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50を過ぎたおっさんが好きだ

僕は21の大学生。50歳を過ぎたおっさんが好きだ。

もちろん、50歳以上の女性も好きだ。彼女たちは(人によりけりだが)、卓越したコミュニケーションを自由自在に操って一気に距離を詰め、時にはお饅頭をくれたりなんかして、荒んだ僕の心を一瞬でほぐしてくれる温かい人たちばかりだ。

フォローさせていただいているnoterさんの記事を読んで、その方の記事の趣旨から全力で話がそれてしまうが、「そういえば、僕は50歳を過ぎたおっさんが妙に好きだな」と思い返した次第。


さて、なぜ50歳を超えたおっさんが好きかと言えば、彼らなりの人生における哲学に魅了されたからだ。

僕は、50歳を超えたバイト先のおっさんたち(4人)と話す機会がちょいちょいある。それは、バイト中や更衣室の中で。



これは、バイトに入りたての時のこと。
(それぞれ別のバイト先です)

「大学生にとってバイトとは自分を知るための社会のひとつであるべきだ」「君は日本を良くするにはどうしたら良いと思う?」
「君にとって野球とは何を意味する?」
「俺は基本的に大学生が好かん。ただ、君のことはよく知らんが、好きになれそうな気がする」

おっさんたちは、平気でこういうぶっこんだ話を、軽い雑談や自己紹介というアイドリングトークを挟まず前振り無しに、僕に話しかけてくる。

最初こそ、「おっさん、やべええ!」と心のうちで引いてたが、あしらうのはさすがに酷だと思い、僕は意を決して問いかけひとつひとつに真面目に返した。



おっさんたちと普通に、哲学的/概念的な会話をするうちに気づいたのだが、おっさんは自己開示がめちゃくちゃ上手い。

コミュニケーションに難ありなのは確かだが、どういう幼少期を過ごし、どういう青年期を経て社会人となり、今の職に就いたのかを落語家さんみたく語ってくれる。

前職は、工場で働いたことや漁師をやっていたこと、銀行に勤めていたことなど、本当に人それぞれで、聞きごたえのある人生で知らない世界ばかりで満足感がえぐいのなんの。

人の人生を一から十まで知る機会はそうそう無い。noteでは見ず知らずの人の人生を容易に覗けてしまえる(そういう場所だし)が、現実で人生を語りだす人は中々いなかった。なぜなら、自分語りは忌避されるべきヤバい人種がするものという共通の認識みたいなものがあるから(僕はそういう人好きだけど)。

でも、僕の出会ったおっさんたちは、自分語りではあるけれど自分の人生にしっかりと向き合ってきたのか思想はブレず、己の哲学を芯にしっかりと据えている。「頭が凝り固まっている」を良い様に言い換えれば、「自分の哲学がある」ということ。

あと、僕がこれまでのnoteに書いてきたような、幼稚な話を真剣に受け止めて、おっさんなりの解釈と哲学を折り混ぜて返してくれる。発する言葉が、含蓄、含蓄、含蓄、の連続で目からうろこ状態。


残念ながら僕は、集中力と記憶力の無いバカなので会話の内容はほとんど覚えていない。覚えているのは冒頭上げた話題と、バブルと令和の経済の話、社会における肉体労働の存在意義と職業に貴賤は無いという話など。


まとめ

考えることが好きな大学生は、是非、バイト先のおっさんに話しけてみて欲しい!

あなたが知らない世界が、きっとそこにあります。

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