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「知性の罠」(2022年12月)

●12月1日/1st Dec
自分の中でモノを考えるときに自然科学、社会科学、人文科学の三つの補助線が並走するが、トピックによって優先順位が入れ替わる。今三つくらいの原稿を同時に書いているが、器用に使い分けないとふいにモノが書けなくなることがある。

●12月1日/1st Dec
この現代社会は近代化を経てすっかりと脱魔術化し、迷妄な心の力を隅に追いやったと思い込んでいるが、今もって現代社会を動かす力学の中心には"呪い"がしっかりと据えられている。
 そんな社会を読み解くのに理性による分析だけで充分なはずがないのは明白なのだが、アカデミズムの世界や常識しか信じない人々の間でそんなことを話しても、誰が耳を傾けるだろうかと思うと口をつぐむしかない。
 事件や事故から芸能・スポーツ・アニメに至るまで、表の世界で出ている情報など、最低でもあと2つくらいのレイヤーを重ねなければ読み解けないことばかりだ。分析や評論の多くはもっともらしくは聞こえるが、大体は頓珍漢の可能性が否めないのではないか。

●12月5日/5th Dec
書くことさえ定まれば、数時間で12,000字くらいは一気に書けるものだな。

●12月6日/6th Dec
これまで観てきた現代美術の展覧会のレポートや、これまで各所で書いてきた作品評を、自分のWebに地味に公開していくことに。まだ全然書けていないし更新もゆっくりだけど何かのご参考に是非。

●12月6日/6th Dec
 偏差値的なパズルを解くことだけではなく、頭の良さにも色々とある。基本的には、色んなことに気づいていることが頭の良さだと思うが、気づいていることをベラベラと表現しないということも頭の良さの一つかと。
 ただ、気づけるほどの知性や頭脳があって、普段からメディアで雄弁に語るのにその話題だけは何も語らない人の場合。単に気づいていないだけの可能性もあるが、語ることで不利益を生じる側に居るか、あるいは取引したのではないかと少々勘繰ってしまう。

●12月7日/7th Dec
 Unbeknownst to me, my article “How to see war” has been translated into English and uploaded to the website. I posted this article on the website “wirelesswirenews” shortly after Russia's invasion of Ukraine.

How to see "War"
Chikahiro Hanamura

●12月8日/8th Dec
 今夜は満月。ポッドキャストで配信中の「まなざしの革命放送」の配信日ですが、もう初回から通算で29回、シーズン2になってから8回もお話ししました。今回は「家族」について少し考えてみます。

まなざしの革命放送シーズン2
Vol.029 家族との付き合い方

満月の今夜は「家族」をテーマに考えてみようと思います。家族とは最も基本となる人間関係ですが、同時に問題もたくさん生じてきます。親子の間、兄弟の間、子育ての中でも、大人になってからの親との付き合い方でも、適切な時期に適切な関係を結ばないと何かとトラブルが起こります。それぞれ事情が異なるので一般化することは難しいですが、社会における人間関係と家族とは一体何が違っていて、どのようにすればうまくいくのかについて、思うところを少し話してみます。

●12月9日/9th Dec
 今日は恒例の京都外国語大学でのスピリチュアルツーリズムの講義。質疑の中で出た「集中力がないのはどうしたらいいですか?」という質問が面白かったので、集中力とは何か?ということをかなり詳しく話をしたのが一番印象的だった。年に一度、東大哲学科卒ドゥルーズの研究者の原先生とディスカッションするのが楽しみで、一年の間の社会の趨勢についての意見交換。仮面ライダーと安倍晋三で盛り上がる。

●12月10日/10th Dec
 S地点で一仕事終えて少し休憩。心身ともに孤独を求める時間が以前よりも増えている。ここは電波が通じないので、孤独が必要な時には最適だ。だからたまに電波が届く時でも受信せず発信だけにしている。革命は終わらないままだが、風と焚火がはぜる音だけがする中で、パイプの煙をまといながら森の精霊たちと話をする。ひとときの休息を。

●12月12日/12th Dec
 ベルリンからモトヤくんが一時帰国しているので、会おうということに。舞踏をベースにしたmotimaruというコンテンポラリーダンスのユニットを主催するモトヤくんは、ベルリンを拠点に活動している。
 同世代の日本のアーティストやキュレーターの中で僕のしていることや考えていることに関心を寄せる人は少ないが、そんな中で多方面から色々と話せる数少ない友人になりつつある。それ以上にアーティストとして非常に興味深い存在だ。
 彼が関心を寄せるチベット密教と僕の考える仏陀の教えを互いの交差する補助線として持ちながら、我々にとっての意識と無意識、意識と空間との関係、社会と政治とその裏側、宇宙の構造と仕組み、理論から表現手法への転換、瞑想の階梯、なぜ舞台に立つのか、今のアートが置かれている世界的な状況、教育と次の世界の準備、インターローカリズム、まなざしの革命の話などなど、4時間ぶっ通しで語ってもまだ足りない感じだった。

ベルリンには非常にハイクオリティと思えるアーティストが集まっているので、何かする際の環境には恵まれている。だが、やはりディスカッションの相手は乏しいようで、日本とそう状況は変わらないのだなと。
 僕の周りや知る限りでは、このパンデミック以降に新しいアートの潮流が生まれて来そうな気配が全く感じられないが、アート的なものにしがみ付いている間はおそらく難しい。様式を一度壊してそこから離れて、この時代における危機感と時代を超えた本質的な議論の中から次のものが生まれて来るのだが、同世代にこういうアーティストが居ることに少し救いを感じる。感謝。

●12月14日/14th Dec
 誰もがうなづくしかない優等生的なポリコレがつまらんのは言うまでもないが、過激な反ポリコレを掲げてアンチを唱えるのも同じようにつまらない。過激さを求めること自体が非常に凡庸だし、革命とはそういうことではない。

●12月15日/15th Dec
 多くの人は知らないかもう忘れているが、2年ほど前に米国中央情報局であるCIA のロゴデザインが刷新された。ロゴの公開は2021年1月4日でトランプ政権下の終盤でのこと。その後、未だにウェブサイトでは旧ロゴも並走していて、全体のブランディングという意味ではちぐはぐになっている。ただそう単純な話でもないのだろう。
 図像学的に見るとロゴというのは多くを物語っているので、ロゴの変更というのは興味深い現象だ。なぜ米国が鷲で英国が獅子なのかには色々と理由がある。そんな中でCIAのような部局が鷲のロゴを変えることが単なるデザインの刷新だと考える方が無理があるようにも思える。

●12月16日/16th Dec
 若い頃に心に抱いていたのは、こんなに頭のいい人たちがどうしてこんな単純なことに気づいていないように見えるんだろうという疑問だった。今では大きく三つの理由があると知っている。
 一つは頭だけを働かせ過ぎて本当に気づいていない。もう一つは気づいているけど都合が悪いから無いことにしている。それに加えてもう一つあるとすれば、気づいているけどおそらく受け入れられないので一気に言えない。
 三つめは受け入れる準備に応じて伝える努力はするが、大体の場合はタイミングが合わない。数年は頑張ってみるが、そのうち諦めて船を降りる時が来るのだろうと。

●12月16日/16th Dec
 どのような怒りであっても怒りは怒りだ。対象が何であろうとそれは関係がない。最初は小さな怒りの火種だが、気がつけばそれはもう消すことが出来ないくらい燃え上がっている。そして怒りにエネルギーを与えるのは常に「正しさ」だと覚えておかねばならない。

●12月18日/18th Dec
 人の姿をしているからといって人間の物差しで捉えるとどちらの意味でも相手を見誤るぜ。今の時代は見えてるものしか判断しないが、姿形など単なる器でしかないんだから。

●12月22日/22nd Dec
 身体は我々の頭よりも随分と賢く、痛みを適切なタイムラインに乗せて出してくる。同時に受けた損傷であっても、緊急性の高いものから順番に発動するように出来ている。筋肉痛の出方が分かりやすいが、若い方が回復が早いのでその痛みのタイムラグは少なくなるのは当然だ。歳が行くほど違う種類の痛みがダラダラ続くので苦が増すのだろう。

●12月22日/22nd Dec

●12月23日/23rd Dec
 3年前に京都大学基礎物理研の「未来創生学」の国際シンポジウムに登壇した際の映像が、いつの間にかアップされていたようだ。
 この頃、ちょうど「Seeing Differently」の撮影期間中だったので、デュエルフ博士役のイメージをキープするためにヒゲを剃れないまま登壇していたが、今見るともうちょい整えても良かったか。癒しのイノベーションについてのディスカッション。

●12月23日/23rd Dec
 年内最後の新月の晩、そして年内最後の「まなざしの革命放送」をアップします。ポッドキャストでの配信を始めてから1年以上経ち、シーズン2の"from S地点"として放送して今回で8回。それを含めて全体の通算で30回目の放送になります。
 今回のテーマは「病気」です。このテーマで話してほしいというリクエストがあって色々と考えてはいたのですが、放送直前に自分が体調崩して寝込んでしまったので、危うく欠番になるところでした(まぁ、あまりリアルタイムで聴く人も少ないので気にせずともとは思いますが...)。
 クリスマス間近ということもあり、恒例の「病者の祈り」の朗読もしますが、自分が弱っている時なのでリアルに感じられます。寒い夜が続き、年末に向けて体調崩される方も多いと思われますが、この時期に一緒に病気と健康について考えてみませんか。

まなざしの革命放送シーズン2
Vol.030 病気になるとはどういうことか

年内最後の革命放送は「病気について」話してほしいとリクエストありましたが、本人が病に倒れて床に臥せっています。なので今回はリアルに病気の状態のまま病気について考えてみようと思います。病気とは何か、どのように向き合えば良いのか、今の医療の何が問題なのかについて少し語ってみます。またクリスマスの時期でもあるのでいつものニューヨークリハビリテーション研究所の壁に掲げられた詠み人知らずの詩「病者の祈り」の朗読も交えます。

●12月24日/24th Dec
 クリスマスになると必ず思い出す詩があるので、今年も共有したい。ニューヨークのリハビリテーション研究所の壁に掲げられた詠み人知らずの「病者の祈り」という詩。昨日アップした「まなざしの革命放送」でも朗読させていただいた。

こんな寒い夜に暖かい場所で過ごせない方々も、この世界にはいて、その反対にどんなに寒い中でも心の中は暖かい人たちもいる。この世界は不平等で理不尽に満ちているように見えるが、人にはそれぞれの業があり、自分の生を全うすることしか我々には出来ないのだろう。今年もこの詩を思い出したことに心より感謝を。

『病者の祈り』
大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。

幸せになろうとして富を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。

人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聞きとどけられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。

●12月25日/25th Dec
 世間で唱えられている「多様性が大事だ」というフレーズは一体どういう意味なのだろうか。勝ち負けや優劣という一律な価値基準に当てはめるのではなく、それぞれの良さがあることを評価しようという意味だとすれば、序列を決めるコンテストがこんなにも溢れているのは非常に矛盾している。多様性と言っておけば免罪符になるか儲かる程度にしか考えていないのではないだろうか。

●12月26日/26th Dec
 病み上がりの身体に鞭打ちながら編集者に原稿を送る。今回は「現代アートの見方」についての連載で、個人的には楽しく書けた感がある。特に、現代アートを見る上で多くの人がハードルに感じていそうな箇所取り上げて見方を紐解いたので、さっぱり取り付く島がない人のまなざしが少し開けば良いなと願っている。

●12月28日/28th Dec
 無数の生命に支えられて生きていることに深く感謝することと、自ら孤独の道を選んで歩むことの間には何ら矛盾はない。

●12月28日/28th Dec
 本日で今年は仕事納めに。先週倒れていたので、あまり身体も動かないままで研究室を後にする。「まなざしの革命」からスタートした今年は、来年から始まる新聞連載の締め切りで終了。
 この数年は忘年会なるものには全く縁なく、もう何年も誘われてもないし行くこともないが、今年はマネージャーと二人でしっぽりとやってみた。基本的に今年は本当に誰とも会っていない感じだ。
 会話の中で、友達とは何かという話を掘り下げたのが印象的だった。僕の場合は人間の捉え方について一般的な感覚がおよそ当てはまらないようで、多くの人には理解も共有もできないらしい。本人はそうやって生きてきたのだから仕方がない。来年はもう少し人と会ったりするのだろうかとも思うが、少々疲れているみたいだ。

●12月29日/29th Dec
 環境デザイン通史の講義において、どうしても近代以降のモダンデザインが中心にはなってしまうのだが、個人的に教えて意味があるのは古代の環境デザインだと思っている。これまでも聖地のデザインの中で語ってきた箇所ではあるが、新講義のフレームの中で強化したいとスライド作っていると、とんでもなく分厚くなりそうで思案中。
 大体、ギザの大ピラミッドだけでも15回語れてしまうボリュームなのに、ストーンヘンジとかティオティワカンとか前方後円墳とかも合わせると、とても一回では終わらないので、スライドだけ整理して別の機会にするかどうか。
 古代の人々のまなざしを語る方が、モダニズム建築の設計原理を教えるよりもよほど意味があるとは思うのだが、いかんせんこの領域は隠されていること、語るとヤバいことが多過ぎて、真贋の不明さも併せて大学では語ってはいけないことばかりなので困る。

●12月29日/29th Dec
 2年も前に一応言っておいたのだが。

●12月31日/31th Dec
 寺で瞑想しながら新年を迎えるのが帰国後の通例になっていたが、この年末は色んなことがあり難しい。自分も周りも体調も崩しているこんな時こそ、どこであってもどんな状況であっても心落ち着けて静かに新年を迎えたい。パンデミックが騒がれてからもう3回目の年越しだが、一向に世界は落ち着かない。いや、かつて世界が落ち着いたことなどなかっただろうし、どんな世界であっても落ち着いていられるかどうかは自分の問題だ。
 だが、世界はすっかりとあらゆる物事が反転している中で、モノが見えている人々が右往左往し、相変わらずモノが見えていない人々の方がなぜか落ち着いている。その様子にも反転現象が見て取れるが、あまりの愚かさに人間の無知を完全に見くびっていたと知る。

 1月に「まなざしの革命」を上梓して、革命とともにある一年だったが、革命の波は静かにでも拡がっているのかを知る術はない。本の中では再三ハイブリッド戦争に対しての警告を出したが、直後の2月に起こったウクライナ問題では、案の定、多くの人のまなざしが誘導された感があった。
 本など何の力も持たないと無力感に打ちひしがれているうちに、管理社会への布石はどんどん固められていき、引き返せないポイントは過ぎつつあるようにも思える。その一方で、多くの人は本当は管理されたがっているのかもしれないとの思いもよぎり始めている。ただ知らされなければそれで良いのかもしれない。

個人的には3月に地球研のシンポに登壇したことと、4月に所属が変わったことで、今まで以上に地球や宇宙との繋がりを考えるモードに入った。2018年に、千葉市美術館で「地球の告白」という大きなインスタレーション作品を制作したが、そこから認識はさらに進んでいる。
 あの時は、アポロ8号による月の周回軌道からの地球の写真が撮られた1968年から50年にあたる年で、46億年の地球の歩みと、5200年の文明の歩みを整理して、自分なりに答えを出した。そこでの問いのいくつかを今後深める形になるのだろう。
 一方で、地球環境を科学だけではなく文化と生活の問題として、具体的に大地と向き合って思考する必要性にも迫られた。その中で5月に「S地点」と出会ったのは個人的に大きな出来事だった。

2018年に看取った前のアトリエ「♭」ではクリエイティブシェアという概念の元、都市の中でアナキズムの実験をしていた。次のアトリエでは「社会」から「生命」へとスケールを替えて実験を進めねばならない。社会は滅んでも生命は続いていく。
 6月には4年越しで進めてきた、大きな施設の建築とランドスケープ、モニュメントが完成し、自分の作品の中では予算規模もスケールも最も大きなものになった。使った素材やデザインの形状には、クライアントへのアンサーだけでなく、日本という国と地球の構造の上で重要な経穴に鍼を打つ形を施した。これが少しは地球の流れをスムーズにする一助になることを祈る。
 7月には参院選前後の騒動の中で、東京で心ある本屋さんに「革命対話」をご準備頂いた、表では話せないようなこともたくさん話したが、それを伝えたところで何かが急に変わるはずもない。相変わらず同じパターンが社会では繰り返されているし、"賢い"人々はプロパガンダに忙しい。

社会をどうこうすることは半ば諦めて、滅んでいくのを静かに眺めているつもりではいるが、それでもそこでの人の在り方として何か伝えられることはあるようにも思える。だから8月にはポッドキャストで「まなざしの革命放送」を再開した。聞いている人は少ないが、しばらくは続けてみる。

自分の中では最も意味のあった時間は9月の瞑想修行の時で、自分にとっておそらく最後の修行の時間となる。そこで得た解放にはこのような自由があるのかと気づくと同時に、大きな責任を伴うことも学んだ。智恵というものの奥深さは、思考などでは測り知れない故、ますます学問など意味をなさないことを理解する。
 その一方で、10月に参加した大地の再生は学びが多かった。反面、大学での教育に意味を見失いそうにもなる。持続可能と言いながら、持続するはずもない理屈をいつまで布教せねばならないのだろうか。市民の方がよほど自らの出来る範囲で大地や生命と向き合っていて、慈悲を傾けている。
 11月は総合デザイナー協会での講演、岡山芸術交流でのパフォーマンスと、人との交流が割とあった。コロナ前はあれほどしていた講演も、もうあまりする機会も気力もなくなった。いくら訴えても都合の良いことしか聞かない社会を後に、もうこのまま隠遁してもいいかなと諦めていたが、それでも話して欲しいと請われる機会に精一杯話してみるものだと改めて思える場だった。
 気がつけば12月。体調を大きく崩して、周りの体調も大きく崩れて、年末は身体も安静に。来年早々には父親が亡くなった年齢に差し掛かり、この肉体も一つの山場を迎える。いつ死んでも悔いはないし、毎日死んでは生まれているので、死そのものはそう大きなことでもないのだが、世界がもう少し苦から解放される道筋には何か自分にも出来ることが残されているようにも思える。
 2023年からはさらに厳しい状況にはなるだろうが、演出されたヒーローやモノが見えていない知識人になど期待してはいけない。どのような時代になっても我々が心を落ち着け、賢く物事を見抜いていれば状況は起こっては消えていくだけだろう。生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなり、幸せでありますようにと心より請願しながら新年を迎える。


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