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夕陽に向かって走る

季節柄、夕方と呼べる時間が長くなって来ました。
私は物心ついた頃からずっと夕方が大好きです。空も、街も、時間も夕陽に染まる短い時間が好きです。ただ「好き」というのでは弱いかな。本能的に強く惹き付けられる。誰しも、少なからずそんな感傷を持っていると思います。でも、日暮れ時は淋しいから嫌だと、ネガティブな感受もまた多いのでしょう。

私の寝室には西に窓があります。いや、窓は西に一つしか無いのですが。夏のジリジリした西日を嫌がる声も多いですが、私はジリジリしたって西の窓から夕陽を望めることが嬉しい。因みに、我が家は古いマンションをフルリノベーションしています。その際、窓は全て二重サッシにしました。おかげで現在では真夏の強烈な西日のジリジリ感は払拭され、あの眩しさと明るさだけを部屋に取り込めます。

天気の良い日などは、夕方、何度もこの窓を開けては西の空を眺めます。これも幼少の頃からのクセというか習性というか・・・。

狭い寝室がパーッと明るく


今はもう売却して他人の家が建ち、影も形も無くなってしまった実家。当時、私の部屋にも西に窓がありました。私は小学生の頃、その窓から夕空のレビューが始まるのに気付くと慌てて近くの公園まで走って行ったものです。「何で公園に行くんだ?」が分からないところですが、割と今もそう。近くの土手まで急ぎ足で向かいます。その公園は夏休みにラジオ体操をやったり子供会でソフトボール大会をやったりし、歩いて2、3分、走れば1分も掛からない所にありました。実家の二階の窓から「あっ、夕陽だ!空がキレイ!」と思うと同時にダダダダダダッと階段を駆け下り、サンダルを引っ掛け、公園まで走るのです。そして滑り台に駆け上り空を見上げる、というのがお決まりの動作。

だから、私は知っていました。夕方の空が自分が思うよりもずっと早く移ろってしまうということを。走って公園に向かうのは、その為です。わざわざ公園に行くのは自分でもよく分からないのですが、走って行くのは窓から見たまばゆい空を、茜色の空や雲を、そのままの状態で見たいと思っても、すぐに移ろってしまうと知っていたからです。だから、大抵いつも「ああ、空が変わってしまった・・・太陽が山に隠れてしまった・・・」などとちょっと残念な気持ちで滑り台の上に留まっていることが殆どでした。空はそんなに暗くなるではなし、少しくらい雲の形や色が変化しても綺麗な夕空に変わりはないのだから、残念がることもないと思うのですが、その辺の心理は今もって謎です。

幸か不幸か、子供時分には<寂しい>という感情を知らなかったので、西空の裾に広がる夕焼けにはただただ「うゎー・・・綺麗だなぁー」と感激し、ボーっと口を開けたまま見上げていたものです。

また、こうした経験から(大した経験でもないですが)、先述のように、太陽って結構早く動いてる、ということは何だか昔から頭にあります。

住む場所も、環境も変わった現在、相変わらず夕方になるとそわそわ感が沸いてきます。

私の狭い寝室には小さいサイズのシングルベッドとピアノが有ります。西の窓から夕陽が差し込み、いい感じの眩しい部屋になると、なぜかピアノを鳴らしたくなります。その眩しさに包まれてピアノを弾いているときの幸福感はとてもささやかで、でもとても豊かで、「戦争のない国で良かった・・・」などと、掛け離れた所へ思いが巡ったりもします。


西側に隣接するマンションの向こうには幸い建物も無く、畑が広がり、更にその向こうには土手が。ちらほらと犬の散歩をする様子がうかがえます。私も昨年末に亡くした愛犬とよく土手をブラブラしました。

土手で夕陽を見る(?) 在りし日のナナ


それにしても、早朝の朝焼けに対しては、もちろん「キレイ!!」とは思うものの、夕方の空ほど執着しないのは我ながらどうしてだろう。朝焼けが奇麗だからと、走り出すことは生まれて一度もやったことがありません。

朝陽はやってくるもの。
夕陽は行ってしまうもの。

夕陽に向かって走ったりするのは、自分から遠ざかって行くものを「行かないでー」と追いかけ、何とかこのまま留めたい、といった未練ともいうべき心理でも働いているのだろうか。

さすがに、子供の頃のようにダッシュすることはなくなりましたが、今でもあんまり夕空が気になると畑の間をぬって土手まで早足で向かいます。それをしないときは、夕げの支度の間間にちょくちょく窓から空を覗き見ています。

夕陽がすっかり山に落ちて、山際に赤みを残し空がパープルや藍色に染まって行く様子に、愛犬を亡くしてまだ月日が浅いせいか、最近ではもの寂しさも伴いながら見とれています。


戦争は無くならない。悲惨な現地映像の片隅に夕陽が写ると、私の注意はそこに焦点が絞られます。私が追いかけてしまう夕陽と同一のものが、こんな惨状の地の上空にもあるのだと思うと、子供の頃みたいに無邪気に「キレイだ、キレイだ」と喜んでばかりもいられず、シビアな視力が働き、大人になるにつれ複雑な気持ちで見送る夕陽へと変わっています。

太陽からすれば、ちっちゃな地球上の小さな都市の片隅の小窓から、あるいは川べりからジーッと見つめる私など塵の一粒程にもならない、目にも映らない、フッと吹けば跡形もなくなるような存在です。存在すら曖昧な。でも見上げてるこちらからすれば、よく見える。そんな圧倒的な存在に、絶対にキャッチアップ出来ないそれに向かって視線を馳せ、追い掛けるのってワルくない。
もしかしたら、この世界から<戦争が無くなる>というのも同じなのかもしれません。生き物が存在するかぎり、人類が居るかぎり絶対に争いはゼロにはならないのだ、ということです。それを含めて地球上の営みなのかも。だからこそ、尚いっそう、それに向かって手を伸ばし、追い求め続けて行くことが重要であるのと同時に、それが人類のもう一つの本能なんだとも思えます。


折しも、ふと以前に読んだ城山三郎著「落日燃ゆ」を再び読もうと思い、ひと月ほど前から手元に置いています。何も言わずに全てを甘んじて受け入れ、人生を後にした〈広田弘毅〉に、改めて触れてみたいと思ったのです。

ちょうど夕陽への思いを書いているたった今、そのタイトルに目が行きます。そうか・・そうなんだな・・落日ってひときわ燃えて見えるんだなぁ、と。



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