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5-7心の進化をめざして

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」07

 これまでの延長線上では、きっと人間は次へ進化できないのではないだろうか。いや、進化どころかこのまま滅びて地球上から淘汰されてしまうような種になるかもしれない。おそらく、私たちが生き残って進化を遂げるためには、もっと根本的に何かを変えねばならないのだ。それは世間でまことしやかに叫ばれているようなイノベーションやデザインなどというようなものではなく、もっと決定的なものに違いない。頭を進化させ、物を進化させた私たちが、次に進化させねばならないのは一体何であろうか。私はそれはおそらく「心」なのではないかと考えている。
 心というのはあまりに当たり前すぎて、そして同時に非常に複雑な存在だ。この本の中で、ずっと心が見せる風景について述べてきたが、私たちの心は簡単に何かに捕らわれて、物事の見方に偏りを与える。物事の方は変化しているのに、心の枠が動かないままでまなざしを向けているとそれに気づかないのだ。
 これからの世界は、急速にこれまでの世界とは違う段階に間違いなく入っていく。かつて正しかったことは、次にも正しいかどうかはわからない。過去に正しかったものに捕らわれていると、物事の変化は見えず、逆に固定化された自分の物の見方で世界を捉えるようになるのだ。風景のジャメヴュはそんな固定化された物の見方を揺さぶる体験だと考えている。
 過渡期にある今の社会のあらゆる仕組みや物の見方をもう一度デザインし直さねばならない。これまで見てきた風景のことですら、私たちは実はよく知らない可能性があるのだ。風景がジャメヴュする瞬間にこれまでの物事の見方がニュートラルな状態へ戻る。今見ているものが一体何なのかが問いかけられることは、これまで見ていたもの、そしてこれから見るものは一体なんなのかを考え始めるきっかけになるのだ。
 風景は外側の世界と内側の世界の接点だ。だから私たちの内側が変われば、世界の半分は変わる。私たちの内側の世界を見つめることなしに、どの方向に外側の世界を変えればいいのかは分からないのだ。私たちの心が自由でないのに、世界を自由にすることはできるのだろうか。私たちの心が正しくないのに、世界を正しい方向へ変えることはできるのだろうか。外側の世界を変えていくには、私たちの内側が変わることがまずは必要なのだ。
 本来は世界中のどの宗教であっても、どの民族の教えであっても、心を清く美しく保つことの重要性は繰り返し主張されている。そして私たちはそのことを既に知っているし、小さい頃に読んだ絵本にはちゃんと書かれているのだ。それは自然の法則であり、それに社会の法則を合うからこそ、私たちは進化していくことができるのだ。しかしそれがどういう状態であるのかということを私たちはつい忘れてしまう。
 心を清く保つということは、私たちが考えているほど安易なものではなく、実は命がけのことなのだ。言葉だけの綺麗ごととして世界平和を唱えることは誰にでもできる。但しそれは自分が満たされている状態があるから言えるということを私たちは忘れてしまっている。自分が危険な状態にあるのに、誰かを助けることができるだろうか。自分のお腹が空いている状況の中で、私たちはなけなしの自分の食料を誰かに差し出すことができるだろうか。その時に実は心の底では欲望が渦巻いているのではないだろうか。
 私たちは常に自分の心を見張っていなければ、簡単に心は汚れてしまう。それは生きるということが元来、他の生命の犠牲なしには成立しないものだからだ。そんな生存欲求が根底に横たわっていることを忘れて、私たちは自分の心の状態にさえ固定化されたまなざしを受けている。
 私たちは協力して文明を進化させることで、危険でもなく飢えることもないような世界を作ろうとしてきたはずだ。しかし、今の世界はどうだろうか。安全な場所だと言えるのだろうか。私にはこの種は進化ではなく、退化をしようとしているように見える。宇宙や自然の法則はシビアだ。私たちの社会の法則がそうした自然の法則と協力しあうことをやめた時にきっと私たちは淘汰されていくだろう。
 もし私たちが種として全員で生き残っていくことが必要だと思うのならば、そのための一歩としてまず私たちができることは、自分の内側を見つめて、そこから自由になることではないか。これまでの常識や理屈などを見つめて、それにとらわれずに様々な角度から物事を想像するようになること。自分の欲望や嫌悪を見つめて、それにとらわれずに物事を正しく見ること。刻一刻と変化する物事をちゃんと見つめて、その原因と結果を思考すること。私たちは目の前の風景のジャメヴュを通じて、移ろいやすい心を御すために、まなざしをデザインしていくことが重要なのだ。

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