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【 説教03 】「信仰の喜び」

  これは2022.2.27に、” 人を憎むこと ” について、子供と大人が参加する礼拝で、私がお話したものです。

  「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。 兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。 しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。

ヨハネの手紙 Ⅰ 2章9-11


【 説教 】 約13分30秒

  今日の聖書箇所では、「光の中にいる」、「闇の中にいる」、「闇がこの人の目を見えなくした」と言っています。これらのことは、どういう意味なのでしょう。

  そして、私たちが光の中を歩いているのかどうかを、どのように確認すればよいのか、そのことについて御心を深めていきたいと思います。

  今日の聖書箇所では、「兄弟を憎む者は、闇の中にいる」と言っています。

  闇の中とは、何でしょうか?

  聖書は、兄弟を憎むこととは、人を殺すことだと言っています(ヨハネ8:44、Ⅰヨハネ3:15)。

  どのように人を殺すのでしょうか?

  イエスさまが、ファリサイ派の祈りについて話されているところがあります(ルカ18:9-14)。

  ファリサイ派は、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に2度断食し、全収入の10分の1を捧げています」。

  このように祈りました。

  しっかりと律法を守り、正しい生き方をすることができて、主に感謝を捧げています。けれどもイエスさまは、「この者は義とは認められない」と言われます。

  主がどこを見ておられるのかのポイントを押さえて欲しいのです。

  ファリサイ派は、「ほかの人たちのように〇〇ではない」とか、「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈っていますよね。

  自分と人とを比べているということがわかりますか。

  その言葉は(マタイ12:34b)、「優れた者に劣った者は従うべきだ」とか(Ⅱペトロ2:19)、自分の幸福を確認するために人を引き合いに出すという心の現れなのです。

  そのような人たちは、自分と人とを比べて、肉の業によって人を奴隷にして殺すのです(ローマ1:28、6:16)。肉の業については、『ガラテヤの信徒への手紙』で言われていますね。

  肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。

ガラテヤの信徒への手紙 5章19-21節

  私たちの神は、どのような神ですか?

  『唯一のまことの神』ですよね(申命6:4、ヨハネ17:3)。

  だから、もしあなたが主に従って生きていくならば、見た目だけでなく、その内側も、主の似姿と等しくされていきます(Ⅰコリント15:49)。
  主が唯一であるように、あなたも唯一であるということです。

  人と自分を比べるということは、それを手放すこと、主のもとを離れるということです。神は、そのことを「死ぬ」と言っておられるのです(創世2:16-17、箴言11:30)。

  だからイエスさまは、「私とつながり豊かに実を結びなさい」と言われるのです(ヨハネ15:5)。水の洗礼のヨハネも、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言いますよね(ルカ3:8)。

  「光の中にいる」というのは、神と交わりをもって(Ⅰヨハネ1:6-7)、この御霊の実を結ぶことなのです。私たちはこの実を結んでいるかどうかで、「光の中にいるかどうか」を確認することができます(箴言8:20)。

  それは、どのような実なのでしょうか?

  霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、誠実、 柔和、節制です。

ガラテヤの信徒への手紙 5章22-23節

  以前に「あなたは太陽であるイエスさまの光を受けて輝く、闇夜の月だよ」という話をしたかと思います(創世1:16)。

  それは、「イエスさまとつながることによって、御霊の実にみられる主のご性質が、あなたの人格となって現れてきますよ」ということです(箴言8:17、ヨハネ14:21、Ⅱコリント3:18)。

  聖書では、こういった人格であったり能力であったり、機会(チャンス)、地位や名誉や富などのステータスのことを、賜物とか恵みとか祝福などと言います。

  賜物というのは、イエスさまからの贈り物のことです。
  「あなたに贈り物をしました。あなたはそれを何のために使いますか」。

  主は、そのことに目を配っておられます(サムエル上16:7)。

  肉の王は、権力をふるうために賜物を使います(ルカ22:25-26)、肉の業で自分を崇め、また人に自分を崇めさせます(ローマ1:32)。

  けれども主は、「それを自分の利益ではなく、他人の利益のために使いなさい」と言われます(Ⅰコリント10:24)。その最も大きな利益とは、その人が主を知ることですよね(コヘレト12:13)。

  霊の人は、イエスさまを証しするために賜物を使います。それが兄弟を愛するということです。

   それでは、「光の中を歩いていること」をどうやって確認すればよいのでしょうか?

  こういった話は、お金の話が一番わかりやすいんです。イエスさまも、「だれも神と富とに仕えることはできない」と言われます(マタイ6:24)。

  お金の影響力って強いのです。

  けれども、お金はけっして悪いものではないのですよ。

  意識することは、どちらを主人として、その模範として生きているかということなのです(ヨハネ8:38)。それを御霊の実と肉の業で確認していけばよいのです。

  たとえば、お金を拾います。

  「ラッキー、日ごろの行いがいいからだ」とか、言う人が周りにいませんか。私にも身に覚えがあります(箴言9:17)。

  けれども良いことしたから、お金を拾うわけではないですよね。「ラッキー」と言いますけれど、それは自分のものにしようということですよね。

  それは、「チャンスがあれば人の物を奪ってやろう」とか、「高望みする」という心を育てることに、私はつながるような気がするのです。

  申命記や箴言でも、「地境(土地の境界線)を移してはならない」とありますよね(申命19:14、箴言22:18,23:10)。「与えられた範囲を超えるな」ということです。

  それは「ラッキー」ですか?

  この出来事は、神からの祝福ですか?

  悪の心を育てることになるのであれば(ヨハネ3:19-20)、災いではありませんか(ヤコブ1:14-15)。肉の業に、利己心とか、その他このたぐいのものに貪欲とかありそうではないですか。

  これとは反対に、お金を落として、「最悪、日ごろの行いが悪いから…」というわけではありませんよね。

  ただの不注意です。

  けれども、もし、その不注意が「節約しないとな」という心を育ててくれたとすれば、どうですか。目的を定めて買い物をすることができるようになり、貯金ができるようになったとすれば、どうですか。

  それは祝福ですか? 災いですか?

  祝福ではありませんか。
  御霊の実に、” 節制 ” がありますよね。

  お金を拾ったら警察に届ける人。

  それは、どんな人ですか。

  「馬鹿正直な人」という人もいます。けれども、「なんて誠実な人なんだろう」、「なんて親切な人なんだろう」と思う人もいるとは、思いませんか。

  御霊の実に、” 親切 ” 、” 誠実 ” ありますよね。

  お金を落として、「金なんていつなくなるかわからないんだ」と散財するようになれば、むさぼり・浪費はその他このたぐいのものに含まれませんか。

   お金だけに限らず、自分が何か日常の小さなことを選択するときに、「私はイエスさまを主人としているだろうか」、「御霊の実を結んでいるだろうか」ということを思い巡らせて生きてみてください。

  すべての人はもれなく主の愛を注がれ、神の子として招かれています。けれども、主の愛を受け取ることができるかどうか、主の招きにふさわしいかどうかは、その人がどのように応えたかによります(レビ11:44-45、ローマ2:7-8)。

  主は、アダムに「命の実を食べれば生きる、知恵の実を食べれば死ぬ(創世2:16-17)」といわれました。
  モーセには、「戒めに従えば祝福を与え、道をそれるなら呪いを受ける(申命11:27-28)」と言われました。
  同じように私たちには、「イエスとつながりなさい、離れては何もできないんだよ(ヨハネ15:5)」と言われるのです。

  聖書は、ただの物語ではありません。
  モーセの荒れ野の旅は、誰の旅だったのでしょうか?

  これは私の旅です。
  これはあなたの旅です。

  神に忠実であったモーセとは、誰ですか?

  それは私です。
  それはあなたです。

  神を信じているといいながら、カナンの地に入れなかった不信仰な人々とは誰ですか?

  それは私です。
  それはあなたです。

  あなたも「自分たちの生活にも、こういったことはないだろうか」と、聖書に聞いてください。そうすると、また聞きの話ではなくて、主から直接メッセージをいただくことができます。

  そうはいっても、これは国も、文化も、時代も、立場も、状況も、生活も、人々の関係性も全部違うじゃないですか?

  「ムリ」と、最初は思う人もいると思います。
  けれども、今日のお話だと、こういうのはどうですか。

  たとえば、学校でこういうことはありませんか。

  算数や数学の授業を受けていて「あぁ、わかるわかる」と聞いていたけど、「それじゃ、確認の小テストをやってみましょう」と、やってみると、「あれ、解けない」。

  このほか、朝はあいさつをした方がいい。みんなわかっているのです。けれども少し恥ずかしい、照れくさい、声が小さくなってしまう、私もそうでした。そして、お友だちから「聞こえない」とか言われる。

  ほかにも生活の中でいろいろ思い返してみると、できると思っていたことが、実は、できてなかったということがあると思うのです。

  「そんなのも解けないの」とか指摘されて、「そんなこと知ってても社会の役に立たないし」とか強がったり、すねたりする。

  「言い方が腹が立つ」といいながら、本当は失敗を認めたくないとか、自分が人より劣っていると思いたくない。そういったものが誰にでもあると思います。

  自分の心に聞いてみるとわかります。

  肉の業にありませんか、ねたみ、そねみ。

  あいさつが相手に聞こえなくて、「なに、あの人、あいさつもしないで感じ悪ぅ」と誤解されて、「ちゃんとしたし。聞こえないのが悪い。耳悪いんじゃないの」とまで言ってしまうこと。

  肉の業にありませんか?
  敵意・怒り・不和・仲間争い。

  人は、怒りとか、嘆きとか、損得とか、権力とかそういった感情にかられると、意固地になってしまいます。自分の殻の中にこもってしまうのです。

  「光の中にいると思っていたけど、闇の中にいた」

  わかってる、できると思っていたことが、わかってなかった。できてなかった。そのことが明るみに出されたときに、それに気づいたときに「そんなの認めない」。

  闇がこの人の目を見えなくしたからです。

  闇とは、今日の話では、肉の業のことですよ。こういった私たちの中に働くことのある少し後ろ暗い心のことを、ちょっとはわかっていただけます。

  だから私たちは気づいたとき、主がその覆いを取り去ってくださったときに(Ⅱコリント3:15-16)、「あなたが言われることは最もです」と、主の愛を受け取る努力をしないといけないのです(箴言6:23)。

  誠実に、神と人との平和のために生きるのです。

  だから、こう言った人たちを見かけたらに、「お友だちの闇の覆いを取り去り、御霊の実を結んでください」と、隠れたところで祈ってあげてください。
  自分も意固地にならないように、「肉の業を抜き去り、御霊の実を結んでください」と祈ってください(Ⅰヨハネ1:9)。

  私たちは、聖書で明かされていることが真実であるということを確認しながら生きています(ヘブライ11:1)。それは、「あれっ、こういうとき、聖書では何と言っているの?」と、生活の中で御言葉に思い巡らせることなのです(申命6:4-9、マタイ23:10)。

  そして、「きっと聖書の中のこの辺りだな」と探し出して、「イエスさまならこういうときどうするだろうか」と生活に活かしていくのです(Ⅰコリント1:30)。

  この一週間は、「光の中、闇の中って何?」、「闇が目を見えなくしたって、どういうこと?」、「御霊の実、肉の業、どっち?」と思い巡らせながら生活してみてください。

  すると、見えるようになってきます。

  「もしかして、これのことかな」とか、「そういうことか」とか気づくことあると思いますよ。こういったものを“証し”というのです(ヨハネ5:39)。

  その証しをを探すことが楽しくなってくるのです(ルカ11:9-13、ヘブライ11:6)。そうすれば、エリヤの霊があなたにささやきますよ、「私の主は生きておられる」(列王上17:1)。

  あなたが信仰の喜びにあふれる生活を送ることができますように。

  お祈りをします。


【 祈り 】
   天の愛するお父さん。今日も私たちを教会に招き、主に感謝と賛美を捧げる機会を与えてくださってありがとうございます。

  主がこの朽ちない種を私たちに蒔いてくださったので、あなたの御心を知る喜びに満たされています。

  そして、私たちを通して人々に御言葉の種を蒔いてくださること、その種を芽吹かせてくださることを私たちは喜びます。

   困難な情況が続いておりますが、主は私たちを守り、導いてくださることを私たちは知っています。

  私たちは安心して兄弟たちのために祈りを捧げることができます。私たちを信仰の喜びで満たし、力と霊と強い確信を与えてください。

  この祈りを私たちの救い主であり、主であるイエス様の御名によってお捧げいたします。

  アーメン。

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