サンティアゴ・デ・コンポステラに関するノート

 巡礼という行為は中世的である。キリスト教の巡礼地として有名なのは、エルサレム、ローマ、サンティアゴ・デ・コンポステラの三つである。

 エルサレム巡礼はイスラム教の台頭によって、ヨーロッパのキリスト教とにとっては困難になる。11世紀から13世紀にかけての十字軍の活動で、エルサレム巡礼の道はある程度確保された。

 ローマ巡礼に関して盛んになったのは、カロリング朝、オットー朝の時代である。エルサレム巡礼が危険になってからはヨーロッパのキリスト教徒にとってはこちらの方が容易に巡礼しやすかった。

 近すぎるローマに対して、別の巡礼地を求める気運が高まり11世紀頃にはサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼が盛んになった。

 サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼は最初はその付近の地域の人々に限られていたが、900年にこの町にイリヤ・フラウィアから司教座が移されたことが一つのターニングポイントになっている。記録ではフランス方面からの最初の巡礼は951年の、オーヴェルニュの町ル・ピュイの司教ゴデスカルクであった。

 12世紀にはエルサレムやローマを凌ぐほどの大巡礼地となったが、最盛期の季節が良い月には、この聖都に入る巡礼者の数は1日1000人を下らなかったという。ダニエル・ロッブスの著書「コンポステーラへの道」には年間50万人との記載がある。

 サンチャゴ大聖堂に保存されている「サンチャゴ巡礼案内書」は世界初のガイドブックとでも言える「聖ヤコブの書」の第5部にあたり、巡礼の実用に供する様々な情報が記載されている。

 サンティアゴ・デ・コンポステラが巡礼路の最終目的地であるが、それまでにもよるべき聖地はいくつかあり、フランスの主要な聖地を結びつつスペインへ向かう道筋は4本ある。

 一つはアルルから西行する南フランスの道であり、オロロンからピレネーのソンパール峠を越えてスペインに入る。その他の3本はピレネーの手前で合流してロンセスバリュスで山越えをするルートである。それらは全てプエンテ・ラ・レイナで合流し、そこから西へのサンティアゴ・デ・コンポステラへと続いていく。

 

 
 
 


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