさん迷惑をかけていた。
後に稼げるようになってからは飲み歩くようになり、数々のトラブルを巻き起こしていたとか…
それでも母は祖父のことが「憎めない」と言う。
「貧乏だった頃は本当に優しい、良い父親だったからねえ」
人はお金を持つと、変わってしまうらしい。
運がない女
若い頃の母の話を聞く限り、つくづく運がないと思う。
高校受験を控えた頃、祖父の印刷業が軌道に乗り始め、母もフル回転で手伝っていた。
それでも成績はトップクラスだったようで、先生方はみんな、市内で一番の高校に行くものだと思っていたらしい。
それを祖父が断固拒否。
「高校なんて行かなくていい!おまえは家を手伝え!!」
その話を聞きつけ、担任が家に押し掛けてきたとか。
「なんとか高校にだけは行かせてあげてください!」
そんな担任のおかげで、母は家から一番近い「芽室高校」に通うことになった。
そこから家業は安定し、少し余裕が生まれてきた母一家。
一番上の姉は「看護師になりたい」という夢を叶えるため、看護学校に進学。けして安くはなかったであろう学費を払えるくらいには、お金に余裕が出てきたようだった。
しかしその直後、看護師を目指していた姉が重い「目」の病気にかかる。
失明の恐れがあった目の治療・手術にはそこそこ大きな費用がかかったらしい。それが母の進学のタイミングと重なり、母は進学を断念。
職業訓練校で2年、印刷の技術を学んだのち実家へ戻った母は、祖父と二人で馬車馬のように働いた。母曰く、20代で「老後に必要と言われる貯金額」程度の貯金は作ったらしい。
そして29歳のとき、お見合いで知り合った父と結婚し専業主婦になった。
続)運がない女
わたしは「父方の祖父母」の記憶がない。
記憶が定着するよりも前に、二人とも亡くなっていた。
したがって完全に欠席裁判になってしまうが、母は姑からそこそこひどい仕打ちを喰らったらしい。
時代なのかもしれないが
「嫁は旦那の家のルールに従って当然」
「優先されるのは旦那でありその家族」
みたいな雰囲気だったそう。
母も母で「人に取り入る」みたいなコミュニケーションが得意な人ではないから、すべてがハマらなかったんだと思う。
特に母が問題視していたのが「子育て」だった。
自分のことはいいが、子どもたちの成長に支障が出てはまずい。姉や兄の子育てに口を出され、手を出され、思ったように育てるのが難しい状況だったらしい。
兄が生まれて少し経ったころ「子ども2人なら一人で育てられる」と思った母は「このままだとみんなダメになる」と、本気で離婚を考えていた。
しかし、いろいろな事情が重なり踏み切れない状況が続く中で、母はわたしを妊娠した。
今のわたしからすれば「なんでそんな状況で作れたんだよ!」とツッコみたくなるが、さすがにデリケート過ぎるので触れたことはない(笑)
とにかく「3番目のわたし」のせいで母は離婚を諦め、「3番目のわたし」のおかげで家族は繋がっていた。
母は腹を括り「これからは自分の思った通りに育てる」と強く決めたらしい。「姑と戦おう」と。
それからは、孫が困っているとすぐに手を貸そうとする姑に
「触らないでください!何も出来ない子になります!」
そう叫んだらしい。
そんなわたしは、いまだに出来ないことが多いけど
「自分の目標を達成させる、信念のある人間になってほしい」
との願いを込められた名のとおり、わがままで自己中心的な人間に育った。
… 甘やかした、母が悪いね(笑)
息子と戦う女
「母親を好きなこと」と「母親の言うことを聞くこと」
これはまったく別次元の話。
母の思い通りに育ったらしいわたしは、見事に母の性質や価値観をインストールしていった。
「なんで僕がやらなきゃいけないの?」
「僕には僕の考えがある」
「お母さんが先に約束を守らない限り、僕はやらない」
母曰く、小学生になる頃には大人と本気の口喧嘩ができたらしい。
エピソードを書きたいと思ったけれどボリュームが多くなってしまうので、それはまた書きたい。
続々)運がない女
幼かったわたしが大人になるまでの10余年、母は悲しいことの連続だった。
まず、母の姉が若くして亡くなった。
50歳を迎える頃に膵臓がんが見つかり、2,3年後に亡くなった。
母の姉は札幌に住んでいて、わたしたちが住む音別町からは電車で4時間半。当時、中学生だった姉と兄、小学生だったわたし。そして、非協力的で何も出来ない父。
母は何回、実姉に会いに行けたんだろうか。
それから10年後、祖父母が立て続けに他界。
お通夜では母とわたしで飲みまくり、マジメでお堅い母の妹に「いい加減にしなさい」と二人まとめて怒られた。
「あんなに怒らなくていいのに。わたしの葬式は花なんていらないから、飲んで食べて騒いでね」
それが母とわたしの約束だ。
お酒とタバコが大好きな母。そうでもしなかったら、耐えられないことが多い人生だったんだと、優しい息子らしく分析しておくことにする。
続々々)運がない女
母の悲劇はまだ続く。
今度は母の妹に癌が見つかり、余命は最短で2,3年。
まだ51歳。亡くなった長姉とほぼ同じ年齢だった。
ただ、叔母はそこから強かった。辛い治療に耐え、食事はすべてオーガニックにシフト。酵素を学び取り入れ、徹底的に抗った。
仕事では治療をしながら50代で独立。長年の相棒と二人、札幌で会社を立ち上げた。「残りの人生、悔いのないように生きる」そう決めたらしい。
そして癌発覚から8年が経った頃
叔母の相棒が突然死。脳梗塞だった。
相棒は叔母の仕事のパートナーであり、サポート役であり、人生の支えになっていたらしかった。
「わたしが先に逝くはずだったのにね…」
そう話していた叔母。
そこから嘘のように癌が進行。
相棒の亡くなった3ヶ月後に、叔母は59歳で亡くなった。
余命3年だった叔母が、8年も生きた。
それは凄いことだったけど、支えがなくなると人はこうも生きられないのか。
母と二人、叔母が眠る棺の前で首を傾げた。
18年前の姉のときとは違い、母は札幌で働いていたわたしの家を拠点に、最後まで献身的に支え看取りきった。
祖母の代わりとなってごはんを食べさせ、大人になってからは友のように連れ添った妹の死。
寝ずの番をしながら、母とわたしは酒を飲んだ。騒ぐのが嫌いな叔母の意思を尊重し、ビール2缶ずつにしておいた。
「そんなにマジメだから早死にするのさ。バカだね。」
妹の亡骸に毒づく母を見て、この人はこれから何を支えに生きていくのだろう…
そう思った。
幸運な女
こう書いてみると、母の人生は「苦」の連続だったように見える。
実際、苦しかったのかもしれない。
ただ、へこたれないのがわたしの母だ。
常にポジティブ。
常におせっかいで過干渉。
そんな母は今月、70歳の誕生日を迎えた。
タバコも酒も現役。やめたら?と思うが、本人が好きなのだから仕方がない。
出来る限り長生きして、苦労した分の幸せを回収していってほしいと思う。
そして、母が苦しみのなか守り抜いた信念が生んだモンスター。それがわたしだ。
才能溢れる母が進めなかった道を、甘やかされながら歩んできた。
非常に感謝している。
少しずつ、どんな形かわからないけれど、恩を返していきたいと思う。
…
ま、わかんないけどさ
誰がなんと言おうと、あなたは幸せだと思うよ。
マザコンを隠しもせず、母親の半生を綴る35歳の息子なんて、そうそうおらんやろ?笑
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