アイヌ文化の成立についてのメモ

北海道における文化の変遷を少し整理する。
まずは日本列島全体に広がった「縄文文化」は北海道にも同様に存在した。その後、本州では稲作を中心とした「弥生文化」が入ってきたが、北海道では稲作を必要としないほど自然資源に恵まれていたため、縄文文化の生産形態がそのままの形で継続された。これは「続縄文文化」と呼ばれている。
 続縄文文化は道内各地で地方色豊かな独自の発展を遂げたが、7世紀頃になると本州の古墳文化の影響を受けた「擦文文化」が道南地方において発生し、徐々に全道へとその勢力を伸ばしていった。
 その擦文文化が発生する直前には、道北においてはそれまでの続縄文文化とは全く異質な文化の渡来があった。それは「オホーツク文化」と呼ばれている。このオホーツク文化は10世紀から11世紀にかけて最盛期を迎えるが、12世紀頃になると擦文文化が北進し様相が変化する。それらが融合する形で「トビニタイ文化」と呼ばれる文化となる。このトビニタイ文化は北海道における土器文化の最終段階である。
 この後、12世紀から13世紀に本州から多量の漆器や鉄鍋が流入し土器は姿を消す。そこから無土器の「アイヌ文化」へとなっていくのが13世紀末ぐらいであると言われている。
 15世紀半ばには、本州の和人とアイヌとの間に緊張関係があったが、16世紀半ばには一段落する。17世紀には江戸幕府とアイヌとの戦い「シャクシャインの戦」が起こったが、松前藩の勝利院終わる。18世紀後半には蝦夷地全体が場所請負制で交易を行うようになる。
 その後19世紀半ばに箱館開港の前月に蝦夷地が幕府再直轄となり明治維新を迎えることになる。明治政府は1899年に「北海道旧土人保護法」を制定し、アイヌの同化と保護を目的に農耕に従事させようと農地を与える。
 戦後の昭和においても新憲法のもとでアイヌ民族の尊厳が尊重されることは無かった。
 1997年に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及ならびに啓発に関する法律(アイヌ文化振興法)」が制定。その後国連の「世界の先住民族の権利宣言」においてアイヌ民族が日本の先住民族として認知されている。



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