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「内なる宇宙へ」(2023年9月)

●9月2日/2nd Sep
 京都クオリア塾のOB合宿に一泊二日で講師として参加する。クオリア塾は2007年に堀場製作所の堀場雅夫最高顧問が京都の学者に呼びかけ、2007年に発足した研究会が元になっている。

 今年で第9期だが、村田製作所や島津製作所、京セラや一保堂など会社を超えて企業人が研修し交流する集まりになっている。元京都テレビのディレクターの長谷川さんがコーディネートして、学者が講師として話をするが、僕は第6期と第8期でお話させてもらった。

 そのクオリア塾のOBが自主的に合宿形式で研修するということで、講師として一泊二日で堀場製作所のFUNHOUSE へ行ってきた。川沿いの森に立つリゾート施設のような素晴らしい研修施設で、メインの研修室だけでなく、夜は暖炉の炎を囲みながら遅くまでディスカッションも出来る。

 合宿としては昨年から始まったとのことで、今年のテーマとして「宇宙に生きる」が掲げられ、宇宙物理学者の磯部洋明先生とハナムラが呼ばれて宇宙についての話をする。ちなみに昨年はテーマが"地球"だったようで、地球研所長の山極壽一先生がお話されたようだ。

 初日からプログラムとしては盛りだくさんで、アイスブレイクを皮切りに、磯部先生の講演、ハナムラの講演、それを元にしてグループディスカッションと20名ほどの中堅の企業人が真剣にディスカッションする。そこで出たテーマを元に、翌日に磯部先生とハナムラの対談をすることになる。

 磯部先生は太陽研究がご専門だが、宇宙人類学や宇宙倫理学などの立ち上げにも関わり、またサイエンスと社会との間に生じる倫理の問題や宇宙開発にまつわる様々な課題などにもお詳しい。ビッグバンや宇宙背景放射といった宇宙物理学だけではなく、ゴーギャンからアーレントまで駆使しながら、宇宙をテーマにさまざまな角度から語られていた。

 僕からは「混迷の時代こそ自らの内なる宇宙へ」というテーマで、革命を中心に企業人が携わるマーケティングの持つ危険性や企業が知らない間に加担している監視社会とデジタル社会主義の話、今の政治の混迷と革命の時代の話から、2018年に千葉市美術館で制作した拙作インスタレーション「地球の告白」の話をする。今回はYouTubeに上げたダイジェスト映像ではなく、「時の部屋」「告白の部屋」の両方のフル音声と映像をプレゼンテーションした。

 夜は磯部先生が持って来られた天体望遠鏡で、月と木星と土星の天体観測をするという豪華なプログラム。宇宙の専門家に解説頂きながら月のクレーターや土星の輪を観察する贅沢な時間を過ごす。

 その後も結局夜半2時まで暖炉の炎を前に皆さんに宇宙を語った。アイヒマンの凡庸な悪の話から多様性とは目指されるべきなのかという話題、果ては我々はどこから来て、我々は何者で、どこへ向かうのかという果てなき問いまで夜半だからこそ話せる話題が盛りだくさんだった。

●9月2日/2nd Sep
 堀場製作所でのクオリアOB合宿の二日目は、朝からハナムラの瞑想プログラム。僕は僧侶ではないので瞑想を指導できる立場にはない。スマナサーラ長老との対談を終える前に頼まれていたならば、おそらく断っていたと思う。しかし今回は強い要望があったのと、学者としての僕の立場からしか伝えられないことがあると思ったので、瞑想指導を引き受けることにした。
 
 仏教における宇宙論を解説しながら、なぜ瞑想をするのか、他の瞑想とはなにが違うのか、何がポイントになってくるのかを具体的な技法とともにお伝えする。短い時間ではあるが、サマーディ瞑想とヴィパッサナー瞑想実践の両方を体験してもらった。何より最後に皆さんと慈悲の瞑想をする時間を持てたのは本当に良かった。
 
 この宇宙で全てのものは移ろっていく。その無常の法則を何の道具も使わずに観測する科学を昔の僧侶は開発した。それを体験するほんの入口として実践してもらったが、参加者の皆様にはかなり響いたようだ。これから日常生活の中で続けていきたいという人が沢山いたのも嬉しく思った。磯部先生も一緒に瞑想実践を体験してもらったことも印象深かった。
 
 大学の講義の冒頭で瞑想を実験的に試してみたことはあったが、僕自身が全てをリードして瞑想プログラムを行うのは初めてだったが、大変勉強になる。ブッダの時代から2500年も途絶えることなく続いていて、歴史のあらゆる批判を耐え抜いた智恵と瞑想法を曇りなく伝えるという責任感は感じている。

その一方で、ブッダの智恵が宗教としてではなく科学性をもった極めて具体的に実践方法であることが少しでも伝わったのは、大きな収穫だった。特に慈悲の瞑想を皆で一緒にすることと、心のレゾナンスの話を多くの人が理解したことは、この混迷する社会の中で少しの希望になる。

前日の夜半に及ぶディスカッションでは、企業人としての皆さんの前に、一市民として、一人の親として、自分の仕事をちゃんと考えて下さいということを問いかけた。自分の子供たちに今の社会を引き渡すのか、自分が今しているビジネスは本当にこの世界を良くしているのか。いつまで問題の真相から目を背けて、知らないフリを決め込んで生産性を上げることだけを追い求めるのか。

そんな問いかけに皆さんに深く響いて、諦めかけていたが目が覚めたという方もおられた。その中での今朝の瞑想実践だったので、きっとこの体験が大きな助けになるのではないかと思う。特に慈悲の瞑想を何度もすることの意味がしっかりと伝わっていたのは、参加者の理解度が高い証拠。やはり合宿のような密度の中でしか伝えられないことがある。聞く準備ができないと話せないからだ。

●9月2日/2nd Sep
 瞑想プログラムの後は、いよいよ宇宙物理学者の磯部先生との対談。昨日の皆さんのディスカッションから紡ぎ出された問いを巡って二人で話をしていく。幸せとは何か、正しさとは何かという哲学的な疑問から、科学として語れることの限界と、その先へと話は展開していく。

宇宙における物理法則と心の法則の話。生きていく上で何を拠り所にすべきか。直線的な宇宙と循環的な宇宙。教育と想像力と他者への思いやり。言語化することの可能性と限界。この世は生きるに足る場所か。アンチナタリズムと仏教の違い。我々はどこから来て、どこへ向かい、何者であるのか。

様々な問いを立てて二人でそれぞれの視点を語った。磯部先生は仏教者との対話の経験が豊富だ。ただ初期仏教に触れることは少なかったようで、僕の視点にも関心を持って耳を傾けられていた。僕自身は科学者としての視点は保ちつつも、仏教者としての語り口から科学を相対化するようなトーンがここでは前面に出ていたようだ。

当然答えの出る話ではないし、簡単に納得できる話でもない。しかしそうした縦横無尽に展開された問いを、どなたも本当に熱心に受け止められていたように思う。二人の間で共有出来ることがどこまでで、どこからがスタンスが違うのかは明確に見えたかもしれない。だからといって互いを排除したり、どちらがより正しいを明らかにするのでもなく、まさに対話という形で進められたのは磯部先生の懐の深さだと感じる。

濃密すぎる二日間に、参加された企業の方々の週明けのロスが心配だ。本当の非日常とはその1日があったことで、残りの394日の意味が変わるという以前からの僕の見解を伝えつつも、日常の中でしっかりと生きることが大事だと最後に念押しをする。

すぐに元の意識状態に戻りがちな日常で見失わぬらような指針は伝えたつもりだし、その後のサポートはこうしたSNSやポッドキャストで出来るだろう。だから逃げずに諦めずに静かな抵抗と革命にチャレンジして下さいと伝えて、FUNHOUSE を後にした。お見送りまでしてもらったが、この二日間ですっかりと顔つきが変わった様子を頼もしく思うと共に、少しの希望を見出す。

●9月4日/4th Sep
 今回の合宿を終えて強く思うのは、"聞く準備"が整うまでにはある密度が必要なことだ。たった90分の講演では聞く準備を整えることすらできない。講演してディスカッションして、酒が入った柔らかい場で会話して、天体観測はじめ何かの共同作業を一緒にして、身体も意識も疲れた夜中になった頃にようやく聞く準備が整い始める。

その意識モードへと移行するには信頼し合うプロセスと時間が必要だ。その状態になるとようやくみなさんが本当に知りたい話を語ることが出来る。同じ言葉や内容であっても聞く方の準備が整わねばそれはチカラを持たない。人はすくに、いきなり核心に迫ることを今すぐ3分で教えてくれと迫る。しかしそんな状況でどんな大事な話をしたところで、さほど意味はない。自分は聞くつもりがないのに語る方の能力だけに依存するのはフェアではないだろう。

知識偏重型の社会は何でも頭や言葉で理解しようとする。だが頭で何かを理解しようとしている間は聞く準備が出来ない。講演での聴くモードは頭で何かを理解しようと必死だ。自分は安全な場に身を置いて、外から眺める傍観者として何かを理解しようとしても、大切なことなど得られるわけがない。それを切り崩すのには最低でも一晩くらいはかかるのだろう。

今回手応えは、参加者の皆さんが合宿の最初と最後で顔がまるで違っていたことから伺えた。真剣に悩み、リアルな問いが生まれ、自分に都合の悪いことを聞く覚悟が出来たからこそ伝えれたことがあった。ただ、それは入口に過ぎないし、世の中は多くの人が考えている以上に複雑で、信じられないような力学で動いている。

●9月5日/5th Sep
 大学の僕の研究室はもう10年ほど難波にある。5年前に東成の自分のアトリエを引き払って、その荷物を随分と運び込んだが、なんせアトリエは二階建ての旧活版印刷工場。作品も含めて半端なく荷物があり、大学の標準よりも随分と狭い研究室に、もう限界というところまでスペースが圧迫されていた。

ところが、このタイミングで研究室移転の話が急遽すすむことになった。これまで研究室は打ち合わせスペースも窓もない独居房のような感じで、人が来ても会議室を借りていた。今度は都心からは離れるが、今よりも部屋のスペースは大きくなる。部屋のデザインはこれから徐々に進めていくが、人にも来てもらえるような感じに出来ればと思う。

●9月6日/6th Sep
 もちろん自分も含めて、ヒトはすべからく愚かなので、過去も未来も現在についても、何にも知ることができない。なぜそれを自分がするのかという本当の理由も知らない。自分がしたことによってその結果何が起こるのかという先のことも分からない。

それどころか、いま自分が何をしているのかということも本当のところはわかっちゃいない。なぜ生まれてくるのかも知らず、死んだらどうなるのかも知らない。当然なぜ生きているのかなど知るはずもない。

そんなことを考えていると生きていけないというのが普通の感覚だろうし、実存の問題を解決しないと何も出来ないなら、一生何も出来ない。なので普段は考えることはないのだが、日々の生活でほんの少しでもそれを考える時間が持てると、本当のことは何なのかを知りたい動機が整う。

●9月7日/7th Sep
 さいたま国際芸術祭2023のプロデュサーの芹沢高志さんが、拙著「まなざしのデザイン」を取り上げてくださっている。芹沢さんとは東京ポストカードアワードで一緒に審査員させて頂いて以来、2017年に下北沢で拙著「まなざしのデザイン」の出版キャラバンで対談させて頂いたり、KIITOのイベントでお話し伺ったり、別府のアートプロジェクトで偶然遭遇したりと、何かとご縁を感じている。

僕自身は出自がランドスケープということもあり、自作を語る際にも純粋に自分の内面表現というより「社会彫刻」に関心が傾いた説明になりがちだった。だから美術や作家としての文脈で自分の作品を語る機会には恵まれなかった。それに政治に翻弄されて芸術が意義を失いつつある状況に悶々ともしていることもある。

しかし先日、教育新聞でも「現代アートの見方」について連載をしたように、この混迷の時代だからこそ改めて再び芸術のチカラについて考えてみることは人々の意識の何かを切り開くかもしれない。最近、人と語り合う時間をあまり持てていないが、パンデミックを経てそれぞれの旅の風景を交換する時期に来ているのかもしれない。

●9月9日/9th Sep
 世界に対して言いたいことがあるなら声を出せばいい。肩書や年齢、能力や伝える技術は全く問題はない。そこに必要なのは想いと情熱で、本気で伝えたいことがあるならば、それに耳を傾ける人は必ず現れる。

何かを気にして、誰かに遠慮して言いたいことが言えない窮屈な世界に加担する必要はない。自由に何かを話すことが出来ない世界など監獄のような場所だ。その監獄を作る一人になりたくないなら、何かを発すればいいし、言葉でも言葉でなくても何かを表現する自由は担保されているべきだ。

ただ、そこには作法がある。その言いたいことは本気なのかどうか。それは単に何かに反射したり、その場の感情だけに任せて発せられたものではないのか。あるいは単に利益や人気や賞賛を得るための言葉ではないのか。誰かを傷つけて憎しみを拡げることに加担していないか。何度も何度も自分に問いかける必要がある。

この世界は複雑だ。そう簡単に答えが出るほど単純ではない。そんな中で何かを言うには勇気と熟慮が必要だ。表現は何かを切り開くチカラを持つことがあるが、それは簡単に暴力にもなる。だから物事を知れば知るほど智恵ある人は口数を減らしていく。だが、皆が口をつぐんでしまうことが世界を危険にする時代の中で、自らの表現の危険性を乗り越えてまで伝えるべき何かを持っていて、伝えたい想いがあるならば遠慮は無用だ。

●9月12日/12th Sep
 9月末から始める「ヒトの学校」がいい感じで、13歳から17歳までのティーンのヒトが集まってきた。第一クールは"オトナは正しいのか?"というテーマで募ったが、それぞれ自分の意志でやってきている。話し合いたいことを書いてもらう項目を申込時のフォーマットに設けたが、そこにはオトナに対する疑問がたくさん書き込まれている。

この年代は真実に敏感な年ごろだ。自分に対してしつけられることと、しつけた本人がやっていることの間にギャップがあり、どうもオトナが嘘をついているらしいと気づき始める。この時に舵取りを間違えると、世の中に絶望し、冷めて諦めて、要領だけ得て自分の利益だけ考えるヒトになる可能性がある。その結果が今の社会だ。

今週はある企業グループの大きな研修で、終日30代から40代のヒトたちの教育もするが、今のティーンもほんの15年も経てば社会の常識に飲み込まれた立派なオトナになる。いや、15年もかからないかも知れない。ほんの5年や10年で社会の大きな構造に飲み込まれるだろう。そうなると正常化バイアスを崩すにはかなりの力技が必要になる。

911から22年。311から12年。ここ数年だけでもパンデミック、戦争、BRICsの台頭、地球規模の"災害"、ポピュリズム政治、ドル経済の凋落など、急激な変化が起こっている。今のオトナには何も出来ないだろうし、快楽か不安に耽って何もする気もないようにも見える。だが、この社会をそのまま渡す以外に出来ることがあるなら柄杓で海の水をかき出す努力くらいはしたい。

●9月13日/13th Sep
 研究室の大物の机と入口に設けていた天井物置に使っていた平台だけは先行して運んでもらう。この机は阪大時代に文学部の教授のためにデザインしたもの。ドイツ文学の研究者だったので、天板をドイツの針葉樹にして、脚をH型鋼で組んだ無骨なデザインにした。気に入ったので自分用にも作ってアトリエで10年使っていたので愛着がある。

●9月13日/13th Sep
 我が相棒のアニメーター吉田徹が、阪神百貨店でライブペインティングをするということで、超絶忙しいが駆けつける。アトリエでは毎週のように会っていたが、コロナ以降全然会えてなかったので、久しぶりに話する。

主催者のミゾベさんにも本当に久しぶりにお会いしたが、クリパレというクリエイターのイラストの展示企画で、これに合わせて画廊の出展が決まったという。今回は盆栽兄弟というユニットで吉田徹と一緒にやっている赤津さんとも久しぶりに会ったり、ごんぼそさんも来ていたり、食養学の冨田先生や小野さん、橘さんなどとも久しぶりに話せて、アトリエの日々が帰ってきたかのよう。

吉田徹さんと僕とは第七区というユニットをしていて、「After the Shift」という作品を作っているが、韓国で展覧会した時の画集も売られていてビックリした。原画は僕の研究室で保管したままなので、移転後はちゃんと管理せねばと。

●9月14日/14th Sep
 京大の生存学館との総合知交流会の2回目。今回は大阪公大の中百舌鳥キャンパスで。こちらの学生の研究発表と京大の学生の発表だが、例の如く文系も理系も入り混じった発表。

前半はインクルーシブがテーマになっていたのか、教育福祉学系の発表が続く。障壁を持つ児童のインクルーシブ教育、人権としての教育、移民の海外送金のファイナンシャルインクルーシブにおけるジェンダー差、防災教育と探究学習、古典教育の目的と意義など。

色々とコメントしたが、学部の学生が中心だったので、既に社会の中で言われている目標設定を前提に話が進められていることが特に目立った。多様性や包摂、人権などという概念だけが一人歩きして、それが一体何を意味するのか疑いもしないことに危機感を覚えたので、その問題を僕からは指摘はしておいた、

後半戦は院生が中心で、しかも理系が多く専門的な内容に、文系の学生はついてこれなかった雰囲気だった。真菌のオートファジーによるタンパク質合成の話や、知覚プロセスにおける系列依存性の研究、臨済宗の坐禅の進めの社会受容のプロセス、教育福祉学におけるハンナ・アーレントの自由概念など。

僕は悪食なので、全部の発表に関心があって質問したが、学生諸氏は文理横断する幅の広さになかなか取り付く島がない様子だった。人間の場合にはオートファジーの発動条件に飢餓があるが真菌はどうかという話や、ちょっと突っ込んでSTAP細胞との関係の話まで聞いてみたり、系列依存性は知覚の問題だけではなく認知の問題があるのではないかと突っ込んでみたり。

臨済宗の山田無文の「坐禅の進め」は知らなかったので、無文が健康や安眠のためと近代的な解釈で禅を広めたことが、悟りまで導くことを射程範囲としていたのかを聞いてみた。逆にアーレントについては自由概念よりも"悪の凡庸"さの概念の方が教育福祉学には相性がいいのではないかとコメントしておいた。

最後のディスカッションではインクルーシブに焦点が当たっていたので、これは危険だとコメントを多めにする。哲学の上柿先生も参戦されていたので、二人で議論が予定調和にならないように論点をいっぱい出した。「誰一人取り残さない」というフレーズの持っている危険性について指摘したが、多くの人はそんなことはあまり考えたことがなかったようだ。

明日の企業研修でも大人たちにしっかりと考えてもらうが、世間でまことしやかに、正しそうに、さも正当性がありそうに唱えられることは一度疑った方がいい。色んな角度から論点が出尽くして議論が汲み尽くされた果てに、それでもまだ可能性があるかどうかを考えるくらいの知的体力を養って欲しい。

●9月15日/15th Sep
 グループ企業全体での初の総合研修で講演と全体の研修のファシリテーションをする。8社から72名の社員が参加し、朝の9時から17時半までみっちり頭を使ってもらった。初めて施設を訪れる社員も多く、各所で驚きの声が上がっていた。

自分がコンセプトからデザインまで手がけた施設を、今度は使う側や使ってもらう側として関わるのはまた違った発見がある。このシアターは360度に客席が配置されていて中央で話すが、通常の講演と違って意識の統一をさせるための手法が変わってくる。施設見学してもらった後に、施設のデザインコンセプトやモニュメントがどういう意味を持つのか、それによって訪れた人にどういう意味があるのかについて解説する。

午前中の講演では「まなざしの革命」の話を中心に、通常の企業研修では絶対に話さないようなことを伝える。今の社会状況の危なさや、無関心でいると企業自体がそれに期せずして加担してしまっている可能性、その果てにどういう未来がやってくるのかという予測などを僕なりに話す。伝えたいことはまだまだあるが、午後のディスカッションの呼水としては充分かと。

午後のワークショップでは、まなざしのバランスチェックをしてもらい、まずは自分が世界をどのように見ているのかを確認してもらう。その上で、グループ企業間でチーム編成して、施設のあちこちを使って、企業人の立場を忘れて個人として話してもらうディスカッションの時間を設けた。モードが変わった後の会話なので多分時間が短く感じたのではないか。

今日はトライアルとして組み立てたので、まだまだ課題はあるが、おそらくこれまで体験したことのないような研修だったのではないかと思う。終了後の交流会で、何人もの社員が来て感想を述べてくれたが、自分と会社と社会の行末について、本気で考え始める芽生えのようなものを感じた。

先日のクオリア塾での研修でもバラバラの企業から集まってきた方々だったが、それは自主的な集まりだった。今回は社としてそれぞれ参加しているのでどうしても仕事のモードが外すのに時間がかかる。やはり一泊二日くらいでようやくほぐれるのだろう。そのあたりが今後の課題か。

●9月18日/18th Sep
 「Seeing Differently」の撮影からもう4年も経ったか。皆さまには大変お世話になった。

●9月18日/18th Sep
 先日のディスカッションで、インクルーシブや多様性の議論をしている際のこと。ある教授が発した"何も生み出さないのであれば議論するべきではない"という言葉には大きな違和感を覚えた。何かを生み出すために何かをするという生産性至上や合目的的な考え方は取扱注意だ。

人間の文化的な営みや非合理的な実存は何かを生み出すためだけではないし、辻信一先生の「ムダのてつがく」の新聞書評にも僕自身書いたが、全てが何かの目的に還元されてしまう発想こそ、今のあらゆる問題を招いている要因の一つとも言える。

おそらく「多様性を認めないことは多様性に含まれるのか」あるいは「インクルーシブされたくないということもインクルーシブされてしまうのか」という僕の発言を受けてかも知れないが、哲学的な思考と工学的な思考は相容れないことがある。

色んな意見があっていいし、批判を乗り越えて主張したい強い意志があるならいいのだが、すぐに想定される批判に対して意識がいっていないのであれば、それは狭い範囲での議論にしか慣れていないか、想像力が欠如しているのではないかと推測する。

●9月19日/19th Sep
 拙著「まなざしの革命」の2023年度の入試問題での使用は中高大合わせて、把握しているだけで13校。その他で教科書は試験問題として使用した旨が毎月届くが、おそらく本そのものの発行部数よりも、こうした参考書や試験問題集の方が流通しているのではないか。

こうして多くの若い人に読んでもらえるのは嬉しいのだが、部分的に切り取られていうる上、解答する目的で読まれるのは著者としては微妙な気持ち。出来ればこれを入口にして本全体を読んでもらいたいのだが。写真は本日届いた許諾書で、「ロジカル国語表現α小論文ゼミ」だって。拙著第四章「情報」より。

●9月20日/20th Sep
 和歌山大学のサテライトキャンパスがある浪切ホールで、10月18日の夜に市民向けの講演をするので、会場の下見に。岸和田は随分と久しぶりに来たが、ベイサイドモールの横にこんな立派なホールがあったとは。

本学と和大は社会連携の提携していて、今回は無料の市民講座。オンライン配信もあるので全国から聞ける。テーマはまだ迷っているが、ご高齢の方も多いようなので「革命」のような過激な話はちょっと控えてもいいかなと思っている。

今回は配信でのアニメーションのタイムラグもなく、オンラインでも非常に綺麗に見える。いつもの話が中心だけど、講演を聞いたことない方はこれを機に是非。

●9月22日/22nd Sep
 後期の学部の講義「環境デザイン通史」の準備をしているが、最近は言いたいことが変わってきているので、フォーカスする部分を微妙に調整している。基本的にはデザインというのは近代以降の概念なので、歴史的にも近代以降を取り上げることが多い。

ただ、僕の場合はかなり広い概念としてデザインという言葉を使っている。何かを構想して計画する「設計」という意味だけでなく、何かの形態や形状を指す「造形」、何かの問題や目的に対して「解決」するという意味もある。あと「美」に関わる問題を考える意味も。

なので、話も近代以降に特化するのではなくそれ以前もかなり講義の時間を割く予定。最近は古代史に関心が傾いているので、そこばかりチカラが入ってしまうかもしれないが、バランスよく行きたい。

●9月23日/23rd Sep
 全然時間の余裕がないが、少しずつでも進めねばとスマナサーラ長老との対談原稿に手を入れる。全部で5つの対談セクションがある中で、ようやく対談3まで手を入れた。いい感じで文字数が削れてきたが、まだまだ削らねばならない。

対談3は宇宙のデザインとパターンについての話で、対談4は「時間論」からスタートしているので、科学ネタが続く。その中に社会情勢の話や人としての生きる規範の話、輪廻の話や神々の話などが自由に割り込む。流石にこのあたりになると二人ともリラックスして対話を楽しんでいる。

これ、日本語で出版する予定だが、英語にした方が長老も原稿の確認しやすいし、スリランカや欧米の方々にも読んでもらえるのではないかと勝手に妄想する。僕の方では翻訳する余裕が全然ないので、誰かの力を借りねばならないが。

●9月25日/25th Sep
 いくら現場で必死に最適なソリューション出しても、もし政治の上の方が間違っていると、それは結局は間違えてしまう。そして大体の場合は政治の上の方が正しいということはない。

なぜ政治が正しくないのかを分析するには軍事についてを知る必要があるが、現場の問題にフォーカスしているとそんなことまで意識が回らない。さらに軍事を分析するには本当は宗教を知る必要がある。

何重ものレイヤーが下敷になっているのに、表の問題だけ取り上げてあれこれ議論してもかえって混乱することになりそうだ。だから前提の認識をどこに置くかのセッティングから始めねばならない。

●9月26日/26th Sep
 本日は環境システム学類の「環境デザイン通史」の初回講義。昨日受講者名簿を確認したら、8割以上が女性。うちの学類はそんな男女比になってるのかと驚くが、どうもそうではないらしい。歴史女子か、デザインという言葉が引きになっているかは不明。

本日はガイダンスとイントロダクションなので、これから半期の説明だが、ほとんど初回の講義で学生のアティデュードが決まるくらいに考えている。なので少々刺激強めにかます。学部生の講義は久しぶりなので加減が掴めない。

広い教室の前半分がガラ空きだったので、学生の配置デザインから。大学の講義は学生と先生とが共に作っていくので、講義に協力してもらいたい、ついては協力できない人は手を上げて欲しいと問いかける。当然手を挙げる人は居ないので、そうなればこちらのもの。

今から出すスライドの指示に従って欲しいとお願いする。まず01席を立って前の方へ移動、02スマホをカバンにしまう、03ペンと紙を出してメモを取る、04言葉を発することを控える...など、次々にお願いする。皆さん最初のダラけた感じが見事にピシッとまとまった。

その後に自己紹介を交えながら、半期の講義の進め方、受講のテクニック、コミュニケーションツールなどを紹介する。一応、まなざしのデザインなどしているので、人の行動と意識を最初にデザインして集中できるようにするのは得意。多分講義をどうまとめるのか悩んでおられる先生もいると思うので、FDなどで話すときっとヒントにはなるだろうなと。

●9月28日/28th Sep
 我々は何かを頭の中で構想し設計してからカタチを作り出すものと思っている。つまり造形に先立つデザインがあり、デザインこそが造形を導くと。しかし造形にデザインが先行しているのではなく、造形行為の中にデザインがある場合は少なくない。

それはレシピを考えてから料理を作り始めるよりも料理を作りながら調整することや、素材を捏ねながらカタチを彫刻していくような行為からも見える。デリダはデッサンを描く手が、一貫して頭脳の思考を追い越していると言ったが、職人や物を作る人は常に素材の一歩先を予期しながらリアルタイムに調整している。

物事の最終形態を想定し、そこに至るためのプロセスを決定するエンジニアリングでは、未来の計画を現在に当てはめようとするモノの見方だ。その一方で、その場で素材と向き合い、一歩先を読み即興で素材を導いていくブリコラージユの場合は、デザインはその場で生まれていく。

このことを社会彫刻に当てはめてみると、世界を計画的にある状態に導こうと考える管理者はエンジニアリング的な思考を持っている。それに対して、我々はその場その場の状況の中で生活を組み直していくブリコラージユ的な発想が必要だろう。それにはリアルタイムの観察力が重要だ。

この社会がこのまま続いていくという正常化バイアスに浸り、この世界はどんどん不自由になっていくという不安と無力感に取り憑かれると管理者の描く設計図通りに進んでいく。しかし今の状況の一歩先を読んで、自分の生活をリアルタイムに導くことと、社会を管理者の思惑通りにいかせない抵抗の意志を持つと未来はより自由になるかもしれない。

●9月29日/29th Sep
 明日「ヒトの学校」の初回が開校。大阪公立大学の社会連携課のプログラムとしてハナムラがファシリテーションする10代のヒトとの対話の場。この第一クールのテーマは「オトナは正しいのか?」。

床座りで焚火を囲んで話すような空間を、I-siteなんばにセッティングした。今回は床座りの際に自分の領域を作るための敷物もオリジナルで用意する。"座土留(スワドル)"と名付けたが、留めているバンドの一つ一つにマークの刺繍入り。

今回は初回だが、締め切り過ぎても問い合わせがあったくらい、やって来る10代のヒトたちは本気だ。どんな出会いがあるのか。ハナムラもひとりのヒトとして、10代のヒトと同じ目線で考えたい。

●9月30日/30th Sep
 「ヒトの学校」の初回が終了。今回から三回は「オトナは正しいのか?」というテーマで中高生と話すが、予定の90分を大幅に超えてガッツリ話し込んだ。みんな話足りない感じだったので、続けていればおそらく何時間にもなったのではないか。

今日は来れなかったヒトも含めて年齢的には11歳から17歳まで幅広い。うまく言葉に出来るヒトもいれば、うまく表現できずに聞いているだけのヒトもいる。ただ僕も含めて全員が自分ごととして問いと向き合う貴重な時間が流れていたように思う。

もちろん彼らがリアリティのある社会の範囲は狭い。だから疑問のスケールは小さいし、極めて具体的で個人的な問題意識だ。だがそこで発せられていた問いには現代社会が抱えている問題全てが凝縮されている。

これがもう少し年齢が行くと、概念を操ったり、計算が入ったり、どこかで聞いたことがあるような言葉を話し出す。そうなると急に言葉にリアリティがなくなるし、自分がリアリティを失っていることにすら気づかなくなるかもしれない。この年齢だとまだしっかり言葉にできないからこそ、リアルに伝わるものもある。

この学校は答えを出すところではない。だから今日の"会話"も答えを出すわけでは無いし、どの意見に妥当性があるかを問うわけでも無い。ただ色んな意見を受け止めて場に並べるだけでもある。だから当然彼らのいうことには矛盾が含まれている。

それをストレートに指摘するのは簡単だが、それはさほど意味がない。でもうまく言語化出来ないことに対してはサポートしてあげる必要がある。あなたが言いたいことは要するにこういうことかなと言葉にしてあげると、みんな激しくうなずく。自分とは反対の意見であっても、整理してあげると同じように頷くことから、単なる承認を求めているわけではないことが伺える。

予想以上の手応えにスタッフ一同驚いているが、あと2回このテーマで話してみようと思う。今の社会の現状に対して、海の水を柄杓で書き出すようなあまりにも小さな小さな試みだが、ひとまず自分に出来ることを。この先どう育っていくか楽しみ。

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