見出し画像

「国民を必要としない国家」に生きるということ

非常に議論が難しい、微妙な問題を、未整理のまま論じる。


ここで主張したいのは、「国家が国民を必要としなくなってきている」ということである。

かつて国家は、他の国家との戦争状態、あるいは準戦争状態、潜在的戦争状態にあり、当時の戦争は軍事技術や戦略や外交はもちろんだが、「軍隊の規模と質」、つまり国民の数と兵士としての練度に大きく依存していた。それは、物理的暴力の衝突という意味での戦争が局地的なものになり、経済が社会の主たる関心事になってからも、「経済戦争」という形で継承されてきた。

つまり、長らく国家にとって国民の数と質を保つことは重大な関心事だったのである。「ナショナリズム」は、(物理的戦争のみならず経済戦争においても)国家のために多数の練度と忠誠心の高い「兵隊」を必要とするため、(今日逆に左派が政策目標として掲げている)彼か彼女らの十分な教育、生活保障、権利保証、労働機会の提供はむしろ目的のための手段として理にかなったものであった。

しかし今日、労働集約型の産業が急速に衰退し、価格競争化して主要な生産拠点が人件費の安い国に移転されるようになり、企業がグローバル化して本社の帰属する国家の国民のみに労働力を依存しなくともよくなるにつれ、状況は大きく変化した。

つまり、国家にとって国民の数と質を保つことはたいして重大な関心事ではなくなってしまったのである。今日の少子化、貧困、雇用条件の低下、教育の民営化等の一連の現象は、この「国家の関心事の変化」に起因するのではないだろうか。

それに加えて、現代の人材の国際的流動化を背景に、「嫌なら住む国を変えればいい」という考え方が台頭し、生まれ育った国に留まり続けること自体が「自己責任において能動的に選んだ選択肢」と見做されるようになりつつある。

だとすると先に述べたような「十分な教育、生活保障、権利保証、労働機会の提供」を国家に要求する交渉において、我々はどのようなカードを切ることが可能なのだろうか。これまでと同じやり方で通用するのだろうか。そもそも国家は、未だ適切な交渉相手なのだろうか。

もちろん、ゆえにやはり「戦争状態」が必要だ、そこに戻るべきだ、などと言いたいのではない。少なくとも私はそのような社会を望まない。「歴史上、戦争か革命によってしか富の再分配がなされたことはない」とする論者がいたとしても。

「国民を必要としない国家」に生きる我々は、生き延びるための目標と交渉相手を、どこに求めればよいのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?