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正解のない問題に取り組むために必要な、正解のある問題への独特な取り組み方

「学校では正解のある問題、正解が一つしか無い問題を解くことしか教えられないが、社会では答えのない問題に取り組まなければならないのでこれではダメだ」という主張はよく聞くが、これは本当にそんな単純な話だろうか。そもそもこの主張に「全くその通り」(=その主張が正解だ)と皆が頷くのはずいぶん矛盾した話ではないだろうか。

ここで言いたいのは、「やはり基礎知識が必要だ」という話ではない(もちろん必要ではあるのだが)。また、「学校でも正解のない問題に取り組んでいる」ということを主張したいのでもない。そんなことは当たり前である。他方これは、「この勉強は将来〇〇の役に立つ」とか「今流行っている〇〇を修得するためには学校で〇〇を勉強しておかなければならない」とか、そういう大雑把な教訓めいた話でもない。

上記のような従来の議論に於いては、人間の知識と思考と問題解決の間の関係性が、まだまだきちんと整理されていないのではないかと思う。実は、「正解のない問題に取り組むために必要な、正解のある問題への独特な取り組み方」というものがあって、その部分が鍵なのではないかと思っている。

現状では例えば、「正解のある問題への取り組み方」が十分な汎用性をもっていなくて、文脈依存的にしか習得されておらず、他のドメインへの移転可能性が非常に低いままに留められていることなどは大きな損失だと思う。

もう少し具体的に言うと、例えば、4+5=5+4のような「入れ替えても同じ」性質、つまり交換法則を学ぶとする。これは単なる計算ドリルの回答手法にとどまらず、「世の中には、表現のされ方は異なれど、本質は同じものが存在する」という寓意をもたらす点が重要である。

この寓意によって、「同じ本質を表すのに多様な表現がありうる」「表面的には一見バラバラに見えるが、実は同じ本質の別の現れである」といったような認識枠組みを獲得しうる。これは、「正解のない問題」に取り組む時に、強力な武器となる。

もちろんこれには、あるドメインのシンプルな法則の寓意を過剰に読み込み、他のドメインに無批判に移転してしまうような、いわゆる「こじらせてしまった」ような副作用もありうるので、手放しで推奨されるべきことではない。しかし少なくとも、要検証、という条件付きの仮説としては十分使い道がある。

そういった認識枠組みの仮説をいかに豊富に提供しうるかが、「正解のある問題への取り組み方」を評価する際の重要なガイドラインになりうるのではないだろうか。


※上記の文章に関連して、ある方から以下の動画を紹介してもらった。

これは私が上で「「正解のある問題への取り組み方」が十分な汎用性をもっていなくて、文脈依存的にしか習得されておらず、他のドメインへの移転可能性が非常に低いままに留められている」と述べたことと逆方向のプロセスに関するの考え方、つまり、学校空間の中で抽象化、脱色、漂白されてしまった思考にいかにして文脈への感受性をいかにして取り戻すかがまず語られていて、その上でその限界を示し、抽象化の必要性を説いている。

これも非常に重要な考え方で、両者を合わせると、学校空間で教え学ばれる知識の「文脈不足」と「抽象化不足」、両方に思いを馳せつつ、文脈と抽象の間をできるだけ広いスパンで自由に行き来できるような思考力を身につけることが非常に重要だと思う。

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