自分らしい在り方について

リンク先の記事の後の現在地。

こんな状態になっていた。

その後、仲間の力を借りて、気持ちが少しスッキリしてきた。

急な自己開示から、急に自分のワールドを語り始めます。


自分は、実は人に対して興味を持つ人だった。

過去記事にも書いた通り、自分は、自然現象とか、テクノロジーとか、自然科学的な方面に興味がある人だと思ってた。

で、人に興味ない人間だって思ってたけど、全然そんなこと無かったみたい。

自然科学的なことにせよ、そうでないことにせよ、
その道で熟達した人、何かに向かって頑張っている人、などに対して感心する。
そして、その分野に対して関心をもつ。
これが、自分の人に対する興味なのだということが分かった。

VIAの上位の強み「希望」「好奇心」「審美眼」が関連している。

その自然科学方面への興味は、あくまで自分が昔から教科として得意だったというだけで、得意だったからこそ、周囲に勝てる面があったり、自分自身の心の支えになっていたと、今となっては思う。

承認欲求をこじらせていた結果はリンク先の記事。

大学生くらいになって、難しくなってくると一気に分からなくなってきたり、あまり探究したいってならなかったり。
身の回りレベルのサイエンスは好き。例えば、科学館や博物館的なところで、解説とか眺めているのとかはすごく好き。でも、それを追求していくという興味ではなかった。

現時点での結論はこれ。
自然科学やサイエンスの部分は、自分にとって「仕事にする好きなこと」ではなくて、それをするための手段の一つに過ぎなかった。


よくある質問:挫折経験は?

自分は人生において、挫折らしい挫折経験を、したことが無い。

何故か?

そもそも、「何としても自分で○○を成し遂げたい」と思って、努力した経験がほとんどない。

これが、挫折らしい挫折経験をしていない要因の一つだと思う。

何かに向かっている人って、うまくいかずにもがいていたとしてもかっこいいなって思うし、某プログラムにおいても、自分の中にその「何か」の種を見つけることを期待していた面があったと思う。


よくある質問:過去頑張った経験は?

それでも、何か自分で掴もうとして、主体的に一生懸命取り組んだ経験自体はある。

  • 高校3年の時、大学受験に向けてスイッチが入り、元々E判定だった大学に合格。

  • 大学に入り、自分の居場所を作るべく、サークル活動に打ち込む。

  • 会社で、大型プロジェクトにおいて重要な役回りを数件完遂。

それぞれのエピソードの詳細は省略するが、共通しているのは「自分にはできるという自信があり、特に不安も無かった」こと。

そう思えた要因の一つが、「何をすればよいか明白で、頑張ればできそう」と思っていたこと。

さらに、主体的に一生懸命取り組む状態に押し上げられた要因には、いずれも「他人から受ける期待」が絡んでいたこと。
これが、自分の中では一つ重要なポイントのようだった。

周囲の期待に応えたい。期待に応えることで、自分の価値を示す。
これは、自分でも気がついていなかったところ。
むしろまだしっくりはきてないけど、過去のエピソードがそれを証明している。


承認欲求すら、実は解放したい。

10代のころは頃は承認欲求を拗らせ、結果は上述のリンク先のとおり。

大学生になり、自分の居場所を得た。
会社員になり、会社に大きな不満もなく(大きな満足はないけど)、会社という場所は自分を受け入れている。

拗らせ具合は軽減されたものの、長年の癖は抜けきることは無い。

自分のことをわかってほしい。
出来るところを見せたい。
自分の能力をわかってほしい。
そんな自己開示が下手すぎる、寂しがりやな自分。

その一方で、そんな承認欲求を解放し、手放すことのできた状態がより豊かな状態になれる。
本当はそんな状態を求めている。

周囲からの期待を受け、それに答えていくことで証明していくこと。
実は、それが、周囲から受け入れられ、かつ自分の価値を示すことのできる状態であり、承認欲求すらも解放した状態になる手段だったのかもしれない。


わたしでも、あなたでもなく、わたしたち。

ある日、上司が言っていたこと。
「○○長だからって、偉くもなんともないよ。そういう役割なだけ。」

この考え方が素敵だと思った。
上下関係は、役割でしかない。

組織に属していなくても、わたしたちには必ず役目がある。


役割:与えられるもの
役目:自ら定義するもの
とここでは捉える。

誰かのために役に立っているとしたら。
それは、誰かのために自分が何らかの役目を果たしているということ。

例え、寝たきりでつきっきりで家族の介護を受ける状態であっても、
家族の愛情を引き出したりしているなら、それもその家族の中では十分な役目を果たしているといえるだろう。

人だけではない。

着るだけでトキメキを感じる服。
それは、その持ち主にトキメキを与えるという役目を果たしている。

身の回りの人・モノが役目を果たしあう状態。
それぞれの役目は、ぶつかりあうことは無い。
役目を果たしあうことで、共存する。
役目を果たしあうことで、環の中の人・モノが活き活きとし合う。

それが、わたしと、あなたが、わたしたちになった状態。

この感覚で居られること。
それが、自分の満ち足りた状態。


「輪」ではなく、「環」。

「環」は、「循環」の環。

その「わたしたち」の状態。
刹那的なものであり、常に形を変えていく。

以前、こんなポストをした。

このドライフラワーは、数年間の時を経て、すでに旬を過ぎ、すでに役目を終えていた。
旬を過ぎた結果、実は家の中で「場所を取っている」という面の方が大きくなっていた。
今までの感謝の意を感じながら、手放した。

これの数日後、たまたまある施設で、「森づくり活動」に関する展示を見た。
その日のことを記録していた。

木々が生えすぎると、日光が木々の頭にしか当たらなくなる。
結果、木々の発育が悪くなる。
地面に草が生えなくなることで食物連鎖的にも悪影響がでる。
土砂の流出が起こりやすくなる。
などのマイナスな事象が生まれる。
要は、森が森としての機能を果たせなくなっていくらしい。

今の日本の森は、高度経済成長期に植林されたものが非常に多いらしい。
それらの森に生えている木々は、本来既に役目を終えており、伐採すべきなんだけど、林業の担い手が減っているなどの事情もあって手つかずになっている場所がかなりの割合を占めている、と。
近年の土砂災害は、その古くなった樹木が流出することで被害が大きくなっている面があるらしい。

そんな展示の横に、木のおもちゃがたくさん置いてある。
それをみて、このおもちゃの素材になった木々は、森の一部としての役目を終え、おもちゃの素材という形として今役目を果たしている。
そんな流れを感じた。
高度経済成長期からしばらくの間は、木々は森に立っていることが自らの役目であり、それが期待された役割であった。
けど、今はその役割を求められておらず、伐採したいと言われている。

役目を終えたモノは、別のステージで新たな役目を果たすことで、世の中は回っている。
本当は、もう役割が無い(=役目を終えている)のに、そこに居座り続けることは、過激に言うと癌になっていくのか。 この流れが滞った先は、あまりハッピーではないのかもしれない。

この展示を目にしたとき、ドライフラワーの体験と同じ体験に思えた。

人・モノの役目には、必ず「旬」がある。
旬の状態にあるからこそ、美しく輝くし、役目を最大限に果たすことができる。

ある役目で「旬」を終えていても、別の役目でまた「旬」の状態になれる。
そうやって循環していくものなんだって。

「わたしたち」の状態も、そのようにして循環していくことで、
中身を変えながら「旬」の状態にあれたら、こんなに美しい状態は無い。
「わたしたち」を構成する人・モノが「役目」を果たしている状態に美しさを感じる。

なんてことを思うようになったわけです。

人にはわかりにくい世界観ですね。


「役目」を見つけ、果たしていくこと。

挫折経験は?の項で、こんなことを書いた。

何かに向かっている人って、うまくいかずにもがいていたとしてもかっこいいなって思うし、某プログラムにおいても、自分の中にその「何か」の種を見つけることを期待していた面があったと思う。

何かに向かっている人って、カッコいい。
そこに憧れを抱いたし、周囲、特に家族にそういう背中を見せたい。
って思ってた。

けど、憧れるだけで、実際はほとんど行動ができていなかった。

今いる場所はコンフォートゾーンと言っても差し支えない。
けど、今後ずっと居ると埃をかぶってくる。
埃をかぶる前に出たい。
そう思ってた。

行動しろ!行動して見えてくる!っていう理屈。わかってる。
けど、この自分の「部屋」の外に出るエネルギーが沸かない。

そのエネルギーがわかないのはなぜなんだろう。
その部屋の居心地が良いから?
確かに居心地は悪くない。
けど、要因はそこじゃない気がする。

よくわからなかった。

一方で、過去頑張った経験は?の項で、こんなことを書いた。

主体的に一生懸命取り組む状態に押し上げられた要因には、いずれも「他人から受ける期待」が絡んでいた

これがヒントだった。
自分の場合は、これではないだろうか。

自分の部屋の外に出るより、人が自分の部屋に訪ねてきてほしい。

一生懸命部屋の外に出るために、
部屋の鍵を探してみたり、行先を考えたりしていたけど、
鍵の在り処を考えても、分からないし、
どこか行きたいなぁ~。どこ行こうかな~。って考えていても、
ワクワクする行先など思いつかない。
結果行動に繋がらない。

そんな感じの自分でも、例えば人から遊びのお誘いを受けるとフットワークが軽いタイプ(と思う)。

自分が行動するためには、それが必要かもしれない。
環境の変化、他人からのお誘い。
自分の外側から来る何か。

思えば、「過去頑張った経験」もすべてそれだった。

自分の周囲からもたらされるキッカケをつかみ、
周囲に対して果たす役目を見つけ、その役目を果たしていくこと。
これが、自分の在り方かもしれない。


自分らしい在り方で居るために。

自分の周囲からキッカケを得るために、
そういうお膳立てを自分でしていくことが必要。

抽象的にいうと、

変化のある環境に身を置くこと。
色んな体験・経験の機会がある環境に居ること、機会を得に行くこと。

周囲の人がキッカケをくれるように、周囲の人にギブしまくること。

そのために、自分の強みをつかっていく。
ということ。

結果、ここに落ち着く。
こうして文字起こししてみると、簡単なことではないけど、結構シンプル。

目指したい先、ビジョンなどに繋がるかどうかとか、そんな打算的なものではなく。

ここに行きついた結果、
「本当にやりたいこと」に自信が持てないとか、
行動して検証しようにも行動する気が起きない、何をしたらいいのかわからないとか、
そういう考えを手放してみたくなった。

これ(再掲)を追い求めることが、自分らしい在り方に思えなくなった。

何かに向かっている人って、うまくいかずにもがいていたとしてもかっこいいなって思うし、某プログラムにおいても、自分の中にその「何か」の種を見つけることを期待していた面があったと思う。

この憧れを手放すという、実験をしてみよう。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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