遺伝の呪縛について

 ここ最近は人と多く関わる機会に恵まれた。マチアプですれ違いのない世界の女性と会話をしたり、昔の友達と飲みに行ったり、自分から人と関わるろうとすることが苦手な私には新鮮な経験だった。そうして色んな会話を経験してふと、私の言葉をすぐさま理解してくれるのは親だけだと再認識するに至った。そしてこれこそが、遺伝の呪縛の一側面なのではないか。そういう話をこれからする。

 言葉とは自分の生きてきた環境によって形作られるものである。家庭なら家庭の、学校なら学校の、職場、知り合い、そして本を読んだりして自力で獲得した知識によって言葉の素材が収集されていく。すると、自分の言葉が相手に通じるかは、相手がどれだけ自分と近い環境で生きてきたかによって決まる気がしてくる。同じ環境で使われる言葉は、他の同じような環境でも通じやすいはずだ。
 これは思考のくせにも言えることだろう。似た環境にいたものは似た思考を形作る。その最たる例は親と子であり、子が幼い時期の親子はほぼ間違いなく同じ環境で生きることになるので、同じ常識を共有しがちで、同じ思考形態を持ちやすく、したがって阿吽の呼吸のように少ない言葉数で意図した物事を伝えやすくなる。
 例えば今日、私は実家の風呂場でシャワーを浴びていた。するとシャワーが急に出たり止まったりし始め、ドコドコドコと太鼓にも似た断続的な音が響いた。驚いた母親が風呂場にやってきて次のような会話が連鎖した。「何の音?」「シャワーが鳴ってた」「なんで?」「洗濯機水出してた」「ああ」矢継ぎ早に会話が進み完璧に意思疎通が出来たのだ。ではこの会話がなぜ成り立ったのかと言えば、母親と私の間に以下の2点の前提知識が共有されていたからだ。
・家のシャワーの性能が低い
・洗濯機が水を出すとシャワーの出が悪くなる
 これらは私たち親子の常識となっており、完全な文になっていないボロボロの文章でもやり取りが成立してしまったのだ。これが親と意思疎通が図りやすくなる一例である。親とは同じ常識が共有されている割合が高くなるのだ。

 しかし思考形態については、もう一つ重大な影響を及ぼす因子がある。遺伝だ。人の思考には、ポジティブに考えがち、理屈っぽくなりがち、視覚で考えがち、逆に言葉で考えがちといった数多の傾向があり、そういったくせは究極的には脳の構造が原因であり、それは遺伝によって多くが決まるだろうことは、想像に難くないだろう。具体的な研究を紹介したりするのは労力がいるので省くが、蛙の子は蛙であり、鳶が鷹を生むことはまずない。それは遺伝による形質の継承が主な原因であり、子の才能の種は遺伝子に埋め込まれているのだ。そして思考のくせも同様に継承され、親との会話で共鳴を起こして意思疎通を助けてくれるだろう。

 つまるところ何が言いたいのかというと、ある人間が意思疎通できる人間の範囲というのは限定されており、それは生きてきた環境と親からの遺伝によって決定されるということである。人は、自分の周囲のあらゆる事実によって完成されるのであり、己自身で完成されることはめったにないのだ。
 ではもし仮に、今までの環境や遺伝子という呪縛から逃れ、新たな自分を己の手で完成させたいと望むのであればどうすればいいだろう。きっと今いる世界から離れるしかない。自分の知らない環境に身を置き、そこで自分を完成させるしかない。その離れ方も多種多様であり、物理的に離れたり、心理的に離れたり、そもそも心理的な距離は物理的な距離が関係していたり、まあ因果関係を挙げればきりがない。その複雑さに付け込んで怪しい情報商材を売りつけたりする不埒な輩もゴロゴロいる。しかし、新たな自分の始め方には当人にあったやり方や時期があるのは間違いなく、またそれを目指すときの心理状態は不安定で、だからこそ付け込まれやすいのだ。

 そのとき、人間は何を考えるだろう。きっとこう考える。遺伝と環境の呪縛に包まれたまま、馴染みのある世界で生きたほうが安全で楽しいのではないかと。リスクを冒す価値などないのではないか、これは呪縛などではなく、安全ロープなのではないかと。極端なことを言うが、例えば元虐待児がひどい扱いを受けても親のことを諦められない根本には、本能的に自分をよく理解できるのは親しかいないと感じ取っているというのがあるからかもしれない。前述のとおり親が子をよく理解できる確率は高いし、それを手放すのは途轍もなく怖いことだろう。私を理解してほしい。親ではない他の誰かに。でもよく理解してくれる親を手放すこともできない。年を取るほど親に似てくる自分を見て、親への未練を募らせる。なら、あの馴染みの世界で死ぬまでずっと……。

 それが、遺伝の呪縛ではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?