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セレッソ大阪 30周年のうち約22年を振り返る 2002~2004

セレサポの皆さん、お疲れ様です。

今年はセレッソ大阪30周年。
ということで、普段細々とnoteを書いている身として、何か30周年らしいことを書きたいなぁと思いつきました。

じゃあせっかくなら少し壮大に、30年の歴史を振り返るnoteでも書こうか・・・とも思ったのですが、自分がセレッソ大阪を応援するようになって約22年弱。つまりその前の約8~9年は知らないわけで、そりゃ調べればいくらでも(まるで当時を知ったような感じで)書けると思いますが、自分が直接見聞きしたわけでもない情報を書いても仕方ないなと思い(というか当時をリアルタイムで経験した方に失礼かなと)、今回は自分が経験したセレッソの約22年に絞って、書いていきたいと思います。

やっぱ直接見たり経験したりした方が、当時の温度感を少しでも表現できると思うので。

ほぼ、おっさんの思い出話です。
興味ない方は見ないほうがいいかもしれません。

セレッソも昔は大変なことが色々あって、嬉しいこともたくさんあって、それらを出来る限り噛み砕いて、時に冗談っぽく、時に真剣にお伝えできればと思って書いていきます。

※基本的には自分の記憶を辿りながら書きますが、間違い防止のためにも細かい日付や数字は調べながら書いていくつもりです。もし間違ったことを書いていたら申し訳ないです。

※全ての事象をカバーできているわけではありません。自分が知っていること、パッと思いついたことに重点を置いて書いていきます。ご了承ください。

※私情も挟みますが、あくまで個人的な私情です。特に幼少期の私情は今思うと間違っているようなところも多々あります。が、なるべく当時どう思って見ていたかという視点から書いていきます。ご了承ください。


2002年


小学生の頃に見た2002年日韓ワールドカップがキッカケでサッカーが好きになったので、話は2002年から。

2002年はJ2だったセレッソ。

その2年前の2000年。
J1は当時2ステージ制で、セレッソは1stステージ優勝目前まで迫っていたのに最終節でVゴール負けを喫し優勝を逃した通称:第一回長居の悲劇があったシーズンだ。

そして翌年2001年。この年は一転して下位に沈んで降格を喫するという、いわば「ジェットコースタークラブ」と言われ始めるキッカケともいえるシーズンだった。

そんな中で迎えた2002年。セレッソはJ2だったが、攻撃陣には錚々たるメンツが並んでいた。
日韓W杯日本代表の森島寛晃(現社長)=モリシ、西澤明訓=アキ。
同じく日韓W杯韓国代表のユンジョンファン(2017~18監督)。
後の日本代表、大久保嘉人。

モリシはとにかく走る。ピッチのどこにでも出てくる。今で言うと奥埜みたいな、でも奥埜より前線に特化したタイプ。ポジションはトップ下や、2トップの一角。
走って走って、簡単な決定機は外すけど、度肝を抜かれるようなスーパーゴールは決める。そこが魅力的。あとは右足のアウトサイドでワンタッチで流し込むようなゴールがすごく多かったような記憶。こぼれ球を詰めるようなゴールも多かった。こぼれ球に詰められるのは、いつもしっかりと走っているからなんだろう。

アキはポストプレーヤー。あまり走らないけど、一切当たり負けしないし、ジャンプ力は高くヘディングは強い。そしてボレー職人。とんでもない角度からのボレーを何度も決めてくれた。

ユンさんはいわゆるファンタジスタというか、とにかく柔らかいボールタッチを魅せるテクニックのある選手。今で言うと清武みたいなパスの柔らかさかも。
鳥栖時代と言いセレッソ時代と言い、監督になれば堅固な守備とロングボール多用というお堅い戦術だったけど、実はそんなユンさんも選手時代は超上手いパスの名手だった。決してゴリゴリファイター系ボランチではなかった。これは意外に感じる方もいるかもしれない。

嘉人は若い頃はとにかくキレキレのスピードとドリブルと、そして抜群の決定力。(ストライカーに特化するのはもう少し年齢を重ねてからの話。)とにかくカッコよかった。そして短気でよく怒って相手に報復タックルをかましたり、理不尽な肘打ちをかましたり、審判に暴言を吐いてレッドカードを貰う。ここもまた嘉人の魅力。褒められたもんじゃないんだろうけどw

あとは眞中靖夫というスーパーサブ専門のFWの選手もいた。暴漢に襲われて頭がい骨骨折の重傷を負ったがそこから復活を遂げた選手だ。
美白のロベカルこと根本裕一という選手もいた。根本はその二つ名の通り、左利きのウイングバックの選手。

とまぁ攻撃陣について書いてきたけど、じゃあ守備陣は?となる。
が、守備は正直、全くと言っていいほど重視していないチームだった。
もちろんGK下川誠吾やDFのジョアン、鈴木悟など、個性的な選手はたくさんいたんだけど、とにかく失点が多く、いつも点の取り合いをしていたイメージ。

「ザルッソ」
「破壊の鉄球とお鍋の蓋」
「全員攻撃・誰かが守備」

この辺は、実はこの頃からセレッソの代名詞。今考えても、守備の文化なんてなかったんだと思う。

それでも爆発的な攻撃陣を要していたので、たしかセレッソはこの年のJ2優勝候補だったと記憶している。が、意外とシーズンでは苦戦して、2位を争う時期が長かった。

ネームバリューのある降格組が優勝候補と目されるもシーズンでは苦しむ…という、今にも通じる”J2あるある”だ。

その年のJ2は大分トリニータが強くて、首位を走って一足先に昇格を決め、セレッソはアルビレックス新潟との2位争い。

若くしてレギュラーを務める嘉人と根本がアテネ五輪代表に召集され離脱すると、主力を失ったチームは調子を落としてしまう。そんな苦しい時期もあったが、なんとか踏ん張って2位をキープし、リーグ戦ラスト2試合。

ホーム最終戦で迎えた3位アルビレックスとの直接対決を3-0で制して、昇格を決めた。先制点が嘉人で、そのあとトゥルコビッチが2点決めた。当時のアルビレックスの監督は反町康治。その後ライバルチームの監督として何度もセレッソを苦しめる人だ。

この試合で嘉人が決めた先制ゴールは、今季のスタメン紹介前の動画に映っていたはず。

このシーズンのセレッソにはモリシ・アキ・ユン・嘉人をはじめ、佐藤寿人や久藤清一、布部陽功など、後年Jリーグで(選手のみならず監督やGM、代理人として)活躍する人がたくさんいた。

昇格を決めたアルビレックス戦のスタメン
アキはW杯中から調子を落としてしまい
途中出場がメインだった


2003年


J1に帰ってきて迎えた2003年、このシーズンも相変わらず攻撃偏重なチームだった。

ユンさんと根本は退団してしまったが、前述の攻撃陣に加え、この年大ブレイクし後に徳島ヴォルティスでも活躍する徳重隆明、清水からやってきた大型FWバロン、DAZNの解説でもおなじみのレフティー佐藤悠介あたりが印象に残っている。(ちなみに僕が好きだったのは廣長優志。)
アンバサダー酒本憲幸が高卒ルーキーとして加入したのもこの年だ。

昨年から引き続いて破壊の鉄球とお鍋の蓋って感じの不安定なチームだった。
第2節清水エスパルス戦ではド派手に撃ち合い5-4で勝利。
第5節の浦和レッズ戦では前半11分までに3失点。だが前半のうちに3点を取り返して3-3で折り返すと、後半も撃ち合いを制して6-4で大逆転勝利。
この試合で、嘉人が当時の日本代表DF坪井慶介を振り切って決めたゴールは当時のベストゴールの一つだ。

1stステージはかなり良かったんだけど、2ndステージに入ると徐々に低迷。10人の浦和相手に0-3と大敗したことが致命傷となり監督交代。西村昭宏氏から塚田雄二氏へバトンが引き継がれる。
自分はまだ子供だったし、当時はまだインターネットもそこまで発達しておらず、この監督交代にどういう背景があったかまでは分からない。おそらく、ただの成績不振だったと思う。
この監督交代で少し持ち直して、結局中位くらいでリーグ戦を終える。
このシーズンは30試合で59得点60失点。なんとも派手なチームだった。

天皇杯だけは絶好調。準決勝は長居で鹿島アントラーズを大久保嘉人のVゴールで撃破。決勝まで勝ち上がった。嘉人のミドルがゴールの右上に決まる瞬間を今でも覚えている。ここら辺の時期から、Vゴール(いわゆるゴールデンゴール方式)が日本からも世界からも姿を消していくことになる。今となっては貴重な記憶だ。

決勝の相手は黄金期終盤のジュビロ磐田。グラウに決められ0-1で敗戦。2001年に続いて2003年も天皇杯準優勝。ここら辺のセレッソはいわゆるシルバーコレクターってやつだった。

このシーズンの途中には中田英寿が所属していたパルマが長居にやってきてセレッソと試合をしたことをよく覚えている。後のブラジル代表アドリアーノも来日していたし、たしかこの試合が多田大介や酒本憲幸のプロデビュー戦だったように思う。

(これは完全に余談だが、この年セレッソに在籍していたが全く活躍できなかったアレン?とかいう外国人選手が後年メディアの取材に対してセレッソの悪口を暴露しまくっていたことがあったw)

開幕戦のスタメン
このシーズンは表記は3バックでも
実際は4バックということが多々あったので
もしかしたらこの試合も4バックだったかも。


2004年


2024年が30周年ってことは、つまり2004年がセレッソ大阪10周年に当たるシーズンだった。この年に、チームは改革を断行する。
当時のチーム統括ディレクターだった大倉智氏は前年までの失点多さを問題視し、守備の再構築に取り掛かる。

というわけで手始めに、前年のGKとDFのレギュラーをほぼ全員退団させた

嘘じゃない。本当だ。
下川、喜多、鈴木、ジョアンなど多くの守備陣がチームを去った。
この頃のセレッソにおいて、一回リセットボタンを押して何か違うことをやろうとするのは毎年お馴染みの光景だった。

GKは前年少し出番を増やしていた若手の多田大介に背番号1を与えて守護神に抜擢。DFには、サンフレッチェから元日本代表の上村健一をレンタルで獲得。

そして大倉氏が本格的に東欧路線を導入。(実はその前から少し東欧路線を開拓していた。)
これよって3人のクロアチア人を獲得する。
DFのラデリッチとカブラル、そしてFWのロブレク。通称、三バルカンだ。

最終ラインは3バックだったので、新加入のクロアチア人2名、そして新加入の元日本代表の3人で形成。そしてGKにはデビューしたての若手・多田大介。こういう守備陣だった。

そう、新加入と経験の浅い若手しかいない。だって前年のレギュラーほとんどクビにしたんだから。

前線は問題ないってことでモリシ・アキ・嘉人らがそのまま残った。ここにロブレクや徳重、高卒ルーキー苔口が絡む編成。

そしてこれらを束ねる新指揮官には、これまたクロアチア人のナドベザ・ペーター氏を招聘。東欧では割と実績のある人だったらしい。

2004年開幕戦のスタメン。
配置はところどころがうろ覚えです。
すみません。


新体制で大幅に選手を入れ替え、さぁ新シーズンの幕開け!!

・・・と、いきたいところだったけど、開幕前に問題が起きる。

新監督ナドベザ・ペーターが来日前に狭心症の発作を起こしてしまい、セレッソ側は来日不可能と判断。なんと、来日することなく、1試合も指揮することなく、契約を解除する。

Jリーグ史上、1試合も指揮を執ることなく退任したのはこのナドベザ・ペーターが唯一だそう。まぁでも病気なら仕方ない。

そこでセレッソは急遽、ボスニア・ヘルツェゴビナ人のフアド・ムズロビッチ氏を監督に招聘。この方、ナドベザ氏の旧友だとか。
旧友とはいっても、あの短期間で一体どうやって次の監督を見つけてこれたのかは分からない…。経緯をご存知の方がいたら教えてほしい。当時のマッチデープログラムか12thで、「友人のナドベザのために決断した」というようなことをムズロビッチ氏が語っていたような記憶はある。

メンバーが大きく入れ替わった上に、監督も急遽交代せざるを得なくなって、これはチーム作りには時間を要するだろうな…と、誰もが思っていたんじゃないかなと。子供ながらに自分もそう思っていた。

しかしセレッソは開幕してたった3試合で、いきなり動く。
監督のムズロビッチを解任したのである。

そしてヘッドコーチだったアルベルト・ポボルを新監督に抜擢。この人もクロアチア人だ。

これは当時、とてもじゃないが理解しがたい出来事だった。

たしかに、3試合(リーグ2試合・ナビスコ1試合)で未勝利だったが、先述したように大きくメンツが変わったチームを、急遽就任した監督が率いていたわけだ。そりゃ時間は掛かるだろう。

ネット上の噂では「ポボルが選手を味方につけてクーデターを起こした」とか「フロントに対して「選手は監督ではなくヘッドコーチである自分を最も信頼している」と吹き込んだ」など、いくつかストーリーは浮かび上がったが、どれが本当なのかは分からない。

今もう一度調べ直しても、何が真実かは分からなかった。

とにかくチームはアルベルト・ポボル新監督の下で、建て直しを図ることになる。

しかし、これが地獄の始まりだった。
チームは大きく低迷し、残留争いの泥沼にハマることとなる。

まず獲得したクロアチア人3名。この人たちが全く活躍しない。
CBのカブラルはデカいけどとにかく遅いし、不器用。足元を責められたら何も出来ないで簡単に突破される。失点して頭を抱えている場面しか覚えていない。

同じくCBのラデリッチも、デカいけど遅い。カブラルよりは多少マシかなという程度。

そしてFWのロブレク。そもそもこの選手はほとんど試合に出ないまま退団したので(もちろん無得点)、どんな選手かもわからないまま。(ちなみに、このロブレクとは2011年に対戦相手として運命の再会を果たすこととなる)

そして極めつけは監督のアルベルト・ポボル。
そもそもコイツ誰?
調べても何も出てこないし、経歴も謎だし、なんでこんなのを監督にしたのかって話。

ちなみにナドベザ・ペーターやムズロビッチは(手腕がどうかは不明だが)一応東欧ではかなりの経歴の持ち主で、調べたらいろいろ出てくる。向こうでは数々の名門クラブを率いていたようだ。
でもアルベルトは本当に何も出てこない。どこの誰だか分からない。そもそもなんでこの人がヘッドコーチだったの?

うろ覚えだが記憶を辿ると、たしかアルビレックス戦だったと思うが、相手が1人退場してセレッソが先制するという理想的な流れだったのに、その後何故かDFを下げてFWを投入するなどした結果モリシがボランチをやる羽目になり、バランスを崩して逆転負けを喫するという衝撃的な敗戦があった。

もはやわざと負けようとしてるんじゃないかと、勘ぐりたくなるような時期。正直見ていてまったく楽しくなかった。見に行っても勝った記憶がない。守備は相変わらずだし、攻撃に関してもアキの不調もありスケールダウンしてしまった。

1stステージの最終戦、相手は柏レイソル。
このときのJ1は16チーム制で、最下位の16位柏とその一つ上15位セレッソの直接対決となった。

フロントは「この試合に勝てばアルベルト体制継続で行く」と決めていたようだが、ホームで5-1の惨敗。(このフロントのコメントはWikipediaにも載っているが、当時新聞にも書いてあったのでよく覚えている)
試合終了後、1stステージを終えての最終戦セレモニーが予定されていたが、あまりにもサポーターからのブーイングが酷くセレモニーは中止に追い込まれてしまう。
あのときほど荒れたセレサポを、僕は見たことがない。

結局、フロントはアルベルトを解任した。
そもそも15位で折り返すような監督を、最終戦の最下位相手に勝ったら続投ってのも意味不明だ。だいたい、最初の監督はたった3試合で解任するくせに、次の監督はこんなにズタボロでも続投させる意思があったというのが不思議で仕方がない。

後任には、今でもJリーグではお馴染みの小林伸二氏を招聘。
そして、活躍しないクロアチア人もラデリッチを除き退団。一応その代わりに新しいクロアチア人を連れてきていたが、ほとんど見た記憶がない。(名前だけは憶えている。マリオだ。子供にとっては覚えやすい名前。)
新体制で2ndステージへと進んでいく。

ちなみに2ndステージも大して勝った記憶はない。ダービーに1-7で負けたことはよく覚えている。本当にこのスコアで負けた。

あと今ではあまり考えられないが、2ndステージ第11節浦和レッズとの試合後に、長居スタジアム内でサイン会が実施されたことをよく覚えている。(今思うとチームは降格圏に沈むのにサイン会をよく開催したな、と思うw当時は子供だったのでサインがもらえたら何でもよかったけどw)
確かこの試合では嘉人が相手に肘打ちをかまして一発退場をして、そのせいで「試合中の出来事について話し合い中」とかいう理由でサイン会に遅れて出てきた。きっと裏で怒られていたんだろう…。

明るい話題もある。2ndステージから古橋達弥が加入した。彼はその後のセレッソで大活躍してくれたし、今でもきっとファンの多い選手だと思う。古橋のプレーを見ることが、当時の数少ない楽しみの一つだった。

この年のJ1は16チームだったが、翌年から18チームへ増えることが決まっていた。
つまり18→20へと増えることが決まっていた昨季のJ1と全く同じ。
で、降格枠も昨季のJ1と同じでたったの「1」。通常なら2つか3つはあるところだ。(正確に言うとこの2004年は最下位であっても自動降格ではなく、J2の3位との入れ替え戦があった)

セレッソは確かシーズンのほとんどを最下位として過ごしたと記憶している。残り2試合で、1回でも負けたら最下位確定、セレッソが勝っても他会場次第では最下位確定という、崖っぷちというかほぼ崖の下にいるような状況に追い込まれる。
が、ここから2ndステージの14節と15節(つまりシーズン最終戦とその一つ前)を見事連勝し、最後の最後で15位に浮上。
そう、無事に残留を果たしたわけだ。下から数えて2番目だったものの、レギュレーションに助けられた。

特に最終戦、ビッグスワンでの新潟戦はテレビ観戦ではあったが鮮明に覚えている。
後半40分を過ぎたあたりでPKを獲得し、大久保嘉人がこれを沈めて勝ち越し。決勝点となってギリギリで勝利。
大久保嘉人はマジョルカへの移籍が決まっていたので、これ以上ない置き土産となった。(ホーム最終戦で泣きながら挨拶していたのが印象的w)

というわけで10周年は散々な結果だったがなんとか残留を果たしたセレッソ。
J1で2005年シーズンへ挑むことになるが、これはまた次回、もし需要があれば書いていきたいと思いますw

なので、続きも読みたいと思った方がいれば是非何かコメントいただけると嬉しいですし、正直こういう話はあんまり興味ないかな…って方も是非コメントお願いします。


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