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5-5どこまで「より良く」を目指すのか

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」05
 
 しかし一方で、より良く生きることへの追求はどこまで行けば終わりがあるのだろうか。生活はどんどん便利になっていくことを目指す。苦しいことは生活の中から出来るだけ減らして、楽しいことだけを見つめることが当たり前になる。暮らしの質を上げていくことが必要なことは当然だが、どこまで行けば私たちは満足するのだろうか。より良く生きることの意味を取り違えると、それはどこかで反転することになる。
 私たちは「どこでも、いつでも、新鮮で、美味しいものを、安く食べること」がより良い生き方だと思っている。しかしその食べ物は誰がどこで作ったものなのか、どういう経緯を経たものなのかにはまなざしが届いていない。それを追い求めた結果として、より長く新鮮で美味しそうに「見える」ように食べ物には大量の薬品が投与される。
 私たちはより良い服や製品を安く手に入れることをより良い生き方だと思っている。しかしそれはどこかの国で誰かが過酷な労働をすることで手に入っているものかもしれない。私たちがより良く生きるためと求めて生まれたモノはまなざしの届かない誰かの犠牲の上にある可能性もある。
 産業社会を前提とした今のこの文明は全てが分業され、部分的にしかまなざしが届かなくなっている。見えている範囲のことしか想像力が及ばず、他の部分で問題が起きていても見えないのだ。全員で生活の質を上げるつもりで取り組んでいるはずなのにそれが反転して私たちの生存をいつしか脅かしている。それは全体にまなざしが行き渡らないため、私たちが置かれている状態に気づかないのだ。
 私たちはテクノロジーに対してもまなざしが届いていない。今や機械は私たちの代わりに仕事をしてくれる。電気炊飯器は私たちの代わりにご飯を炊いてくれる。カーナビは私たちの代わりに地図を読む。掃除ロボットは私たちの代わりにゴミを集めてくれる。その大元の電気エネルギーも遠くで作られて自動的にやってくるのだ。
 しかしそうした私たちの暮らしを支えるテクノロジーの全体像がどうなっているのかを私たちは何も知らないのではないか。今や都市の安全を支えるシステムのほとんどは、こうした機械による制御なしには何も動かないのだ。制御機能が停止すれば、たちまち私たちの生活の基盤は脅かされることになる。私たちはいつのまにかこうした技術やサービスなしに自分一人では何も出来なくなってしまっている。
 もちろんこうした分業がうまく行っているときは問題がないかもしれない。問題が起こらないように誰かが専門的に自分の担当の仕事をしっかりとやっていると私たちは信じているのだ。しかしまなざしの届かないところで、その人が実際はしっかりとやってくれていなければどうなるだろうか。人のまなざしが届かないところ、つまり誰も見ていないところでその人の行動を担保するのは、その人の心のまなざしなのだ。それが今、危機にさらされていることを私たちは同時に意識しておく必要がある。
 私たちがより良く生きるためと追求してきた「文化」。それは今や文明の本質そのものを反転させようとしている。今や私たちが協力して生きるのではなく、協力しながら滅びていく方向を向いているのかもしれない。だからこそ私たちは文明と文化との関係性に、もう一度まなざしを向け直さねばならない段階にきているように思うのだ。しかし私たちはこの文明の中にいる以上、部分的な枠の中しか見えておらず、全体へとまなざしが向けられないという問題を抱えている。


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