意思を手放す

 自分の人生に起こることを観察することにしてから、随分と楽になった。
それまでは意思を持って、自分の人生をコントロールしていこうとしていたので、うまくいかない時に苦しむことが多かったのだが、その意思を手放すことの方が実はうまくいくことが多い。
 そもそも、この世で起こっていることを全て意思の元にコントロールしようというのは、近代合理主義の奢りだ。我々は本当は何もコントロールすることなどできない。そもそもぼくらは自分の体すら全てを自由にコントロールできているわけではない。心臓の動き、胃の蠕動運動、血流。全てこれらは不随意に動いている。寝ている時に打つ寝返り、ものを掴んでいる時の力加減だって、意識的にコントロールしているわけではなく、無意識がその行動を支配している。
 では全てがコントロール出来ないのかというと、もちろんそうではないことを知っている。目の前にあるコップを持ち上げようと思って行動すれば持ち上がるだろうし、昼食のメニューを決定することもできる。しかし最新の脳科学に照らし合わせるとそれすらも怪しいということになってくる。
 最近の脳科学の中で割と固まりつつある受動記憶仮説という考え方がある。人間が何かの行動をしようと考えるよりも早くに実は脳内では様々な意思決定がされていて、それを実は自分が決定したのであると「錯覚」しているということがどうやら真実らしいというのだ。
 そうだとすればぼくらは自分の思考ですら自分の意思でコントロールしているわけではないと言える。昼食に何を食べるか、休日に何をするか、職業として何を選択するのか。様々なスケールにおいてぼくらが決定することを司っているのは、意識ではなく無意識であるということになる。
 もしそうだとすれば、ぼくらが意思を持つことが無意味ではないかということに感じるかもしれない。全ての物事の因果関係は決められていて、ぼくらが何を選択しようとそれは変わらないのであれば、何もできることは無くなってしまう。
 しかし大切なのは、それを知った上で何を選択するのかということだ。ぼくらが無意識に何かを選択しているのだとすれば、その無意識が何から形成されているのかを知って、それに寄り添うことが大切になってくる。だから環境が重要になってくるのだ。
 ここで言う環境とは家とか街とか自然とか言う物理的な環境から、情報や制度などの見えない環境まで全て含めてだ。外界からぼくらを刺激するものは全てぼくらの無意識を方向づけているのだ。
 バックミンスターフラーは大気や水だけではなく、脳に蓄積された情報にも汚染があると考えていた。釈迦も同様に、ぼくらの意識の最も奥底にある阿頼耶識というのは、普段のぼくらの行動によって色付けされていくとしている。
 ぼくらが普段どのようにものを考え、どのように行動するのかを無意識がコントロールしているとすてば、その逆もまたしかりで、どのように考え行動するのかが無意識を逆に形成していく。自分が何かに囚われた思考や行動をしているのであれば、それが無意識を形成し、その無意識がまたぼくらをより捉えて離さなくなる。そのスパイラルから抜け出るためには、ぼくらを縛っている様々なものへの執着や意思を一旦手放してみるということが重要なことだと思う。

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